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クソッタレ解放区
vol_1.7 卍の上に立つ ・ 苦の命の回
「太陽は好きか?」
愁は突然、なんのことか訊いてきた。
「なんなら、ひとりで温泉探しやっててよかったんだぜ?」
愁が嫌味な笑いを向けた。冗談じゃない、午後も『温泉』を検索していたら頭がユデダコになる。
「・・・」
電車がガタンと一回大きく揺れた。
真上にある太陽からの光がビルの白いコンクリート壁に反射して僕へと飛び込んだ。
電柱がスライドして眼がちかちかする。
「午後はいろいろ用事が入ってんだ。バイトは明日から探しといてやるよ」
「ああ・・・」
愁が確認する視線を向けて問う。断るなら今しかないはずだ。
しばらく電車に揺られていた時だった。突然、愁がふざけた調子で語り始める。
「いゃあ、なんだな。『僕はバイトなんかしない!!』なんていうものと、てっきり思ってたよ。もし、おまえがそんな身の程知らずのわがまま言ったら・・・」
「言ったら?」
「さぁ、どうなっていたかな?」
愁はなんともいえない表情で僕を見てきた。なにかを感じ取ろうとしているのか、僕を見る目はなにも訴えてこない無感情の目だ。
僕は愁を無視して太陽の光がスライドする窓に視線を戻した。
愁が僕の何かを感じ取ろうとしても無駄なのだ。
そのとき、僕は何も考えていなかった。
これからどうしようとか、そんなことから全て、なにも考えちゃいないのだから。
ただ僕は、なにも考えていない眼差しでスライドする光を眺めることしかできなかった。
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なじみになった隣町の駅に僕は降り立った。
ここが僕の最初で再起の場所のはずだ。
ダサイ紙切れの地図を僕は恥ずかしそうに掌に収まる大きさに折りたたんだまま見た。
周りにはあまり人はいない。ちらほらと聞えてくるのは記憶の中となんら変わらない蝉の声だ。
産まれてきてから何度目の夏だろう。
唐突に心に浮かんだ。
いつもと変わらない青空。僕はそれが大嫌いなのかもしれない。
だから僕は自分の意志で踏み切った。
誰のためでもない自分のために。
自信は無いが確かな一歩を踏出すために僕は勢い良く誰もいない駅を跳び出した。
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いつの頃からだろう。
僕は僕という存在が嫌いになった。それは、はっきりとした理由があるのか今ではよく覚えていない。
僕はいつしか何をするにも何かを成し遂げるのも無意味に感じ始めるようになった。
なんと言うのか上手く表現できないが、突然、すべてが片付けられてしまったのだ。
『なにが、なにを』と言うような論理的な根拠もないが、僕は何かを知ってしまった。
もしくは失ってしまったのかもしれない。なにか生きていく上で大切なものを。
なにかを知って、なにかを完全に理解した。
それは一種の宗教じみた感覚かもしれない。なんの修行もせずに僕は平凡な日常生活の中で知ってしまった。
まったく意味の無い意味を。
バイトは退屈を極めた。
僕は気付くと自己嫌悪に落ちていた。
公園のベンチに座って遅いランチタイム。いつのまにかバイトは気付いたときには終わっていた。
「なんてこたないじゃないか。何にビビってたんだ?」
バイトは機械部品の組み立てだった。数分で説明されて実際にやってみる。簡単な手作業だった。
「・・・」
コンビニで買った鮭弁当は電子レンジで温めてもらってからだいぶ経つ。
米粒はカチカチに乾いて冷めきっていた。
箸を受け入れるようなモチモチとした感覚は無く、逆に箸を弾いて食べられるのを拒んでいるようにも感じる。
面倒臭くなって、脇にある針金でつくられたような格子のゴミ箱へと半分ほど残った鮭弁当を投げ入れた。
これからどうしようか、帰ってもどうしようもない。バイトも無事何事も無く終わった。
なにか迷いが漂っている。
僕にはまだ穴があった。その穴は労働という事では埋まらなかったようだ。
穴は心の核にポッカリと空いている。
茫然自失、目の前がなにかゆったりとながれていく。
空白を遮って聞えてくるのは公園で楽しそうに遊ぶ子供達の声だけだった。
ジャングルジム、ブランコ、砂場、滑り台、いつから僕はこの遊びをつまらないと思い始めたのだろうか?
