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てのひらを太陽に  4, 3/3



   ;てのひらを太陽に

 上京したことが良かったのかと問われれば、私はなにも言わず頷くだけだろう。
 田舎が嫌だとか、東京がいいとか、そんなことを言いたいわけとは違う。私には、単に田舎での居場所がなかっただけだった。それだけの問題だった。派遣しかなかった毎日に、過去のあこがれの人の面影が夏の木の葉のようにちらついていた。そのあこがれの人も、いまではこの街にすらいなくなってしまった。神谷が去ってからというもの、彼の言っていたことがだんだんとわかりはじめてきてもいた。実は、私は来月終巡頃から開発のほうへと回されることが決まってしまった。いよいよ神谷と同じ(かどうかは正確にはまだわからないが)ステージに移行されようとしていた。内心、ドキドキである。今のテストが終われば、即、移行だそうだ。それまでに、私は現在のテスターの仕事を遂行しつつ、開発のための予習を怠ってはならない立場に追い詰められていた。神谷とは、あれからたまには、メールもする。私が薦めた小説を読んでくれているようだった。再就職のあてもそろそろ決めないと、などと焦っている様子で、彼もいまはいそがしそうだ。

 そんなこんなな日々を重ね、7月もあと少しで終わる。8月。そして、9月になれば開発へ移行。それまでにやるべきことは山のようにあった。就業先の業務にあわせて、オラクルピーエイチピージャバスクリプトの資料を相手にしなくてはならない。そう思っていながらも、神谷に薦めた小説を再読してしまうこともたびたびあるので、どうしようもない。かといって、専門書を開けば、フレームワークだの、プロトタイプだの、技術の枝わかれが無数にあるので読めば読むほどわからない箇所が増えていく。吉村はそんな苦悩する私のことをみながら、「まるで、増えるワカメだね。わけワカメ」などとわけのわからないギャグを言う始末だ。

「大丈夫。西尾なら」
 と言う、神谷の顔が思い浮かぶ。なにが大丈夫なのか。私のどこを見て、神谷はそんなことを言っていたのか、私を励ますための言葉だったのかもしれないし、場をつなぐための言葉だったのかもしれない。参考書だけが手元に増えていき、閉塞感と時間だけがつもっていく。そして、安いジャンクフードを食べながら、参考書を開く私に残されたお昼の時間は過ぎていく。

   ♀

「ひとりじゃできないことをしようよ!」
 神谷と駅で最後の挨拶をかわしたあと、あまりに元気のない私を見兼ねたのか、吉村が私にいった言葉だった。
「たとえば、どんな?」
 せっかく励まそうとしてくれている吉村の気持ちに反して、そのときの私といったら実にそっけない態度でそういっていた。それでも、吉村は、そんな私から見てもなぜだか一生懸命だったのだ。
「たとえば、そう。キャッチボールとか!」
 なぜ、キャッチボールなのか。私たちは若いといっても、もう、いい歳なのに。ツッコミどころはやはりたくさんあったけど、それでも、それは吉村のなぜだか一生懸命さに負けてしまったのかもしれない。

「いいよ。やろうよ。キャッチボール」
 言うが早いか。私たちは近くのスポーツショップに行きグラブとボールを買った。途中、私が買おうとしていたのがグラブではなくミットだということが判明して、吉村に注意される出来事もあったがよくよく考えれば、スポーツショップへ来たのも、グラブを買ったのもその日が産まれてはじめての出来事だった。吉村と出会わなかったら、こんな経験はこの先、たぶん永遠になかったんじゃないかと思う。それから、わたしたちは中川の河川敷でキャッチボールをした。すでに空は夕刻を映し出していて、夕焼けに染まっていた。その空をひとつのボールが宙を舞っていた。いつもの時間とは違った空気が私たちを包み込んでいた。

「なぁ、ニシオ。もう、俺は仕事に選ばれる人生は嫌だ」
 ボールがちょうど、吉村の手から離れた瞬間だった。勢いよく放物線を描き、私のグラブに収まる頃になって私は言った。
「なんの話?」
 私の右手からボールが宙へ放たれた。
「俺は、これからはやりたいことだけやってやる」
 吉村のグラブに収まり、吉村の右手からまた宙へボールは放たれる。
「他人に責任を転化して、それでも、最後に一番後悔するのは自分自身なんだよ」
 私が投げる。
「だから?」
 吉村が受け取り、そして、投げた。
「他人にふりまわされてなんかじゃダメだ」
 カチンときた。いつ、私が他人に振り回されたというのだろか。
 グラブに収まったボールを、私は少しだけ勢いを増して投げ返した。
「自分のことは、自分で決めてるよ!」
 力を込めすぎた。
 ボールは吉村の高くない頭上を通りこして、彼方に流れていてしまった。
 あぁ・・・。

「なにやってんだよ、ニシオ!」
 もう、すでにはるかまでいってしまったボールを追いかけ、吉村は追いかけていった。

   ♀

「それは間違っているよ西尾。向いているか、向いてないかの問題じゃない。やりたいか、やりたくないかの問題だろ?」
 冗談で言ったつもりだった。いや、冗談ではないにしろ、本気ではなかった。
 いや、冗談なんだけど。などとは言えず、私はちょっぴり後悔したりもした。
「簡単に向いてないとか言うなよ」

 駅での別れ際の話だ。
 私はつい、神谷でも無理だったのに、私なんか向いてないに決まっている。と言ってしまったのだ。
「そうだ、じゃぁ、西尾」
 最後にひとつだけ、やらなきゃいけないことを教えてあげようと神谷が言ったのだ。
「どんなに悲観的になったときでも、また、弱音をはかないために、ひとつだけやらなきゃいけないことを教えとく。西尾が不安になったときでも、西尾が経験してきたことや、努力は西尾を裏切らない。だから、西尾。不安に感じることがあれば、本を開くんだ」
「本を開く?」
 神谷の顔を見ながら私は訊いた。
 神谷は、そして、私をまっすぐ見ながら、言った。
「知識をもつことは自由になるための唯一の方法だから」

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