INITIALIZE ORIGINAL NOVEL
クソッタレ解放区
vol_3.5 欠片 −カケラ−
「おまたせしました。アメリカンです」
純白に塗られた受皿が、涼やかな澄んだ陶器の音と共に目の前に置かれた。
僕は黙ってそれを摘み、口元へと近づけ、すでに鼻腔を満たす珈琲豆の匂いをなつかしく感じながら、ひとくち含んだ。
ウエイトレスが、銀の盆を両手で持ち、ヘソあたりで抱くようにして返らない。
有線から流れる洋楽は、あいかわらず僕の知る由もない曲ばかりだ。
「彼女とは、どうでした。愉しめましたか?」
「・・・今日はとても冷たいですね。玲奈さん」
そこまでいって、乾いた口の中、もうひとくち含む。
「慎也をさっさと助けてくれれば、それですむ話しです。私だって、こんな嫌みなんて言いたくないんです」
「部屋から出るかどうか、最終的に決めるのは慎也ですよ。考える時間くらいあってもいいんじゃないですか?」
「今までどれだけ待ったと思うんです。考える時間なんて、いまさら必要ありません」
「いままでは自分から逃げる時間。ようやく慎也は考える時間に入ったんですよ」
「必要ありません。慎也には、もう、充分すぎるほど考える時間があったはずです。正登さん、いい加減にしてください。あなたが、ひきこもりに対してどういうことで考えてるか知りませんが、あなたと慎也は違うんです。勝手に決めないで下さい」
純白のカップに入っている、もやもやとした湯気の先にある真っ黒な液体を見つめ、僕は訊いた。
「どこが違うんですか。慎也と僕」
玲奈は黙ってしまった。例え、支離滅裂なことを理由にしたとしても、反射的になにかしらの事を言うものとばかり考えていた僕は、玲奈の、この沈黙がひどく腹立たしく感じた。
「理由もないのに、慎也を別の誰かにしないでください。慎也は特別な人間でも、劣った人間でもない。
まぎれもない、あなたの弟でしょ」
「・・・だから、なんだっていうんですか。私が助けろと?」
あきれたような、玲奈の笑いが一瞬だけだが、確かに聞こえた。
僕は珈琲に視線を据えたまま、止まったまま微動だにせずにいた。
「あきれた。見損ないました。所詮、ひきこもりを抜け出た人も、この程度の器なんですか。
かわらないですね、慎也と。まるで、変わらない」
「変わらないですよ。慎也と。だから、慎也の気持ちが痛いほどわかる。慎也を縛り付けているものも、わかる」
そこまで言って、自然と視線では問う意を込めて、玲奈に向けている自分がいる。
ただ、そこにあるだけのもの。人ではない物を見るような視線で玲奈は答えた。
「原因は私ですか?」
「…はい」
言ってしまってから玲奈を怒らす気などないのに、自然と出てしまったその言葉が憎たらしかった。確かに自分が言った言葉なのに。言った理由が分らない。玲奈が素直じゃないから、嫌、俺が素直じゃないから。しばらく間があった。僕がなにもしなかったのと同様に玲奈もなにもしてこなかった。しばらく無言で湯気が昇る珈琲を見つめていたが、玲奈の溜息がひとつだけ漏れて、背を向けて返っていくと、有線から流れるリズムだけで意味のわからない洋楽を意識できるようになった。
溜息をついてもなにも解決しないのに、やたらと溜息なんてするもんじゃない。年寄り臭い、どこか似ている美夏にそう心のなかでなげかけて、それが、愁のいったことだと思い出した。湯気が昇る珈琲に吐息を吹きかけ黒い湯に自分の表情を映してみる。
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硝子扉が閉じる。それと同時に洋楽の音が吸い取られるようにして、隙間に消えた。
階段を降りる。足先もおぼつかないような状態に、一歩、一歩、踏み出すたび金属製の音が足裏に響いて、それを意識しないままに、音のない段を踏み抜いた。
「言いたいことは、言えなかった」
香月さんに視線を上げて伝えると、
「また、次があるよ」と、香月さんは言ってくれた。
「どうせなら、駅で待っていてくれればよかったのに」
「今朝みたいなのは、もう、たくさん」
そういって、微笑む香月さんに僕は戸惑い、それでいて弱い。
そっと香月さんの手が触れた。
「門出のお祝い」
香月さんのいう言葉、ひとつひとつに僕は動揺していたが、これで最後だ。
いや、最後にしよう。こうして、手を繋ぐことは、最初で最後にしよう。
香月さんの言葉の熱。手の温もり。僕の顔はどうなっているだろう。
これから先の門出に迷っているのか、香月さんの熱に緩んでいるのか。
わからないほど、火照っているかもしれない。
駅まで、香月さんの表情を見ることはできなさそうだ。
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今朝、僕はマングースに着いて、結局、マングースで2時間も待たされて、玲奈にけなされ帰ろうと駅までたどり着いたとき待合のベンチに隠れるように座る香月さんをみつけた。戸惑い、あわてていたのは僕よりも香月さんだった。最初から僕は見つけたとたんにわかったのに香月さんは視線すらまともに合わせてくれなかった。人違いなのかも、と思いつつ僕は気になって声をかけた。戸惑った顔を向けて僕を見たのは、やっぱり香月さんだった。狼狽したような、なにかを溜めていた表情で見上げて微笑む香月さん。ベンチに座り縮こまるようにして下を向いていた香月さん。
開け放たれた扉の先を見つめて憂鬱になった。
銀のポールに肘をのせて僕は視線の先にあるベンチを見ながら思い出していた。
香月さんにあんな思いをさせて、僕は平然とした顔でマングースに香月さんを連れ戻した。
冷たい手を握って、ただひたすら早足で引っ張って、マングースへ戻っただけだ。それだけしかできなかった。
本当に氷のような手をして、ベンチに隠れるように座って、下を向いて。
手を強く握ってマングースに連れ戻った僕を不審な表情でみる玲奈に、僕は珈琲を頼んだ。そうすることでしか、香月さんの冷え切った体を温めることができなかった。
圧縮された空気が漏れるような音がして扉が閉まった。
車両が前の車両に引っ張られる。移動する車両、音が響く渦のなかで再度、思った。
僕はつくづく、自分勝手な奴だ、と。香月さんと電車に乗ったときも、僕は美夏のことなんて考えちゃいなかった。
ベンチを目にしたときに気が付いていたのだ。自分勝手な自分自身に気付いた。だからかもしれない。僕は香月さんだけに伝えた。でも、玲奈には伝えられなかった。
慎也はきっと助け出す。美夏には、わるいけど甘えられない。愁にも澪さんにも母さんにも迷惑はかけたくない。なぜ、こんな簡単なことを玲奈に伝えられなかったんだろう。香月さんには言えたのに。夕日の赤が視線に飛び込んできた。物陰に遮られて瞬く光りが続く。香月さんに言えたのに。それだけが脳裏に張り付いて僕を支配した。
僕は、この街を出る。