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クソッタレ解放区
vol_1.2 ココはクソッタレ、クソッタレ解放区
「君のママは弾けちゃったよ」
耐えられなくなった膝は砕けて床の灰色のカーペットに沈んだ。
呼吸をするだけで肋骨が軋む。自力の軸がへにゃりとなさけなくまがり“く”の字へ形を変えその後味を、喉を突き破った血痕が口の中とカーペットを侵す。僕はこらえきれなくなってありったけのものをぶちまけた。
新血の鮮やかな赤とヨダレのような無色の吐露りとした体液に雑じり、白い固形物がたれ落ち、その固形物の根元には歯肉片にうずもって染色体のような細い神経がちぎれてしぼんでいる。
「害虫がとでも思ったか?」
愁の一撃は僕の顎を捕らえ髪が逆さまに跳ねた。その一瞬で体の軸ごと精神をもっていかれた。
すべては金縛りにあった次の瞬間に起きたのだ。考えられるだろうか、たかだか数秒の出来事で僕の体は宙を舞い、床へとつく一瞬、僕の精神と身体を疑うほどの鋭さで貫いたのだ。愁の拳に僕は避ける事も、ましてや自己を守ることさえできなかった。ただ愁の拳により全てがねじ伏せられたことだけがはっきりとわかる。こいつには一生、勝てない。背骨から痛みと殺されることへの実感がジンジンと時差ををおいていたぶるように染み込んでくる。まるで自制心ではどうしようもできない、極寒の海へ素っ裸で飛び込んで、血の気が引いていくように、自然と身体が生気を失っていく。
「僕はベッドに上半身だけしか起こしていない。君は甘く見ていたんだろ。いつでも殺れるって。あの状態で先に手を出さなかったのが敗因だよ。僕だってあの状態からやられたらかなわなかったのにね。君が一方的に殺ってくれれば僕は殺られていたよ」
喉の奥、腹の底から内臓物がむせかえり、それを必死になって押さえ込んだ。眉の間にシワがより涙が左右にこぼれ落ちる。呼吸が数秒遅れて返る。
「正登。君は愚かな人間だよ。母親というものがありながらその有り難さに気付かないなんて。そうして今になって、なくなったことで腹を立てるなんてな。君は最低の人間だよ。人間のクズだ」
涙が幾つもの跡を追ってこぼれ落ちた。体が嗚咽の敏感に触れて揺れ癇癪を起こすように僕は泣いた。
雨音に負けないほどの嗚咽と今になって気付かされた悲しみが僕を包んで闇に沈ずめようとする。
母は殺された。愁の手によって。
「母さんに会いたいかい?首を出せ、逢わせてやる」
愁の腕は黒く染まっていた。暗闇には血なのか判断がつかない。
「あぁ、逢えないか。正登は地獄へ、正登ママは天国だからな」
低い鳴声が聞えた。悪魔が笑って僕の頭髪を鷲掴みにして、荒く持上げ、覗き込んだ。そして微笑んだ。
「君も死にたいか? 死にたかったら殺してあげるよ」
僕は耐え切れなくなっていた。裂けて空気がもれる喉のことも忘れて怒鳴る。その瞬間に穴から一瞬だけ血が吹きだした。もう僕にはなにがなんだかわからない。ただこのまま死ぬのは嫌だ。せめてこいつを道連れにすると、脳味噌の片隅で決意した。
「どうして殺した!! どうして僕にこんなことをする!!」
愁の顔は僕の発した鳴声に糸の切れた操り人形のように無表情へと変わった。鷲掴みした拳を床へ叩き込む。眼球の奥に痛みが走り、鼻が折れる。軟骨が潰れた音を産まれて初めて聞いた。
「君がやらせたんじゃないか。正登。貴様がすべてやらせたことだ」
生暖かい生きた人間の息が首元へとあたる。
「君がやらせたんだ」
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「うわあああああ!!」
暗闇が僕を包んでいた。パラパラとブリキ屋根をひたすら叩く雨粒のリズムが時差を置いて聞えてきた。
悲鳴に驚いたのか文太も飛び起きて小さく情けない悲鳴がなった。
「・・・愁・・は?」
「・・・まだ帰ってきてねぇよ。なんなんだこんな夜中に」
「夜中」
汚れで曇り、ガラスと化した窓からは黒しか写っていない。
