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夢見草
vol_1.3 彼女の言い訳
※
今、すぐにでも自分が愁になれたなら、どれほど楽になれるだろう。
文太と玲奈には悪い事をした。でも、だからって、それが理由でいまさら帰れないし、
かといって、どういう顔して、正登に会えばいいのか。わからない。
目の前の部屋のドアをノックすれば正登か慎也か、出てくるのだが、
どちらが出てくるだろう。慎也が出てくれば、なにも問題ない。
でも、正登が出てくれば、・・・どうなるんだろう。
何度も、行き来しているが、一向に外に出てこない。
せめてもの救いは、隣人がまだこの部屋への通りに姿を現さないことだ。
こんなところを、他人に見られたらなんて言い訳しよう。
友達に会いに来た? 友達を待っている?
しばらく思考したのち、覚悟を決めた。
なるようになる。ほら、右手を動かせ。勢いにまかせて。
“コンコン”と右手は意思を振り払うかのように、呑気な軽いノック音を奏でた。
「慎也、・・・正登」
反応はない。
「ちょっと、誰もいないの?」
ノックする右手をドアノブに移した。
“カチャ”という音がして、ノブが回転した。
部屋に灯りはない。音もない。
狭い部屋の奥に敷きっぱなしされてある布団に視線が止まった。
盛り上がり、呼吸に合わせて頂が微妙に上下している。
「慎也?」
靴をぬぎ、あたしは近寄って布団に手をかけた。
―――正登。
一瞬、声に出して呟いていた。
驚き。いや、違う。うすうす、勘付いていた。
じゃあ、なに。そもそも、あたしは正登に会いに来たのに、
なんで、動けないでいたの。ドアをノックするだけ、開くだけ。
布が擦れる音がした。
正登がこちら側に寝返りをうつ。
手が自然と頬へ向かっていた。
ぴったりと手のなかに納まり、熱がきた。
あたしの指先はつめたかった。熱を感じながら、正登の頬に触れて、
定期的なリズムを刻む寝息。静かな寝息。
指先を滑らす。
頬を、あたしの指先がつたう。
※
「――で、なんで、ここにいるのか。あらためて訊きたいんだけど」
上目遣いで見上げた。黄色いエプロン姿は、澪さんじゃなく美夏だ。
俺の言葉に、美夏は硝子製の個人用の机にハムエッグの載った皿を置く。
自分のぶんのハムエッグの皿を置くと、エプロン姿のまま座った。
机をはさんで正面に座った美夏があらためて答えた。
「・・・カギ、あいてたから」
「俺が閉め忘れたら、おまえは勝手に人の部屋に上がり込むのか?」
箸で半熟卵の黄身をくずしながら、とことん呑気に美夏が答える。
「うん」
「うんって、・・・うんはないだろ。うん、は」
溜息すら出てこない。俺は適当な美夏を横目に、しかたなしと箸をとった。
白身を崩し、口に運ぶ。味付けは塩コショウ。白身の下にはベーコンの替わりにハムが入ってある。
ベーコンエッグなら、なんとなく格好がつくが、ハムだとなにか違和感がある。
「今日は・・・」
「社長には・・・」
美夏と声が重なってしまった。
「正登からでいいよ」
なに、笑ってんだよ。美夏の笑みに曖昧と視線をそらしてから俺は訊いた。
「社長には、挨拶すませたのか?」
「まだ」
「まだって、・・・」
俺より社会生活がながいっていうのに、この娘ときたら。
「大丈夫だって。それに、あいつのところに顔出しに行ったって、どうせ仕事のことしか言わないんだから」
「そういうものか?」
「社会人、手を抜くとこは、手を抜いてこそ一人前」
「悪の手本だな」
美夏の相変わらずの笑顔に俺は心元、不安になって自然と訊いていた。
