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夢見草


vol_1.8   桜舞い散る、日々。



   6


 散った後の桜は、淡い色の白い桜の花を残し、所々に緑色の葉っぱを付け替え始めていた。
 アスファルトに舞い散った桜が風になびくたびに、街路樹の桜の木々たちは、花を散らして揺れる。
 大通りに面したバス停の待ちあい場所で東屋あずまやから、俺はそれを見上げていた。


 四方に壁のない柱だけの建物のことを、東屋という。
 柱と屋根だけの掘っ立て小屋だ。東屋という語を最初聞いたとき、なんのことか、わからなかった。
 一昨年の春の頃だった。俺が東屋の単語を知ったのは。近所の公園にある東屋が、どうやら不良の溜まり場になっていたらしく、知らぬ間に取り壊されてなくなっていた。久しぶりに帰って来てみれば、あったはずのものがなくなっていた。記憶の隅っこで埃のかぶった思い出が、現実になくなって、美夏も、玲奈もそっけないふりをして俺に訊かれて対応していたが、どこか、さみしそうにも今なら思える。俺たちは小さい頃からあの公園で遊んだ。美夏は幼い頃から、そこいらの男の子勝りのわんぱくな子供で、玲奈は大人しいながら、おとなの顔色を窺うような子供だった。そして、慎也はいつも、姉の玲奈のことを呼んで、おぼつかない足取りでいつも一緒にいようとしていた。

 俺たちにとっての、思い出の場所だった。
 名前がわからなかったんだよな。ほんとうに、「掘っ立て小屋」と俺たちのなかで呼ばれ続けてきたあの場所は、今は、ふたつだけのベンチが残るだけになっている。ほんとうの名前を知らなくても、俺たちにとって、あの、「掘っ立て小屋」は、「掘っ立て小屋」のままだ。


 突然、風が吹いた。
 頬をなでた。


 桜の花がくるくると風のなかを滑りながら、路面に着地していく。
 目の前の道路を車が走るたび、風が吹くたび、それが繰り返して続いていく。
 気付けば、もう何度も春を素通りしてきたような気がしてきた。桜が舞う路面を、俺は初めてみているような気がする。
 同じような毎日でも、気付かないところで知らないことが変わっている。考えてみれば、今日と同じ明日は、絶対にこない。
 気付かないことが、日々、俺たちの今にある。そんな、気がした。


   ※


 数日前から、俺は小説を書くのを一時中断することにした。断筆ってやつだ。


 風が吹いた。頬をなでる。
 唐突に風の渦が耳元で唸った。
 考え込んでいた。人が鬱の状態になったとき、外界の情報を無意識に遮断しているそうだ。
 音や視界。それに、時間の感覚。全ての人がそうだとはいえないが、俺は全ての人ではない。
 個人的なことに、俺には、音がでない、通常の速さより、ゆっくりと再生される壊れたビデオテープが視界という平面図に投影される。それに加えてときどきそのビデオテープが跳ぶ。俺は気付いたら、バス停から、いきなりバスに乗って、移動する席に座り窓の外をながめていた。というのも、俺の鬱状態のときの特徴だ。さっきまで、耳元で唸っていた風の渦はどうなったんだろう、なんてことを考えて、音がない視界の先にあるものをながめる。そうだ、俺はついきっきまで、国鉄に乗っていて、バスに乗り、私鉄に乗ろうとしていた。
 なんで、そんな面倒なことをしようとしていたのだろう。視界の先に、商店街のアーチが見えた。まもなく、バスは終点を告げた。


   ※


 春の日和ひよりだった。商店街のアーチの先端でポケットティッシュを配っていたお姉さんを通り過ぎると、なぜか、自分の手元にもそのポケットティッシュがあった。どこか、いつか、こんな場所を、俺はいつも経験し、誰かが、誰かを、なにかしているところを俺はいつも客観視していた。いまの俺にとっては、自分のことですら客観的にみてとれて、それが、いいのか、わるいのかさえあやふやになってきている。俺たちは、まだ二十代だ。世間一般的に若者と呼ばれてもいい年頃だ。

 それなのに、俺はなにも変わらず、変えられないままでいる。
 今の俺たちになにが必要なのか、なんてことを考える糸口もなく、日々は過ぎ去ってしまう。
 商店街の人込みに雑じり、消え入りそうなほどの存在で俺はあてもなく彷徨う。
 俺は、この商店街では、その他多勢のなかのたったひとりで、他人からみれば、その他多勢だ。
 小説が書けないとき、俺はいつも、この場所に帰ってくる。そして、いつもここからはじまる。
 はじまりであり、終わりの場所かもしれない。・・・なんて、臭い科白を吐きながら。
 きっと、街を歩けば、天上に透明なアーチのある商店街に行けば、俺に出くわすと思う。
 そのときは、素通りしてくれ。鹿十ではなく。

