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泣き止んだ私に、ミイコちゃんのお母さんはやさしく言った。
「なにかあったらいつでもまた遊びに来なさい。それと今日は取り乱しちゃって悪かったわね。はぁ、・・・まったく。歳を重ねると悪いことだけしか思い当たらなくなる。いつかきっと、そうね。刹那ちゃんがその同居人といっしょにまた戻ることがあったら、そのときはお母さん、ご馳走つくってまってるわ」
「今日は本当にすみませんでした」
玄関先で私は訪ねてきたときよりも深く頭を下げた。
「やめてよ、お願いだから頭をあげて」
「私、勝手なことばっかり言って、一方的に困らせて、なにがなんだか。私にも抑えきれなくて、失礼なことばかりで・・・」
「それはきっと、あなたじゃなくて、あなたのなかにいる未依子の仕業ね」
頭をあげた私に、お母さんがにっこりと微笑んで答えた。
「私は死んでなんかいない。刹那のなかでちゃんといきているんだ! きっと、そう私にいいたかったのよ」
「でも・・・」
「いいから。納得いかないんだったら、若気の至りってことにしときなさい。あなたのことだから、まだ他にも誰かを待たせてるんでしょう?」
私は驚いた顔でお母さんを見上げた。
「職業柄ねわかるのよ。それに、私は未依子の母よ?」
私はなぜだか急にうれしくなり、また頭を下げた。団地を抜け、南湖公園へ向かう道すがら、空を見上げると、どこまでも高く、蒼く、見渡す限りの雪の大地に空はあまりにも広大だった。
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足を雪にめり込ませながらようやく辿り着いた。予想通り、南湖公園には誰もいない。時間が時間だけにすでに帰ってしまったとも考えられる。背後にある木の陰に誰もいないことを確認する。神谷だったら、待ってくれているはずだ。なんの根拠もないのに私にはわかる。神谷なら帰るはずがない。考え直し、私は青空のあふれんばかりの光を反射する湖に視線を移した。故郷はなにも変わっていない。それはたしかなことだ。光輝く湖を見るたび、故郷を思うたび、思い出が霞むのは私の記憶が遠くへいくのは、私が変わったということだろう。私は変われる。変わってしまう。止めたはずの時間はもう、動き出していた。誰にでも訪れるその瞬間は、いつか誰にでも気付かぬうちに過ぎ去ったものに変貌する。後ろ髪がない変われる瞬間は既に私に訪れていた。
「遅いよ、西尾」
懐かしいその声。振り返るこの瞬間。上京する以前、私と神谷が待ち合わせていたいつもの場所。
振り返ると、木陰からあらわれた神谷が私を見つづけていた。
「やっぱり、待っていてくれていたんだ?」
「待つのはいつものことだから。専門学校にいたときから、上京してから。俺はいつだって西尾を待っていた」
「なにそれ?」
「いや、・・・なにそれって訊かれても。よくあるじゃん、ドラマとかで格好良く言うセリフ」
「似合わないよ神谷には。神谷は私のことなんか気にせず前をつっぱしってもらわないと。その後を私が勝手に追走する。そうだったでしょう?」
微笑む私に、神谷は頭をかきながら言った。
「なんか、西尾、俺が帰郷してから印象変わったな」
「神谷だって変わったよ。誰だって変わったことに気付かないだけ」
木陰にいる神谷が苦笑した。光に満ちた私のいるほうへと足を向けるその姿は、私が知っている神谷ではもうなくなっていた。
「いつのまにか、俺は抜かれてしまったのかな。今の西尾なら俺が追走したくなった」
「似合わないよ、神谷には」
そう言う私も、もう神谷を昔のような憧れの意識で見れなくなっていた。
「私は私のやりたいことをやりたいようにやる。そう教えてくれたのは神谷じゃない?」
「俺が?」
「専門学校を卒業して、勝手に上京して。私がどんな思いで2年間を派遣で潰したか。神谷にはわからないよ」
「・・・そういう、西尾だって、俺がどんな思いで2年間、上京して仕事してきたかわからないはずだよ」
「人って簡単に変われないね。終わったことをいつまでも後悔してる」