何かが完全に欠如していた。僕には決定的な何かが抜け落ちている。
全てが悲観的に見える。僕は鬱になっていた。
ベンチに仰向けに寝転がってみる。
空気が重い。雲のひとつも無い青空が僕を押し潰そうとしている。鳩が一羽、力強い羽ばたきで空を飛び抜けた。
「・・・・はぁ」
「どうかしたの?」
心臓がいきなり跳ねた。最初は幻聴だと錯覚したがそれはすぐに消えた。
視線を天から戻した先に見知らぬ子供がいる。横目で見て確認する。
半身を起こしてよく見る。背は僕よりもだいぶ低い。幼児ほどの女の子。
つぶらな幼い瞳が心配そうに僕を見ている。
「・・・なんでもないよ」
少女の背後で、砂場で遊ぶ子供達の姿が見えた。それと同時に笑い声もそこからうるさいぐらい耳に跳びこんでくる。
少女に視線を移すとちいさな顔に、こぼれるほどの笑顔を灯している。
僕は暗く深い鬱の中で直感した。きっとこの子は歳に合わない溜息を漏らす僕に、変に気を使っているのではないだろうか?
「だいじょうぶ?」
少女は僕の顔を覗き込んできた。少女の瞳は綺麗な希望に満ちて輝いている。
それに比べて僕はどうだ、よどんでいてそこはかとなく暗いのではないだろうか。
嫌でも鬱は僕をどこしれぬ暗闇に引っ張り込む。
「ちょっと疲れてるだけだから心配しなくてもいいよ」
「わかった。おにいちゃん、はやくかえってねんねしたら?」
幼い黒髪の少女は純粋に心配している瞳で僕を見てきた。
僕は少々、照れくさくなった。なれない弱い返事をした。
少女は気弱な僕の返事に幼い表情を変に濃くしたが、大丈夫と僕が念を押すとようやく安心して元にいた砂場へと帰っていく。
危なっかしく砂場へとかけて途中で僕へ笑顔を向ける。なぜだか胸が切なくなった。
「・・・なんなんだよ、・・いったい・・・」
溜息と同じくらいの声だ。でも、僕は何故だかおかしくなった。
含み笑いというのだろうか。無意識のうちに口元が緩んでいた。
縦長のベンチに仰向けに寝転がる。
瞼を閉じる。
暗闇が広がった。
青空、暗闇、青空、暗闇・・・。
瞼を持ち上げて閉じる、繰り返した。反転する暗闇と青空。黒と青。闇と光。
ゆっくりと眠るように瞼を閉じる。瞼には暗闇に浮かぶ光の輪っかが浮かんでいた。
“天使の輪”のようだ。
感傷にふける僕をあざ笑うかのように子供達の元気な笑い声が暗闇の中から響いてくる。
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夕日のように灯る裸電球に照らされて、吉野家の牛飯はその肉片をより深く落ち着かせた。
丸いちゃぶ台には銀に輝くビール缶がキンキンに冷えた汗をかいている。
文太は結露して表面に付いた水滴ごと手に取って、流し込むといきよいよく喉を鳴らした。
「かはぁ〜、おめでとう!!」
「・・・なにが?」
「バーカ、なにひとり冷めてんだよ。せっかくおまえの就職祝いしてやってんじゃん」
「就職じゃなくてバイトだろ。それに、飯代は僕の稼いだ金だぞ」
「おごりだ、おごり。いままでどれだけ面倒かけさせたと思ってんだ? ひとえに俺のおかげだろうに。牛飯ぐらいおごらせろよ」
「はい、はい」
「ハイは一回でよろしい。愁もそんなところで夜空なんか眺めてないで、こっちに来て牛飯喰おうぜ!!」
「牛飯か。久しぶりだ。特に誰かさんのおごりはどんな味がするのかな?」
小さな雨戸の先でタバコの細い煙を吹かしていた愁が吸殻でいっぱいになった灰皿に押し付けた。
かったるく歩み寄り、なにかの染みが浮いた畳の上に勢いよく腰を落とした。