 街並みは少しみない間に随分と変わった。
 でも、それでも、自分自身が変わることは、ほとんどない。
 街を歩く人波は絶えず、続く。この一瞬のなか、一瞬が過ぎ。
 すべては、時間という間隔とともに通り過ぎてしまう。
 誰かが座っていた。道の端から、人波のあいだを抜く。視線があった。
 通り過ぎる人波のなかを、俺とおなじ傍観者の目でみていた。
 そして、他人事のように、ながめるその視線は、まるで自分とは一切の縁がないようにも、俺には見えた。
 香月とであったのは、この場所からだった。俺は、あいつの視線のさきにある、なにかに釘付けになっていた。


   ※


 鉄製の無機質な乾いた音が足裏から響いて耳元にまでつたわってくる。
 春、終わり。夏はきっと、あと数日でやってくる。垂れる汗粒を手の甲でぬぐい、俺はマングースの扉を開いた。
 ネットカフェ、マングース。夏先の陽気を遮断する冷房のひんやりとした冷風が俺をつつんだ。
 すぐめのまえに、香月の姿があった。頭をもたれていた。


 となりの椅子を引いて、キャスターのカラカラという音が鳴り、間髪いれずに座る。
 腰かけにもたれる。なさけない声で、椅子の背もたれが反る。あれから、少し、みないあいだに香月の髪は少し伸びていたんだな。
 そう、気付かされた。

 反応のない香月に俺は溜息を小さく吐いて、汗をぬぐい、声にだした。
「先生、・・・原稿のほうは進んでますか?」
「・・・・もう少し」

 寝ている?
 そう、おもったあとに机にもたれる頭があがった。

「・・・なんだ、アツシか」
「本名で呼ぶな」
「なに、なんかあった?」
「俺のほうにまで、連絡がきてるんだよ。締め切り」
「・・・え?」

「『え』じゃなくて、小説、締め切り。あれからどれくらい進みました?」
「ゼンゼン」

 くしゃっと乱れた髪をなおしもしない。はんぶんなげやりに笑ったように、こたえた表情に俺は視線を逸らした。
 現実と理想は違う。俺が小説を書かなくなって、まだ数日しか経っていないというのに、その苦しみを遥かに味わって、なおも書かなければならない奴がいる。文章で飯をくうのは、どれだけつらいか、今なら痛いほどわかる。・・・いや、いつだって、わかるとも。


「人間観察、今日はなしで?」
「・・・ひとぎき悪いな、ホント。・・・今日は、いいや」

 俺と香月がであってどれほど経っただろう。正登とあう前からだから一年以上になるだろうか。
 それまでに、幾度めになるか、しれないほど、この香月という物書きは商店街の人波を観察してきた。俺はそれを最初みたとき、どう感じたか、なんてことは、今ではあまり記憶していない。ただの暇つぶしか、それとも、誰かを待っているのか。その程度でしかなかった。


「ここに来るまえ、人間観察してきた」

 横目で俺を軽蔑するような視線で一瞬みつめ、香月は不貞寝ふてねした。
 小説を書く上でなにが一番大切か。自分のものを客観視できること、物語としてのバランス、独自性。俺は、自己証明のために小説を書き、横で不貞寝している奴は、自分自身の存在を忘れるために書いている。間逆の文章に対する考え方。違うからこそ、一緒にやっているともいえなくはない。人間観察とは、俺のなかではネタ探しであり、香月にとっては、客観視をすることによる自己の存在を消す行為のことでもある。

「今日は、なんかいいことあった?」寝ながら香月が訊いた。
「なんにも」俺はあくびがでそうな声で答える。

 小説家なんて、こんなもんだろ。
 小説を書いている奴なんて、こんなもんだろ。
 俺はいつから、こんなにもだらしなくなってしまったのだろう。
 『産まれたときから、だろうに』・・・香月に訊けば、こんなところか。
 寝る香月をみながら、俺はいつもなにかに迷っているし、悩んでいる。
 それは、単なる自己証明のためのことからくることも知っている。早く、結果を残したい。
 そして、誰かに認められたい。自分の満足できることを書きたいと願い、その反面、表現の世界に完璧なんてことはありえないということも知っている。
 だからこそ、俺は書いているし、完璧がありえない。だから、どうした。という根性もある。俺は自分の書きたいことを書き、書きたくないことは書けない。だから、名があがらない。信じられないかもしれないが、となりで不貞寝している奴は、まぎれもない物書きであることも、俺は知っている。


「・・・ぁ」

 短い声を漏らし、ゆっくりと顔をあげる香月に、俺は、おでこが赤くなった眠そうな表情をみつけてしまった。


「アイスコーヒー、頼もう」




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