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夢見草
vol_1.6 淡黄色の泡
5
耳に届くか、届かないほどの蚊の鳴くような声だった。
あるいは、そしらぬ顔をすれば聞き逃せる瞬間、いつだってある、ごくありふれた会話のなかに隠されているその言葉を、あたしは無視できなかったのだ。肩を貸して歩く正登と、その夜の風は春を過ぎた頃の確かな温もりを含んで、目の前を通り過ぎて行く。ただ、それだけのことだった。あたしが、その言葉を無視できなかったのは。いつの頃からか、あたしたちはこういう風に会話をしていたのだろう。それさえもよくわからない日常のつね、日頃から思っている、こういう出来事から、逃げようとしているのか。すべてはこの一瞬にすぎない。夜風に香る、春の終わりの風のようにいつだって、その瞬間は気付かずに過ぎていくものなのかもしれない。悔やむのは、いつだって過ぎた後で。
「俺、・・今の仕事、辞めるかもしれない」
酔いの抜けきらぬ正登からの告白だった。
「・・・辞めてどうするの?」
「俺にしかできない仕事、見つける」
酒臭い息を吐きながら、目線ははっきりと前を向いて正登が断言した。
あたしに、正登の転職を止める理由もあるはずもなく、あたしはただ単に、その理由も訊かなかった。足取りが重い正登の腕を肩にまわし、支えるだけのあたしには、今の正登にそれぐらいしかしてやれない。
「とめるなよ」
「・・・別に」
「とめたら、辞める」
「誰もとめない」
舌打ちがすぐ隣の耳元から聞こえた。
「俺なんか、どうなってもいいか?」
「・・・とめてほしいの?」
「別に。美夏になんか、とめられたって俺はやめるけど」
前を向く視線が自然と脇道にそれていく。あたしは、ほとんど無意識にそれを見て言葉にした。あたりまえのことを、あたりまえに。
「やめたら、生活できないでしょ」
「・・・」
「次の仕事先をみつけてからでも遅くないとおもうけどな」
「・・・おもったらすぐに行動に移さなきゃいけないっていったのは」
「あたしだけど」
火照った腕を支えながら、あたしに視線をわざとあわせない。あたしは、そんな正登を横から見ている。支えているのは、あたしなんだろうか。それとも、・・・。
「優柔不断な男だとおもっているだろ?」
「そんなことないって」
「忍耐が足りないか?」
「・・・」
「はっきり言ってくれよ。おまえぐらいしか、いってくれないんだから」
「そんな仕事、今すぐ辞めな」
正登の視線はあいかわらず逸れたままだった。
再度、訊く必要もないことぐらいわかっていたのに、言葉は後に続く。
「そう言ったら、辞める?」
「辞めない」
逸れたままの正登の視線に、あたしは肩を貸している。
「だったら、それでいい」
肩にある腕の重みだけだった。今、確かにある感触は。
それでも、この夜の風は穏やかに頬と頬の間を抜けていく。
「俺の代わりなんていくらでもいるんだ」
「・・そんなことないって」
「なんだかんだ言ったって、高校中退のひきこもりだしな」
「正登の代わりなんて誰も・・・」
「いくらだっている」
間抜けな笑みが浮かんでいる。
酒に酔ったあわれな男がなにかを諦めた笑みを浮かべていた。
初めて見る正登の顔だった。
「誰かに必要とされるなんて嫌だ。だけど、必要とされたい。嫌われるのが恐いから、ひとりで来たんだ。みんな、俺のこと知れば嫌になるよな」
あたしはわざとなにも言わなかった。黙って聞き流した。
それが、肯定のものなのか自分でもよくわからない。
「愁も、文太も、よくがんばれるな。って、最近になってようやくわかってきた。
俺、バカだから全然しらなかった。偏見でみてたのは俺だったんだよ」