「そうだな。でも、後悔しているから今度から間違わないように気を付けることができる」
「私は後悔しながら、また同じ間違いをしそうで正直こわいよ」
「東京は、どうだ?」
私はなにもいいかえせなかった。
「仕事は、どうだ?」
再度、神谷が訊いてくれたとき、私は神谷に背を向けて南湖に視線を向けていた。そこには木陰の落ち着いた温もりはなく、波の狭間に揺れるいくつもの光の破片が無限に、そして永遠と続いていた。
「会社、潰れたんだ。ただ、それだけだよ。たった、それだけのことだよ」
「・・どうするんだ、西尾?」
「私は帰らないよ。帰郷なんてしない」
神谷は小さく、そうかとだけ言った。
いつか帰るなんて今の私には言えなかった。
言えたところで、その言葉の意味がなんの意味すらもたないことを私は知っている。
帰る意味がない。それは同時に私の居場所はここじゃないことだった。
たとえ、上京して仕事がなくとも、私の居場所はもうここにはないのだ。
「なぁ、西尾!」
神谷が叫んだ。
「居場所がここにないとか、思うなよ!」
「居場所ってな、立っている足元がいつだって唯一の居場所なんだよ。上京だの、帰郷だの、関係ない。いつだって、今いる足元が、居場所なんだ。だって、西尾は西尾だろ? 居場所で西尾が変わるのかよ? 変わらないよな。だから、俺は待ってる。この場所で」
私は今どんな顔をしているだろう。振り返りたい。神谷の場所に。でも、・・・。私は迷っている。そして、迷っていた。
「俺の勝手だ。どこにいようが、俺の自由だ。誰にも文句はいわせないさ。だって、俺はここに今、立っているんだからな」
そうして、神谷の声は最後になった。
「じゃあな、西尾。いつかまた会って酒でも飲んで。そのときは東京のこと、俺の知らないこと、いろいろ教えてくれよ」
私は振り返ることはなかった。神谷の足音が遠ざかっていく。湖の波の音にかき消されてしまう頃、私はひとりになった。
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「じゃあね、おじいちゃん。おばあちゃん」
駅のホームで私は見送りに来てくれたおじいちゃんとおばあちゃんに別れを言った。
「また、連休になったらおいで」
弱々しく、だが暖かく。おじいちゃんとおばあちゃんの言葉が胸にしみる。
「また、来るよ。いつか」
微笑むその顔を、私は胸にしまった。いつ戻ることがあるだろう。そう思い返してみる。
わからなかった。いつ帰郷したくなるのか。それは単に帰郷するだけの意味なのに、私にはそれ以上に感じてしまう。
発車を告げるベルが鳴り響いた。手をふってくれる祖父、祖母に、私は手をふった。
いつか、また、いつか。戻ってくる私はどんな私になっているだろう。神谷のようになっているか、私を貫き通しているか、それとも変われない頃に戻るのか。自分の足元が唯一の居場所だといってくれた神谷から昨夜携帯にメールが届いた。
> Subject: せいぜいがんばれよ、イタチゴッコを
> 元気か? 西尾。
> あれから、勝手に帰って悪かったな。
> ろくな言葉もかけてやれなくて、こうしてメールだけですませるのは
> 自分でも情けないと思う。俺が帰郷したとき、俺の居場所は完全に
> なくなったと自分でも思った。
> そう思ったからかな。西尾にあんなことを言って。
> あれは西尾じゃなく俺自身に言った言葉なのかもしれない。
> いつか帰ってくるときがあったらまた知らせてほしい。
> おまえのいる場所はイタチゴッコだ。常に日進月歩。
> また会える日まで。がんばりすぎるなよ。
簡潔でいて、必要最低限で、それなのに神谷の言葉がいつまでも頭の中に残っていた。
振り返れたあの瞬間。もし、私が振り返っていたら。私はきっと後悔していたはずだ。
「せいぜい、がんばるよ。イタチゴッコを」
パタンと閉じた携帯をいつまでも手のなかに。窓の外を眺める。暗く、どこまでも暗い。
田園風景のその雪の草原に月明かりだけがぼんやりと反射していた。
どこまでも続くその景色を、私はいつか心残りに感じるのだろうか。