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クソッタレ解放区


vol_2.8   夢と現実の狭間



 蛍光色のメーター類だけが、車内の暗闇のなかではっきりと浮かんでみえた。
 車のヘッドライトが道の先を照らす。前を走る車の赤いテールランプが光り、ナンバープレートが読み取れる距離のところで止まる。赤信号の待ち時間。視線を傾けると愁が運転する姿が映る。愁が運転する白いワゴン車は、前を走る赤茶色の乗用車より、ひとまわり大きい。信号が変わり、前の車が発車した。愁は、ギアをローに入れる。今では、あまりみかけないマニュアル車。なめらかにクラッチをつないで滑るように発車した。


「運転、上手いだろ?」
 僕の視線を感じたのか前を向いたまま愁が話し掛ける。自慢の意思が感じられなくもないが、僕は素直に上手いと返した。
 免許を持っていない僕は、上手いとヘタの基準がよくわからない。街のネオンサインを映し出す薄い窓を下へスライドさせるように窓を開けた。硝子窓が完全になくなるまで開けると、夜風が頬をなでて、すりぬける。昼間より、ぐっと、冷えた風。湿気もほとんど感じない。街は煌いている。夜の暗闇に、いろんな色が発光し、元は電飾だが夜空に浮かぶ星よりも眩しい。
 幻惑のような世界。華やかな世界。夜風になびき、白いワゴン車は電飾街を駆け抜けていく。


「正登さんは、車もっているんですか?」

 後部座席から、澪さんの声が夜風に雑じり僕の耳元に届いた。
 振り返ると、開けた窓からくる風に、髪をおさえる澪さんが運転席と助手席のあいだに上半身を乗り出すような格好であいさつしてくれた。


「免許もってないんです」
「じゃあ、車も?」
「――あたりまえだろ。車もってて免許もってない奴なんかみたことない」
 愁が微笑のこもった声で言った。

「そんなことないよ。あたしだったら、欲しいから買う」
「・・・買えないと思いますよ」
「え!? そうなの?」
「買えないな」

「愁があたしの代わりに買えばいいんじゃない?」
「誰が運転するんだ?」
「あたし」
「免許は?」
「・・・貸してくれる?」

「つかまるな」
 言った途端、つまらなそうに澪さんは表情を曇らせた。
「ねぇ。いつも、こうなんだよ。愁は。陰気なんだ」
「・・・陰気?」

 愁が陰気。だったら、澪さんの感覚では、僕はどうみえるのだろうか。
 平然としてふたりの会話を聞いていたが、いきなりの問いに僕はうろたえていた。


「その点、正登君はすごいよね。ひきこもりの少年、助けてるんだから。愁とはえらい違いだ」
 無邪気だが、悪気はみえない。うんうんと頷いている。澪さんはいつのまにか正登さんから正登君に呼び方が変わっていることに自分でも気付いていないようだ。
「別に正登は善意でやっちゃいねぇよ。すごいとか気軽に言うな」
 ちらりと愁は一瞬僕をみた。僕は愁の言葉に感謝した。

「なに、えばってんだか。コイツめ」
 澪さんがコツンと愁の頭を小突くと愁がちいさくイテェと唸った。


 ***************************

 真っ暗な駐車場では、あきらかに白いワゴンが目立つ。
 そして、視線を戻すと昼間のような照明が板ガラス一枚区切りのこの場所ではありうる。
 カチャカチャと皿が触れ合う音。回転寿司屋の店内で僕は戸惑いに似た感情が湧き出てきた。照れ恥ずかしいような、心がむずむずするような感覚を誤魔化すように透明に近い緑色のお茶を飲む。

「なに食べたい?」
「・・・自分でとるよ」


 母さんも照れている。
 会話が続かない。沈黙が続く。
 回転寿司屋の席に母さんがいた。すぐにはわからないでいると、愁はしてやったりのような表情で僕を案内したが僕自身は少し戸惑っただけですぐにいつもの調子に戻ってしまった。澪さんは、軽く母さんに挨拶して、穂奈美を連れて別の席に愁と移った。

「いい友達もったね」
「・・・。愁が?」
 皿の上に乗ったいろとりどりのネタが、僕の左側をかすめていく。ベルトコンベアに乗ったそれはゆっくりと移動しつつ食欲の色彩を放つ。
 僕はその流れに乗るひとつの皿を取った。淡い宝石のような赤のマグロだ。

「知り合いだったんだ?」


 母さんは皿を取ろうと伸ばした手を、あわてて引っ込めた。話を聴く姿勢を僕に向ける。
 自分の子供に気をつかう必要なんてない。そういいたいほど、母さんは僕に気をつかう。
 なにかにつけ、僕の後ろにつき、僕が手を伸ばして興味のあるものに触れる瞬間、いつも隣から手を伸ばして僕の先を閉ざす。僕に残されたことは、出した手をひっこめることだけだった。

