INITIALIZE ORIGINAL NOVEL


menuindexbacknext

ギャグショー  8, 2/4



   ♀


 いつか、そう。あれは神谷が帰郷してすぐの頃。私と吉村は今と同じようにキャッチボールをしていた。あの頃は夕焼けに染まった空に白い軟球が宙を舞っていた。感傷にふける私に、休日の青空のなかを舞う白い軟球がグラブに吸い込まれるように飛び込んできた。”ぽすっ”という音とともに確かな手応えを実感して、私は吉村に語りかけた。

「なんで、仕事辞めちゃったの?」
 また、その話か。吉村の声を聞かずとも顔にはそう書いてある。
「気のみ気のまま」
 私が投げた白い軟球が夕焼けの空を縫って吉村のグラブに吸い込まれる。吉村はいいかげんにしろといいたげに投げ返す。
「要はさ、根性が足りないんだよ。また、私のヒモになるつもり?」
「いいねぇ。ヒモ。先進的で、健全的で、それでいて衛生的でもある。なんなら、俺、今日から主夫になるよ」
 私はボールを投げる姿勢から言った。
「はやく、次の仕事、見付けないとね。このままじゃ、吉村、私のヒモだよ?」
「そういう、ニシオはどうなんだよ? 今の仕事順調なのかよ?」
 背が低い吉村はどうしてもボールを受け取るとき顔を上に向けてしまう。それは、私が故意にやっているからであり、ちょっとした悪戯だった。
「いいよ。続けられそう」
「そうか。それは、よかったな」
 いつまで・・。青空のなかを舞う白い軟球を見つめながら、私は思っていた。私たちはいつまでこんな大切な時間を共に送ることができるのだろうかと。『いつだって、たのしい時間はあっという間に過ぎていく』吉村の書いた小説のなかにあった言葉が脳裏をよぎる。いつだって、たのしい時間はあっという間に過ぎていく。誰だっていつかは知るのだ。好奇心を失い、日々の繰り返されるパターン化された魅力のない毎日に。いつかはこんな生活から抜け出せると自分自身に言い訳を繰り返しながら。根拠のない葛藤だけが、ひとりきり胸に沁みる日々だった。気付けば、たのしい時間はいつだって終わっていて、そして同時に誰かが必ず止めをさしにくる。悪い夢のなかにいるようで夜は明けることがないと信じて疑わなかった。たのしい時間はあっという間に過ぎていく。それが事実ならば。私は倦怠にまみれたなかでひとつの逆転の発想を思いついた。たのしい時間はあっという間に過ぎていく。もしも、これが事実ならば。私はいつしかこう思うようにしてみた。たのしい時間はあっという間に過ぎていく。ならば、たのしくない時間を無理やりにでもたのしいと思えるようになれば、どうだろう? 時間は早く過ぎるのではないかと。そして、もうひとつ。私が嫌なことを楽しめば楽しむふりをするほど必ず誰かが邪魔をしにくるはずだと。楽しくないものを楽しいものとして芝居をすれば、楽しいものを楽しくないものとして芝居をすれば、あるいはもしかして・・・。必ず止めをさしにくる。誰かはわからないが私にはそんな予感があった。信じるものがなく、頼るものもなく。だから、きっと私にはためらいというものをしばし忘れていたのだ。


 私は、愕然としていた。吉村が投げたボールを受け取りそこない、落としてしまった。
「なにしてんだよ、ニシオ」
「ごめん」
 吉村は全てを知っていた。他人である、私のことを派遣のあの頃から理解していたのだ。あらためて、吉村の洞察力に驚かされる。すべては後になって気付くもの。私の考えが私のなかで結末を向かえるその日まで。
「これから、私は生きていく。自分に嘘をつき、他人に嘘をつき。そして、自分が誰なのか、わからなくなるまで。だが、それが、私にとって次の一歩となるのなら。私がいつか振り返るときがくるまで。私は私を止めることをしないだろう」
 私は軟球をグラブのなかで握りしめながら、考えていた。あのとき。・・あのとき、吉村は最後にこう言った。
『いつになるにせよ、俺は俺が決めたことに従うだけだから。そういって、最後までついてきた吉村は私に言ったのでした』
 そして、私は確信した。吉村がいなくなる、その日が決して遠くないことを。


   ♀


 私の確信は正しかった。
 あれほどなかのよかった私と吉村の関係は、たった一通の置き手紙を最後に終わりを迎えた。
 数週間後の休日の遅い朝。目覚めてダイニングにいくとやけに静かなことに気付いて、吉村の部屋をのぞくとそこには吉村の身の回りの品がはじめから存在していなかったかのように忽然と消えてなくなっていた。代わりに机の上に残された吉村の手紙だけが私に吉村が去ったことを伝えていた。なにも考えられず、なにも考えたくもなかった。その日がこんなにも早く訪れるとは、私には受け入れることができずにいた。ただ、呆然と、吉村の机に置かれた手紙を手に、吉村が使っていた椅子に座って直筆の文面をゆっくりと追っていった。



> 前略、西尾刹那様

> 西尾がこれを読んでいるということは、すでに俺はいなくなっているはずです。
> 急にいなくなってしまって、ごめんな。理由はあってないようなものなので、
> ここには書かないことにします。西尾も一緒にいてわかっていると思いますが、
> 俺はダメな人間です。仕事ひとつ、まともに続けられない。
> あんまりにも、西尾といることが楽しくて、東京までついてきてしまいました。
> 派遣の頃に出会った西尾を最初に見かけたとき、俺は正直、一目惚れをしていたの
> かもしれません。俺は誰よりも西尾のことをわかっていたつもりです。
> ギャグショー。あれは、西尾のことを書いた、俺の駄作のほんの一部です。
> ギャグのような小説。小説にすら届かない、小説。だから、ギャグショー。
> 笑えるだろ。こんなことしか書けないから、俺はダメなんだろうな。
> 俺もそうだが。西尾だって小説とプログラムの才能、素質はほとんどないけどな。
> 辞めなければ結構いいところまでいけると俺は思うよ。そのときになったらさ、
> お互い、胸を張ってまた会えたらいいな。俺はもっと自分を知りたくなった。
> 西尾が教えてくれたんだぜ。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
> いつの日かまた、会えたときはお互い胸を張っていられるようになっていようぜ。
> 最後に、俺は西尾と会えてたのしかったよ。
> 
> 気のみ気のまま。ダメな男より。



 手紙を読み終えてしばらくしても、私は手紙を手に椅子から立ち上がることができなかった。なぜ、私の大切な人は皆、離れていってしまうのだろう。ミイコちゃんも、神谷も、吉村も。私、ただひとりを残して。残して。・・いなくなる。大切な人が。ポタッポタッと吉村の手紙に水滴が落ちた。それが私の涙だと気付くのに時間はかからなかった。
「私は、ダメだよ。ひとりじゃ、生きていけない」
 嗚咽が混じりながらも私は、無意識に言葉にしていた。
「どうして? どうして、みんな、私のまえからいなくなるの?」
 部屋に私だけ声が弱々しく響いた。

next page


menuindexbacknext
+ INITIALIZE -
Copyright warning All Rights Reserved.