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クソッタレ解放区


vol_2.9   夢と現実の狭間



「ふたりで歩いて帰るよ」
 回転寿司で夕食を食べた帰り、駐車場に停めていた車に乗り込んだ刹那。
 車のまえで立ち尽くしている澪さんが席についた僕と愁へ言った。
 後部座席にいる穂奈美が外に出ようとすると、澪さんはそれを止めた。

「穂奈美は、パパと帰りなさい」
 やさしく穂奈美に言いきかせて、僕がいる助手席のガラス窓を軽く叩いた。
 窓を開けて顔を出す僕に小さく「ごめんね」といって、母さんを借りると付け加えた。
 ごめんねの意味がわからないまま僕は曖昧に返事を返していた。
 本当にごめん。小さな声が震えたように一瞬、聞こえた。澪さんはなにごともなく微笑んでいる。隣に母さんがいつもの笑顔で立っていた。

 車は狭い駐車場を出た。
 澪さんと母さんが手を振っている。車がみえなくなるそのときまで澪さんは手を振っていた。僕はそれを眺めていた。どことなく、僕に悪いことをしたような微笑みのまま。見えなくなった。車は通りを走る。ガラス窓を開け放ち、夜の風が吹き込むのと同時に愁が呟くように僕へ言った。


 ************************

 穂奈美は後部座席で小さく寝息をたてて眠っている。人形のように愛くるしいなにも知らない表情。すぅ、すぅ、という寝息が一定間隔を置いて聞こえてくる。それほどまでに車内は静かだ。愁は火を点けていないタバコを口にくわえたまま、ぼんやりと考え込んでいた。霞んだ街灯だけが来たときとなんら変わりなく灯っている。

「澪には母親がいないんだ。悪いな正登」
「別に、澪さんはなにも悪いことなんてしてない」
「…澪には母親がいないんだ」
「…」

「…病院の話、聞いたか?」
「澪さんの病気、治すのが難しいって聞いた」
「そうか」
「なんで、母さんは病院にいたんだって訊いたら、もう治ったって」
「そうか」

 車のガラス窓を開けた。愁は我慢していたのか、タバコに火を点けた。煙は小さな線の跡を残し、窓の外へと昇る。
 それと同時に夜の静寂が窓をすり抜け入ってきた。

「外に出よう」
 愁が言って、僕が頷いた。街灯が灯る場所まで愁の後をついていく。
 少し、先に僕の部屋の窓が見える。

「もう、夏も終りだ」
 そう、独白したように聞こえた。
「なあ、正登」
「なに」
「澪はなんの病気だと思う?」
「さあ、よくはわからないけど」
「けど?」
「僕とさほど変わらないんじゃないのかな」
 タバコを吸いながら愁が笑った。えらく、不自然な愁に似合わない笑いだった。
 少し苦しげな笑顔。愁は僕に笑顔と呼べるかわからない表情のまま煙を吐きながら言った。
「やっぱ、おまえ頭いいよ」
「愁」
「なんだ?」
「母さんも、愁も嘘をつくのはヘタだな」
「うるせぇ」
 それきり会話が途絶えた。
 街灯が眩しい。愁は背を向けて2本目のタバコに火を点けた。

「大丈夫だよ」
 僕が言った。
「なにが?」
 タバコの煙が昇るだけ。背を向けた愁が訊いた。
「大丈夫」
 見上げる。小さな部屋の窓を見て再度、言った。
 小さな間を置いて、愁が「そうだな」と答えた。


 ************************

 “カチャッ”と音がした。
 ドアノブが回転して、澪さんが僕の部屋のドアを開けた。

「今日は、どうもありがとう」
 澪さんが僕へ言った。
「こちらこそ」
「愁が、なにか言いませんでしたか」
「具体的なことはなにも」
「今日は、とても楽しかったです。正登君にも会えたし」
「僕は初めてです。愁は澪さんのこと、なにも言ってくれなかったんですよ」
 苦笑いをして澪さんをみると、ちょっとこまったような顔で澪さんは微笑んだ。