 子供の頃、僕は自分ひとりで電車に乗りたかった。行き先なんてきまっちゃいない。
 ただ、ひとりで何処までいけるか試したかった。切符を買って、電車に乗って、そして、僕の知らない世界を、新しい場所を知りたかった。単純な好奇心だ。僕は、駅にむかった。おもちゃの宝物を、小さなリュックのなかに入れて、真新しいシューズを履いて、朝の空気を胸に満たしながら僕は駅へと歩いた。やけに軽い足取り。でも、歩幅は小さい。たくさん歩いた。一歩、踏み出し、また、一歩踏み出す。その一瞬一瞬がすでに新しい発見だった。一歩踏み出すたびに何かに近づき、何かが胸のなかを満たしていく。駅について切符の販売機に手を伸ばし、ボタンを押す。“ガチャンッ”と音がして、切符が出てきた。たった、それだけのこと。僕は初めて切符を買い改札を抜けて電車へと乗り込んだ。産まれて初めてひとりで電車に乗った。弾むような心境の中、僕は行き先のない旅に出た。


「正登ちゃん?」
 僕は、自然と母さんを睨んでいた。それが当たり前のように。自分でも気付かないとき、僕は母さんを睨んでいる。
 もう大人だ。ちゃん付けするな。そういいたかった。母さんを見る。母さんは僕を見て微笑んだ。僕は視線をそらしていうのを止めた。いつだってそうだ。僕は、あの時から、なにも成長していない。自分の意志も心構えも、母の笑顔が僕を挫かせる。
 母さんは気付いていないのだ。いや、気付いているのか? 気付いてやっているのか?
 そして、僕は気付いたときには母さんを睨んでいる。

 僕はおかしい。僕は変だ。
 結果、残るのはくだらない自傷のクズだけだ。
 母さんという存在に依存し、命の糧である食べること。
 そう、目の前にあるマグロの寿司ひとくち食べることさえも母の懐に依存している。そう思った瞬間、なにかが胸を焼いた。

「澪さんだよ。どこで、知り合ったんだよ」
 マグロを口に入れた。イライラしているのは腹が減っているからだ。腹が膨れれば多少は気が落ち着く。
 咀嚼して、さっき言った言葉がひどく醜い発音だったことを思い知った。
 咀嚼を止めた。茶でながしこんで、僕は沈黙さえも飲み込みたい気分になった。
 母さんは黙っている。随分、時間が経ったと思う。回転するベルトコンベアに乗るネタが僕の目の前を一周した。いや、違う。どれも、これも似たようなものばかりが、ただただ目の前をぐるぐる回る。そんなあたりまえのことを漠然と気付かされていると、母さんはようやく言葉を発した。

「病院でね。知り合ったの。最初に知り合ったのは、愁君だけどね」
「病院? なんで、そんな所に愁や澪さんがいるんだ」
「澪さん、身体が悪くてついさっきまで入院してたのよ。愁君は澪さんの看病しにきてたの」
 僕は、視線を澪さんたちのいる席へ向けた。澪さんはなんともないような表情で笑っている。愁と穂奈美も、一緒になり笑っている。ごく普通の家族だ。あんなに個性が強い愁がまわりに自然と溶け込んでいる。穂奈美も澪さんも幸せそうに笑う。僕は視線を戻した。

「…身体、どこか悪いのか?」
「治すのが難しい病気らしいの。元気そうに見えるけど、いつまた入院するかわからないらしいの。でも、大丈夫よ。澪ちゃんには愁君や穂奈美ちゃんがいるんだから」
「…母さんは?」
「ん?」

「なんで病院なんかに行ってたんだよ」
「あら、心配してくれるの?」
「…そんなんじゃないけど」
 僕は視線を逸らす。
「大丈夫よ。もう、治ったから」

 母さんはいつもの微笑みを僕に向け、僕は言葉に詰まった。
 手にしていた湯呑の薄い緑の湯が持つ手を温めてくれる。水面になんとも複雑な僕の表情が漂っている。



 子供の頃、僕はひとりで電車に乗った。行き先のない一人旅。
 母さんは僕を探してくれた。当然のことだ。あたりまえのこと。
 母として、親としてあたりまえのこと。そんなことも理解できず、僕はわがままを言った。
 帰りたくない、と。旅の途中だった。僕はひとりで、旅に出て、自分が男だと証明したかった。誰にも負けない、誰にも面倒かけない、僕は子供じゃないと、母に示したかった。
 あれから十数年経った。僕の心は、いまだ旅の途中で止まったままだ。
 母さんも僕をいまだ子供扱いする。僕は男だ。誰にも依存なんかしていない。
 僕はいつだって、ひとりで何処だって行ける。

 それは、まるで嘘のような現実味のない僕の心に響くあいまいな夢かもしれない。
 母さんは悪くない。もう、僕も大人になっていた。それはかなり自分のなかで実感がない。
 大人として、納得できない。数年間ひきこもり、やらなきゃいけないことができた。
 母さんにありがとう、と言うこと。それを言うまでは、僕はまだ大人じゃない。




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