「・・・夢か」
「なにがあったんだよ」
「・・なんでもない」
「たく、ふざけんじゃねぇよ」
顔を触ってみるがこれといってなんともない。肋骨も折れてないし歯も折れていない。
「夢なのか?」
誰に問いかけるでもなく僕はひとりごとを吐いた。あまりにもリアルだったからだ。あとすこし夢の続きのなかにいたら心臓が爆ぜていたかもしれない。
夜の寒冷に弾かれるように噴出す汗が球になって額全体を被ってナメクジが顔中をはったかのように気持ち悪い。
必死にこの暗闇の現実へと意識を集中させる。早く、一刻も早く意識を呼び戻すのだ。
呼吸を取り戻した僕は汗を掌で拭いて玄関へと飛び出す。夢では存在しなかった傘をもって家へと突っ走った。
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雨は夢ほどではないが止まずに降っている。
玄関に鍵はかかっていなかった。部屋へと向かった。足取りが重いのを必死で一歩ずつ進ませた。
壊れたドアを片目に部屋へと足を踏み込んでいくとベッドには誰かが寝ていた。
愁だ。夢で会ったときと同じうつぶせで寝ている。
僕は慎重に愁へと近寄っていく。足音をなるべく消すように。目の前の悪夢を断ち切ろうと僕は一歩一歩、確実に愁へ近寄っていく。
「正登」
シンと静まり返った自分の部屋に誰かの声が漏れた。
振り返るとそこには壊れたドア越しに廊下に立つ母さんがこちらを覗いていた。
「正登、どうしたの?」
母の問い掛けに僕は、堪えていた物がすべて、あふれていた。
母さんと呼んだ。僕は必死に母を呼んで、母さんの胸のなかに飛び込んだ。暖かくやわらかい母さんの胸に顔をうずめると母さんの懐かしい肌の温もりが伝わって心地良かった。その自然の温もりが僕をやさしく包んで母さんの子宮へと退化させていくように僕の心は解けていく。僕の心にある尖った刃先が、氷柱が、融けるように消えてなくなった。
僕は母さんの胸のなかで泣いた。小さく泣声も漏らした。雨音に消えそうなくらいの声を母さんは何も言わずにやさしく抱きしめてくれた。
自分はなんて情けないのだろう。自分は生きていることすらも辛い。いつも、いつも、誰も信用できなくて、心を許すことができなくて、誰も受け入れることさえできない。それでも、母は僕を迎えてくれる。こんな、出来損ないの自分が許せなかった。夢のなかにさえ出てくる自分の心。自分ひとりではどうすることさえもできない心を、一番、酷く接してきた母は、いつも見てきたというのに。
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愁は朝になって僕がいることに驚いたような顔をした。
ある意味、その驚きは僕にとっては気分の良い驚きだが、愁はなにやらマザコンのガキを見るような目で僕を見だしたのだ。
ありえなくはないが、それはそれで調子が崩れる。僕はこの手のギャクにはつっこみようにもめっぽう弱くてツッコミも入れたくない。
僕は結局、あまりかわらなかった。まあ、人間そんなに簡単に変えられるほど構造が単純じゃない。
愁が朝食のトーストとコーヒーを食す場を見ながらあの夢を思い返していた。
愁はなぜ僕を殺そうとしたのか、愁はいったい誰なのか。
そしてなぜ母は愁のことを秘密にするのか。
僕は愁を好奇の眼で見ながら思った。
そんなことを考える僕を横目に、愁は狐色にコンガリと焼けたトーストをくわえてテレビを見だした。
今日だけは愁のこんな人間らしい所をずっとみていたかった。
夢の愁はどうかしていたのだ。きっと。
たとえそれが僕の中の夢の話でも僕はそれをすべて否定することができなかった。
あれはあまりにも現実しすぎて今でも覚えている。愁、君はいったい誰なんだ?
もしかしてこうやって愁をみていること自体、本当は夢なんじゃないだろうか?
こうしてみえている現実さえも僕には実感がよくわからないのだ。
ただこの空間へと、僕の心は夢から呼び起こされただけ。
愁の声は昨日と変わらず馬鹿みたいに元気に僕へと響く。