「病院で正登君の母さんに会ったときからどんなひどい息子なんだろうって最初おもってたんですけど、とても良い方でよかったです」
 無垢むくな澪さんの笑顔に、僕はただ笑うしかない。
「母は僕のこと、どんなふうにいってましたか?」
「なにも、言ってないですよ」
「本当ですか?」
「さあ?」
 澪さんは、僕を見ながら少しだけ笑った。「でも…」とそのあとを話しはじめた。
「自分の子供がひきこもっていて、なにもしない親なんていませんよ」
 と、言うだけ言って、澪さんは僕の部屋を眺めた。そして、部屋にひとつしかないベッド寄りの窓に視線が止まった。
 窓の外は深夜の暗闇と街灯の幽霊のような灯りだけしかない。
「病気でもない、健全な人が部屋でひきこもっている。あたしみたいな人がいるっていうことはテレビなんかで知っていたんですけど、実際にこうして会うのは初めてです。かといって私自身がひきこもりっていうわけじゃないんですけどね」

 無邪気に笑う澪さん。苦笑いの僕。
 澪さんに向けていた視線を窓の方へと向けた。
 なにも変わらないのはこの窓だけ。この部屋からみる窓。いつも、いろんなときこの窓を通してみてきた。
 見える風景は一緒でも日々、そこから見えるものは違って見えた。
 昔、見た窓の外側。今、見る窓の外側。
 小さい頃、見た窓の外側。大人になって、見る窓の外側。
 風景は変わらないようで建物は変わり、新しい建物も増えた。昔、見た建物は逆に消えた。
 昔から見つづけた風景は、少しづつ気付かぬうちに変わり、僕も変わった。
 はっきりと変わるのではなく、ありのままの自然体に溶け込むように変わった。
 衰えていくように、成長していくように。街も僕も、この窓を通して変わった。
 静かに、窓に視線をやる澪さんに、自分でも驚くほど低い声で訊いていた。
「どうして愁は僕を助けたんですか?」

 澪さんが目を剥いた。
「なぜ、そんなことを訊くんですか」と呟いた。
「ひきこもっていた僕を外に出してくれたのは愁です。最初からおかしかった。
 なんで、愁が僕の前に現われたのか、僕を知っていて部屋のドアを叩いたのか」
 澪さんが僕をみる。僕は最初から気付いていたのかもしれない。最初にドアをノックではなく叩いて僕を覗いた、その瞳。同類の瞳なのだ。
 きらきらと輝いて見えたのはほんの一瞬。偽りの輝きだと理解していたからこそ澪さんの瞳は輝いてみえた。
 瞳を見たときからわかっていた。心の病気の持ち主。
 孤独とかそういうものではなく、よくわからないモヤモヤとした得体の知れない不安を抱えている人間の眼。


「不安は解けないです。ひきこもりから出ても、なんか、スッキリしません。愁や母さんがいても、漠然的に不安です」
「そんなこと、言わないでください!」
 どこか、かすれていた声だった。そんなこと、言わないでくださいが響いた。
「あなたには、母親がいるじゃないですか。どうして、私の前でそんなこというんですか」
「じゃあ、なんで澪さんは僕の前に現われたんですか?」
「それは…」
「ひきこもりから出た人間がどんなものなのか知りたかったんじゃないんですか?」
「私はただ…」
「不安を超えた人間を知りたかった?」
「…」

 深夜の部屋、僕は話しを続けた。
「僕は、この変な孤独を知ってます。疎外感も知ってます。産まれたときから、そのことを知らずに育ってきた人じゃなく、そのことを知っている人間です。澪さんは、僕がその孤独や疎外感を、ひきこもりから抜けたから、それを超えられたと思って僕に会いに来たんじゃないんですか?」
「…」
「澪さん、そんな人間はいませんよ。そんな人間はいない」
「じゃあ、正登君はどうして抜け出せたんですか。ひきこもりから抜けて、なにが変わったんですか」
 泣きそうな声で僕にすがった。いや、泣いていた。僕をみる瞳が切実に揺らいでいた。
「自分自身を認めることができた」
 と僕は言った。
 自分自身を認める、と澪さんの口元が動いた。


「僕は、自分自身を受け入れることが出来なかったんです。夢もなけりゃ、今、生きている意味もわからない。かといって死ぬほどのことでもない。前にも後ろにも進めないし。そうこうしているうちに周りは僕を取り囲んでいく。考えてしまいました。どうすれば自分らしく生きられるのか。くだらないことを考えてしまいました。気付いたとき、僕はここに閉じ込められていたんです」
 窓を見ながら言った。なにひとつ、澪さんを見ずに。
 淡々としている自分の表情が深夜の窓に映る。澪さんに向き直った。
 そして、澪さんに訊いた。