酒をのませなきゃよかったのかもしれない。あたしは帰りの道でいいかげんに言った。
「それが大人だよ」
悪い冗談を聞いたように正登は苦しく笑う。
「大人ってなんだよ。みんな、大人に成長したことを言い訳にしているだけじゃないのか。
そんなのは、子供の言い訳だよ」
※
「文太、かわいそう」
新宿近くにある、馴染みの居酒屋で耳を疑った。
ビールジョッキを口につけて飲んでいたあたしは、口の周りの泡も拭かずに、今、自分が口走ったことを反芻してみる。
正登のいうとおり、かわいそう・・・、というよりは、よくよく考えてみると自分ながらにかなり、えげつない行為をしていた。
警察に捕まってなければいいが、なんであんな事をしてしまったのか。
「痴漢でおもいっきり、現行犯逮捕だろ、それ」
「あぁ、でも、捕まるほどじゃなかった」
「俺の目を見ていってみぃ」
当然、目の前にいる正登を直視することなどできやしない。
というか、酒を飲んでいる今の状態じゃ余計に無理だ。
「だいたい、警察に捕まって、痴漢をした相手が従兄妹でした。なんて、嘘でも信じちゃくれないだろ。
しかも、従兄妹って、普通より、なお悪い」
「そうかな」
「だいたい、美夏は、男を馬鹿にして見てる所がある。
馬鹿にしてるから、そんな風に軽くあしらうんだ。
文太だって、健だって、俺だって」
「そんなことないよ」
ぐでぐでになった正登を相手に笑顔を向ける。
最後のひとりを除いては軽くあしらっていることは黙っておこう。
「やだねぇ、最近の若い奴は。簡単に人を見下して。特に女は」
すでにオヤジ化した正登を目の前にして、あたしはちょっと意外だった。とことん正登を酔わせると、どうなるのか、感情的に流される。口が軽くなって心の中にある数々の人にはいえない秘密を訊き出せると思っていたのに、口から出てくるのは慎也や、愁や、文太のことばかり。しまいには香月や澪さんのことが出てきたり。
なぜ、目の前にいるあたしのことは出てこない。
苛々しながら大のビールジョッキ片手に文太のことが口を突き抜けて出てきてしまった。文太なら、あたしを馬鹿にしたから、駅のホームで痴漢扱いして、ほっぽり出してきたよ。酔っていたのはあたしで、いらん奴の事を訊かれてもいないのに気付いてみれば喋っていたのだ。あたしは、ビールジョッキに浮かぶ淡黄色の泡をぼんやりと見つめながら考えて、咽喉の奥に流すように飲み込んだ。身体の内側、咽喉の奥、肌の表面がそれに反応する。色付く。汗も出てきた。そこまで飲めば、誰だって、いい気分になる。あたしの場合、酔うと気が楽になる。悩み事のひとつや、ふたつ。どうだってわすれられる。人にはそれぞれ、こんな存在があっていいと思う。趣味だったり、仕事だったり、恋愛だったり。
ちょっとしたことをくよくよ悩み続ける。あたしにはそんなことないけれど、たまには悩みたくもないことが向こうから訪れることだってある。そんなとき、人はどうするか。終わったことを悩み続けるか、腹を決めて突き抜けるか。前を向くか、後ろを向くか。
あたしだったら、考える価値も無い。
「文太なら、大丈夫だよ。あたしの従兄妹なんだから捕まるわけがない。以上、終わり。この話は終わり。いい、文太の事は忘れるの」
終わったことは戻りはしない。あたしはそういう人間だ。過去をくよくよ考えたりはしない。
そう、心に決めた。だから、最初、あたしは勝利を確信していた。だれよりも、しかし、元ひきこもりも、そう簡単に折れはしない。
あたしが居直って視線を正登に向けると、正登はアルコールであたしよりさらに据わった視線を向けてきた。あたしは、それに視線を逸らしていた。逸らしてしまった。
