INITIALIZE ORIGINAL NOVEL


menuindexbacknext

はじまりの記憶  7, 2/3



 ♀


 雪が積もってはいるが、降り止んでいるのがせめてもの救いだった。雪に覆われた元旦の空を青空が照らしている。元旦早々、ミイコちゃんの母さんに会いにいくなんて、正直、行儀が悪いということも知っている。それでも私は家を飛び出していた。ミイコちゃんの家にはそうたいして離れた場所にあるわけではない。歩いて十数分といったところだ。幼かった頃。よく、私とミイコちゃんはミイコちゃんが住む団地の公園で遊んだ。そこには、ブランコがあり、砂場があり、滑り台があった。学校帰りの夕暮れ、学校近くで買った駄菓子を食べながら、そこで遊ぶのが私たちの日課だった。それが今では昔の話だ。
 団地の一角にあるミイコちゃん家に辿り着いた頃には、私はいい塩梅に緊張していた。幼かった頃は、もっと、こう、なにも考えずに呼び鈴を鳴らせたというのに。なぜ、こうも大人になってできなくなることが増えてくるのだろう。なにも考えず素直に笑いあったり感動したり、そういったことのひとつひとつが大人になって忘れていく。意思を固め、私は呼び鈴を押した。扉の奥から遠く、はーいという声が聞こえる。足音が近づき、そして扉は開いた。

「ぁ、あの、西尾です。西尾刹那です」
 突然のことに、私は頭を下げてミイコちゃんのお母さんに挨拶をしていた。
 反応が返ってこないので、ゆっくりと頭をあげると、そこには感嘆したような、いやどちらかというと感動しているような頬を赤く染めたお母さんの表情が見えた。
「刹那ちゃん? 刹那ちゃんなの?」
「は、はい。ご無沙汰してます。あの、・・・」
「久しぶり! 何年ぶりかしらね。こんなに美人になって。東京に仕事しにいってるんですってね。お母さんからよく聞いてるわ。どう、向こうで彼氏でもできた? ・・・あら嫌だ。歳くうとまったくセクハラオヤジになっちゃって。まぁ、いいわ。玄関先じゃなんだから、汚い部屋だけどあがって、あがって」
 幼かった頃。私はミイコちゃんのお母さんとどうやってコミュニケーションをとっていたのか。今になってその方法を必死になって思い出そうとしてあきらめた。
「お邪魔します」
 玄関を抜けて、居間までくると、そこにはお徳用のペットボトルに入った日本酒がでんとコタツの上を陣取っていた。そして、おでんがよそってある皿がひとつ。
「私って、もう駄目ね。女として終わってるかしら」
「そんなことないです。私がまえもって連絡しないでいきなり来たから。よかったら私も食べていいですか? おでん」
「・・・もちろん。散らかってるけど適当なところに座ってて」
 苦笑していたお母さんの表情が少しだけ和らいだ気がした。上着を脱ぎ、コタツのなかに足を埋める。日本人に産まれてきてよかったなと思える数少ない瞬間だ。手がじんじんとしている間に、こぶまきと大根、ジャガイモ、ちくわにたまごとはんぺん。一通りのおでんの具をお皿いっぱいに盛ってきたお母さんが言った。
「家のおでんは商売できるほどだから、いっぱい食べてってね」
「すごい! こんなにいっぱい。朝食抜いてきてよかったかも」
「ダメよ。刹那ちゃん。朝食抜いちゃあ、身体に悪いわよ? おあずけ」
「・・・あぁ、いゃ、そんな殺生な!」
「冗談、冗談。飲み物はなんにする?」
「いやだなぁ。おでんといったら、決まってるじゃないですかぁ」
 目線だけでお母さんにちらっちらっと合図を送るとわかったとお母さんは言った。
「オレンジジュースね?」
「違います。日本酒。私だって飲めるようになったんです!」
「冗談。冗談」
 酔いのおかげなのか、久しぶりに見るお母さんの表情が明るい。
 コップをもってコタツに潜り込むと、お母さんが私にお酌してくれた。
「おっとっと。いっぱいいっぱい」
 お店では熱燗と御猪口の分量だが、いまはお徳用1.5リッターペットボトルから遠慮なしにグラスいっぱいいっぱいまで注がれる。
「子供にはちょっと量が多かったかしら?」
「子供扱いしないでください。このくらい平気です!」
 意地になってはみたものの、はたして飲みきれる量なのだろうか甚だ疑問だ。こぼれそうな日本酒をこぼれないよう気をつけて口につける。食道をとおり、胃の壁づたいに熱がながれる。瞬時に気化した日本酒が鼻腔を抜けて熱い吐息が疲れとともに身体の外へと追い出されるかのようだった。
「いいのみっぷり。家の常連さんよりいいのみっぷりって飲みすぎ!」
「このくらいどうってことないですよ?」
 気づけば知らないうちにグラスが空になっていた。
「驚いた。ぜんぜん酔わないのね?」
「これでも強いほうなんです。鍛えられましたから」
「へぇ、誰に?」
「今、ルームシェアしている同居人にです」
「オトコ?」
「みてくれは女ですが、一応は男ですね」
「ねぇ、それってさ。同居じゃなくて同棲なんじゃない?」
 おかわりをした日本酒が喉の奥で逆流した。やはり、量が多かったのだろうか。それとも動揺、・・・なわけがない。
「ゲホ、ゲホ、ゲホ・・・」
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫です。こんな、こんな程度、全然大丈夫れす」
「全然大丈夫じゃないよ。日本酒は後から酔いが回ってくるんだから調子乗って飲むとあとがふらふらになるよ?」
「す、すいません・・・」
「まぁ、進めた私も悪いんだけどさ」
「そんなことないです。お母さんはちっとも、なにも悪くないです」
「ふぅ、・・・ありがと」
 背中をさすりながら、苦しく咳をもらす私にお母さんは小声で言った。
「未依子も、生きていれば刹那ちゃんぐらいなんだよね。・・・ごめんなさい。こんな日に辛気臭いわよね」
「いえ、いいんです。ミイコは私の一番大切な友達ですから」
「ありがとう。そう思ってくれていれば、未依子も天国で報われるわ」
「ミイコは私の憧れだったんです。ミイコは言ってました。いつかお母さんと小料理屋をやることが夢なんだって」
「ごめんなさい、刹那ちゃん。もう、いいの。全部、終わったことだから」
「ミイコは私のないものを持っていて、私の知らないことをいっぱい知っていました。人の思いやりとか、夢とか。私がいままで気付かなかった言葉にできないとても大切なことを」
「終わったの。やめましょう? 終わったことなんだから」
「できるなら、私、もう一度、ミイコときちんと会って話がしたかった」
「ねぇ、もうやめてよ」