「どうしたんだ?」
箸でつついていた黄身が鮮やかな半熟の色を滲ませて白身に広がる。
返事のない美夏に視線をハムエッグから、美夏へと向けた。
「なにが?」
「今日はやけに美夏らしくなく親切じゃないか。
手料理とか、冷蔵庫のなかなんてろくに入ってなかったのに」
「別に」
「・・・それ、俺の口癖」
「たまには、あんたの寝顔でも見てやろうと思ってね」
「盗み見るの間違いだろ」
「盗み見られたらまずいことでもある、とか?」
いきなりの美夏の言い返しに俺は口を開いたが、なにを言えばいいか言葉が出てこない。
それを見つめる美夏の満面の笑みときたら・・・。
自分の顔に血がのぼっていくのが嫌でもわかった。開口した口をむんずと閉じる。
「まだまだ、だな」
「・・・なんとでも言え」
さすがに美夏を見つめ返すことができない。負けたという感覚のまま、ハムエッグに視線を落とす。
一人暮らしをはじめた。といっても、慎也とふたりだから、実際には、ふたり暮らしなんだけど、さすがにまだ美夏に口で勝てない。しかたない、しかたないと、別にくやしくはないんだけど、心のどこかで納得いかないものがある。俺は、おまえの弟じゃねぇんだぞ。玲奈を想う慎也の考えってこんな気持ちなんだろうか。もともと無口な慎也。ここに移り住んでから、姉の玲奈のことをなにも喋っていない。別に訊いたりしていないのだからあたりまえだが、あの姉弟の思い出を、慎也はいつか、俺のまえで喋ってくれる日が来るのだろうか。
「まいるなぁ。本当にまいる」
ハムエッグをつつきながら考えていた俺は、まいるなぁを繰り返す美夏に顔をあげた。
「なに?」
「これ」
そんな短い会話の後、
美夏は“コツコツ”と箸で半熟の黄身で汚れた白い皿をつついた。
「喰いたりねぇ」
「女の子が言う科白じゃない」
「昼はろくに喰ってないんだ」
俺の言葉を待っているのか、美夏はそのあとの科白をなぜか続けないで口をつぐみ、横を向いた。
いきなり美夏が男臭い科白を吐くのは、よほど腹が減っているのかと思い、自分の皿に残ったハムエッグを差し出すと、最初は『おまえの喰ったものなんていらねぇ』と言っておきながら、俺が手元に皿を戻すと、『やっぱり、もらう』といって、ひったくり、あっというまにむさぼり喰って、そしてまたひとこと、『喰いたりねぇ』と呟いた。
「ねぇ、正登は腹減ってないの?」
美夏がそれでも腹の減りが落ち着いたのか、女の言い回しに戻って訊いてきた。
当然のように俺は答える。
「別に」
「・・・嘘。さっき、寝てたじゃない。どうせ、夜働いて昼寝てる生活でもしてるんでしょ。
腹減っていないわけないじゃん」
「減ってないし、別に俺、あんまり喰わない方なんだ」
ちょっとした美夏の剣幕に、曖昧に笑い返しても、美夏は笑わなかった。
黙って立ちあがり、作ったときのエプロン姿のまま、空の皿を2枚重ねてとりあげ、部屋に備え付けの簡易台所で“カチャカチャ”といわせながら洗い物を終えた。エプロンで手を拭き、俺を睨みつけるように見ながら、怒るように言い放った。
「外に食べに行こう!」
あまりにもいきなりで、あまりにも場違いな幼稚な調子に感じたのか、
言った本人である美夏の頬が時間がたつにつれ、赤らんでいく。
そんなこと別に気にしない俺は普通に答えた。
「外食したかったんなら、そう言えよ。でも、俺、金ねーよ」
風圧が当たった。“ボフッ”という音と共に視界が黄色一色に染まる。
手を拭いて湿った黄色いエプロンが激しく顔面にたたきつけられていた。
昂揚の増した美夏の声が黄身のような黄色い視界越しに聞こえた。
「めし、喰いにいくぞ!!」