「じゃあ、電話して確かめてみろよ」
酒臭い息と共に正登が迫るように命令口調で言い放つ。
断る、断ろう。「あのさ、」「電話しろよ、いますぐに」
探偵に誘った頃から比べると、今の正登は警察関係の、それも性質の悪い側に近かった。
有無を言わせぬ尋問。
ここがオープンの取調室のような感じもするが、いたって普通の居酒屋。
あたりは喧騒にまぎれていた。変なのは自意識過剰のあたしだけだ。
わかっている。わかっているのに、身体は自然と理性を脱がれる。
思い通りにならない。だからこそ、生きていて感じる物事は、意外とおもしろくもあり、とことんつまらなくもある。
不思議とこんなときに頭に浮かぶことはこんなどうでもない、つまらない事実だけだ。
正登のいいなりになるなんて冗談でもしたくはなかったが、あたしの指先は今、携帯のボタンを押している。
これは、はっきりいって、屈辱だ。いちいちあたしの行為を、正登は逃さず監視カメラのような据わった視線で追う。
屈辱に感じる。一番嫌なのは、それを隠し切れない自分の理性。
ある本で読んだ事がある。心というものは、気質と性格という先天性の父母から受け継がれるどうしようもない資質があるそうだ。
だが、そんなことは根本的に間違っている。資質がダメであろうと、ずば抜けて素晴らしくても、それを表面化させる態度と行動が伴わなければ、まったく意味がないのだ。逆に言えば、態度と行動が良ければ素質なんて関係ない。血統のいいサラブレットだろうが、野良だろうが、大切なのは相手に対する対応だけだったりする。人の心が読めないのだから、素質なんて関係ない。それを知りつつ、あたしはこの状態を羞恥している。
それは、なぜか?
あたしはプッシュし終えた携帯を耳にあてる。呼び出し音が続く。正登がみる、みている。
正登はさきほどから、無表情の真剣な眼差しであたしを見つめつづけている。
何回めかの呼び出し音を聞きながら、正登の方を気にしているあたし。目が合うたびに逸らしているのはあたしじゃないか。
どうしてここまで動揺できるのかわからないほど、あたしは変になっている。
わかっているのに、動揺する。動揺していたからこそ、目の前に置かれたジョッキに気付かなかった。
淡黄色の液体に視線を据えればいいだけで、わざわざ、正登の方まで顔を上げなくてもすむじゃないか。
そのことに気が付いて、そして、呼び出し音は止んだ。
「うるせーな」
文太の声。
「文太?」
視線が上がる。正登がみている。
「あのさ、その、大丈夫だった?」
戸惑い。訊く行為でさえ、あたしは正登を無視できない。
「なにが?」
耳元から聞こえてくる声は文太だが、見ているのは正登。
「だから、駅で、その、あたしのこと痴漢したでしょ?」
「してねぇよ」
「捕まってないよ、ね?」
「捕まった」
あたしの酔いは半分ほど醒めてしまった。
冗談、冗談。あまりにも、無神経質な文太の声。
「痴漢ってさ、おまえ馬鹿じゃないの? 痴漢されたおまえがいなくなっちゃったら、捕まえられるものも捕まえられないだろ」
あたしは今頃になって重大なことに気が付いた。
そうだった。痴漢された被害者がいなければ、逮捕しようにも、逮捕できないじゃないか。
「でもさ、駅員にしつこく訊かれたのには苦労したぜ。
喧嘩ってことでごまかしておいたけど、玲奈がいなかったら、今頃・・・」
ゆっくりとボタンに這わせた指先にちからを入れた。
「なんでもないって、捕まってない」
そうだ。そうなのだ。
あたしは、正登の見せるこの一瞬、一瞬の人間臭さが好きなのかもしれない。
弱いところも、強いところも隠さず素直に見せるこの瞳が。
言葉が。あたしは、そういう正登の人間臭さに、惹かれているんだ。