途端に埃が小さく舞ったのを僕は無意識のうちに横目でさりげなく確認していた。
「あ〜あ、腹減った!!」
誰に言ったでもなく、牛飯が入った四角いパックを手に取ると一気にかっ込んでいく。
ビール缶を手に取り“プシュッ”とプルタブを起こしてゴクゴクと流し込んだ。
「うめぇ〜!! ただ飯、最高!!」
「だろ? 正登もくえよ」
「・・・ああ」
割り箸を手にとってふたつに割いた。
“パチン”と乾いた音がした。
牛飯入りのパックを手にして、緊張の面持ちでひとくちほうりこみ咀嚼する。
愁と文太が口を動かす僕を興味津々に見ている。
「うまいよ」
息が漏れた。一気に空気が緩む。
「久しぶり、・・・いや、初めて聞いた」
愁が笑っていた。それにつられて文太も笑う。
「なにが?」
「おまえが飯喰って、うまいって言ったのは」
僕は苦笑していた。笑うにも笑えない。
『うまい』ただ、その一言なのだ。僕自身でさえ、なにかを食べて「うまい」なんて口からでるなど考えられなかった。
僕は、そこまで追い詰められていたのだろうか?
飯を喰うだけなのに、ただそれだけのことだと思っていた。生きるための最低限の事、正直言ってめんどうだった。飯を喰らうことは僕にとっては窮屈な時間だった。身体に入れたくない。どうせならすべてを吐きだせるのなら、なんだって吐きだしたかった。楽になりたかった。
全てを吐き出して楽になりたかった。
なにも、もう、溜め込みたくなかった。
熱くなった。涙がこぼれた。
自然に無意識に。流れてこぼれ落ちた。
箸を持つ手に、裸電球に照らされて濃くなった手に落ちた。
泣いた。久しぶりに泣いた。
泣声を殺さなかった。枕に押し付けないで僕は泣いた。
小さな部屋に、響いた。哀しくない、嬉しくない。
はっきりとしない。目の前が霞む。
低く唸るように泣いた。たくさん、たくさん、涙が流れる。つたって落ちた。
愁が見ている。文太が見ている。
でも、僕は泣いていた。
涙がこぼれ落ちる。
僕は泣いた。
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夜空は高く、星が輝いている。
原っぱの中、鈴虫だろうか、夜風に響いて風になった。
暖かい風だった。熱気に似た湿気を含んでいて、その中に草の放つ柔らかな湿気と匂いがある。
夏の匂いが僕らをはっきりと包んで暖かく囲む。
そのなかにいるだけでとても心地よかった。
すべてが混ざって溶けるような感覚。僕の心は気体のように軽い。
「気持ちいいな」
文太は斜め下の河川敷の前で、仁王立ちに向こう岸を見て言う。
ビールを傾けて喉を鳴らす。金髪の短髪が逆立って、どこかのパンクロッカーのようだ。
頭を傾けて天を見る。ラッパを吹くような格好から月に視線を移していた。
「いい月だ。満月か」
暗い空にでかでかと輝いている。白く放射状に光がのびて、淡く輝く。
しばらくの間、僕と文太は無言で月を見ていた。
「月はなんで、あんなに淡いんだろうか?」
隣で立つ愁が呟いた。僕は雑草の上に座っていて、見上げると、隣で立つ愁がやけに大きく感じる。
愁は真っ直ぐ月を見ている。僕も月に向き直って言った。
「太陽に照らされているからじゃないの?」
「・・・」
「・・・愁?」
「ん?」
視線が降る。
愁はいつもの清清しい表情だ。爽やかであり、力強い。
気の早い夏の空気に包まれて、僕は愁を見ていた。
透き通る黒い瞳には、なにかが光っている。
愁の瞳を逸らさずに見据える。次の瞬間、僕は自然とその言葉を発していた。
「ありがとう」