 部屋にお母さんの悲痛な声が響いた。
「もう、終わったことなの」
「・・・終わったことを振返っちゃダメなんですか?」
「前に進むためには障害なだけよ」
「私はそうは思いません」
 お母さんが私の肩をつかみ、顔が合った。ミイコちゃんのお母さんは顔を苦痛に歪ませていた。私は私が知らないうちに泣いていたようだ。涙がひとつ、ふたつ。とめどなく流れていた。止めようとしても止まらない。
「振返らなくちゃ、ミイコちゃんが私にくれた言葉のひとつひとつがなくなっちゃう。なくなっちゃうんです! 生きたことが思い出だけしか残らないのなら、私はそれでいい。でも、私がミイコちゃんからもらったものは思い出だけじゃないんです。ミイコちゃんの言葉がひとつひとつ、私のなかに生きてるんです」
 無言のうちに、肩をつかむお母さんの手から力が抜けていった。私に背を向け、そして言った。
「あなたのなかに、未依子は生きているのね?」
 泣きながら私は、はいと言った。
「じゃあ、伝えといてくれる? 刹那ちゃんのぶんまで、未依子も生きてって。そして、もう、二度と、振返らないで。後悔しないで。後悔したら、振返ったらきっと、いなくなってしまうから」
 いつの頃からだろう、私が故郷を捨てたわけでもないのに居場所がないと思ったのは。私は、こんな私は今頃になって気付いたのかもしれない。それはきっとミイコが死んでからだ。だから私は必死になって無意識のうちに振返らないようにしていた。ミイコちゃんの思い出と言葉とそれだけを胸にミイコちゃんが死んだという事実を振返らず、自分のなかにある時間を止めていたのだ。振返ることもしない。後悔することもない。ただ、私がいるこの場所だけが私しかいない場所になっていた。今になってはっきりとわかった。故郷が私を捨てたんじゃない。私が故郷を捨てたのだ。一番の親友の死という事実とともに。私は、私が空っぽになっていたその事実は、ここにいる私の時間が止まっていた証拠だった。私はここにいては前へ進めない。一歩たりとも。派遣の頃、そして、上京するまで、私の時間は止まっていて、吉村と上京し、神谷とあって、あの頃から、ゆっくりと私のなかで私とミイコの時間は動き出したのだ。

next page


menuindexbacknext
+ INITIALIZE -
Copyright warning All Rights Reserved.