「澪さんは、生きるために一番、必要なものはなんだと思いますか?」
 よくはわからないけど、大切な人。私を受け入れてくれる誰か。口元が微かに発した。
 落胆の色が出ていた。所詮は、この程度のひとなのかと死んだ瞳を伏せている澪さんがいた。
 最初、このドアを開けたとき。救いを求めるようなそんな瞳だった。不安に押しつぶされそうで、その不安までもがよくわからないまま時は過ぎていく。だからこそ、僕という人間に会いに来た。きっと、愁に止められただろう。母さんにも相談したんだろう。
 僕に似た、瞳の持ち主。キラキラと輝く希望を求める瞳。
 だからこそ、輝いてみえた。

 だからこそ、僕は言う。
 他の誰かにしては、つまらないことかもしれないが僕自身や澪さん、慎也にも伝えたいことだった。口に、言葉に出していわなければいけない事だってある。どんなに、くだらなくても。あたりまえのことでも。口にだし、言葉を使って表さなければいけないことだってある。今の僕だったら言える。自分自身に、目の前で伏せている澪さんにも。
 今の自分にしか言えないことがある。


「生きるために一番、必要なものは自分じゃないですか!!」
 叫んだ。一気に言った。澪さんは無言のまま伏せたまま。
「自分自身がいなきゃ生きられないだろ!!」
「なにが、大切なひとか。なにが、受け入れてくれるひとか。そのひとがなにを大切にしてくれているのか考えてみろ。自分自身だろうに。自分という存在がいないで、他になにを求められる」
 言うだけ言った。ドッと、血液が体内を駆け巡る。心拍が上がる。身体が燃えた。
「生きるために空気があればいい、食料、水。くだらない答えだ。愛情?、友情?、その他もろもろ、くだらない。自分という存在がなけりゃ、ただそこにあるだけのモノじゃないか。馬鹿らしい。くだらない。生きるためになければならないものは自分自身じゃないのか」

「生きるために一番、必要なものは自分という存在だ!!」
 吐いた。モヤモヤも、不安も、疎外感も、一息に吹き飛んだ。
 呼吸が止まる。頭がひんやりとしていた。呼吸が乱れている。
 その乱れた呼吸は自分の呼吸だった。小さかった。誰よりも小さい弱い心。
 だからこそ僕は澪さんに言った。自分が弱いから僕は澪さんに言える。
 深夜の静寂が僕と澪さんを包んだ。


 ************************

「ごめんな正登」
 僕は首を左右に振ると、愁はまた「ごめん」と謝った。
「愁はなにも悪くないよ。それより今日はもう遅いし早く帰りなよ」
「そうだな。なあ、正登。こんなこと言える立場じゃないけど澪を悪く思わないでくれ」
「澪さんは悪くない。悪いのは僕だ」
「正登は悪くない!」
 大きな声で言った後、「悪いのは俺のほうだ」と愁が下を向きながら呟いた。

「明日も仕事なんだろ?」
 僕が訊くと、愁らしくない気弱な調子で僕のまえで小さく頷いた。
「今日は悪かったな」
「もう、いいって」
「正登」

 愁が僕を見た。
「俺は、おまえの母さんに頼まれてここに来た。だけど、実際に自分が正登をひきこもりから出せるとは思ってもいなかった。
 ひきこもりから抜け出せたのは正登自身の意思だ」
 真剣に言う愁に僕は照れくさそうに視線を逸らして小声で言った。
「慎也をひっぱりだすとき、使わせてもらうよ」


 ************************

「また、今度来るから」
 最後。愁はそういって車のエンジンをかけた。
 澪さんは助手席に座り、うつむいて僕を見ない。

「またきてください」
「…」
 僕はうつむいた澪さんに言い。黙った澪さんの向こうから愁が苦笑いで返した。
 澪さんが乗った、穂奈美が乗った白いワゴンが街灯から遠ざかり、見えなくなった。

 見送る僕は振り返り、街灯を見上げた。
 その先にある部屋の窓も。星も。
 地面に立つ街灯の淡い灯りの先にあった。




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