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夢見草
vol_2.5 暇な探偵の転寝
9
夏のどこまでも蒼く抜ける青空の下、井の頭公園で自販機から缶コーヒーを取り出している、あたしがいた。遠くの木々に張り付いた蝉が声を荒げて、鳴くのを止めない。一度しかない今日と、そして、一度だけしかない夏を、杭の残らぬように、蝉は鳴きつづける。ただそれだけのことが、五月蝿いと感じるのは、自分はそれにはなりきれない、なけない蝉だからだ。この夏の、この一瞬は確かに、一度しか訪れない。それに気付いたのは、どれほど蝉の声を聞いた頃のことだったろう。
「なあ、美夏」
屈んだ姿勢から、缶コーヒーを両手にもって顔をあげると、正登がベンチに座ってあたしと視線があわさった。陽炎で空気がゆらめく透間から、正登がみえた。
「どうか、した?」
視線だけむけた正登が、無表情でそこにいた。
「…こっちに来て、となりに座れよ」
ベンチに座り、両手に缶コーヒーを持ったまま、あたしはその場でなにもすることができず、ただただなにかを待った。それが、どうしても不思議と居心地がいいものだから、あたしは、正登が言葉にするまでの間、夏の空に眼を細めていた。
「さみしいんだ」
唐突に正登がいった。ふたりしかいない公園のベンチに寄り添っているあたしは、こんなことしか言えない自分が嫌いなのに、それしか、言えない。
「…蝉が鳴くのは、ひとりがさみしいから?」
「違うよ。俺が、さみしい」
さきほどまで無表情だったのに、似合いもしないなさけない誰かを頼るような視線は、確かにあたしを頼っていた。次の瞬間、路面に缶コーヒーが転がった。あたしの両手が正登の両手に抱きこまれていて、それは、つまり、正登に抱きしめられているあたしがいるわけで、
「迷惑、…かも、しれないけどさ。おまえのこと、好きなんだよ」
蝉の声。確かに、正登の声は、蝉の声に似ていた。
「…正登」
「どうしても、好きなんだ」
正登。あたしも、…あたしだって。両手に、しっかりと意思を込める。
「正登ぉ…」
信じられねー。
寝てるよ、こいつ。
しかも、なにか寝言いってるし。
「―――」
「あ、起きた」
「―――」
―――なにもできない俺だけど、美夏のことが好きなんだ。
「よお、起きたか?」
「―――」
「つーか、おまえ、ヨダレついてるんだけど」
夢がフェードアウトして、現実がフェードインしてくる。
夢と現実は表裏一体のように、どちらかが、消えれば、もう片方がみえてくる。夢が消えれば、それはつまり、現実。それは、違うと誰かが否定するかもしれない。けれど、あたしには、それは限りなく夢に近い現実の言葉でしかない。あたしが欲しいのは夢の続き。夢が現実になってしまうことなど、間違っても、現実の現在には、存在しないのだから。
「ていうかさ、どうしたら、仕事中に寝れるかね?」
マグカップを手に、給水所から出てきた健は、あたしの背後で文句をたれつつ、自分のデスクのほうへとむかっていく。
寝ぼけ眼のまま、できる限りの悪態をついて言ってやった。
「寝たいから、寝たの。わるい?」
「不謹慎だな。その科白も、格好も」
健の言いたいように言わせておけばいい。
あたしは、健を無視するわけでもなく、黙って組んだ両てのひらに蹲って聞いているだけだった。自分の口元に触れた指先がなんだかぬめっている。信じられない。本当にあたしはヨダレをこぼして寝ていたらしい。
「真由美さんになんか言われたんだろ?」
背をむけたまま、デスクに座る健がいった。
いつもと同じ。パソコンの電源が入る音が先のデスクから聞こえてくる。これも、夢なのだろうか。
「別にぃ」
「解決法おしえたっていってたけどな」
「あんたにいっても、どうしようもないことだから、あえていわないよ」
夢の続きならばいいのに。もし、これも現実ではなく、夢の続きならば、いいのに。醒めることのない夢という名の現実。
「真由美さんに直接訊いた」
あたしは、ヨダレをぬぐって健をぼんやりとながめた。
「まぁ、教えてくれなかったけどな」
「馬鹿ね。あたしを騙して聞き出せばいいのに」
「そんなことしたって、おまえを騙せないことは知ってるからな」
時計の秒針が、触れるのが、空気を伝わって聞こえてくる。これが現実なのだろう。知らず知らずのうちに、気づけば、小降りの雨が無数の暗がりの雲とともに事務所の窓を覆っていた。慎也は今日は休みだし、父と真由美さんは、仕事でいまは事務所にはいない。つまり、あたしと健だけということだ。自分のデスクに座っているだけで時間が過ぎてしまうのを実感することは、ただ、過ぎる退屈な夢の続きを追って体験していることに似てる。いつものように、決まって、健のデスクからキーボードを叩く音が聞こえてくる。
夏も終わりに近づいた、午後に降った雨の日の現実のことだ。
※
「ひとつだけ、あるよ。マサトを助ける方法が」
真由美さんは実にいろいろと女の色気を知っている。理解しているといったほうが正しいのかもしれない。それに比べ、あたしときたら、このときのこの科白を聞いても、真由美さんがなにを言おうとしていたのか、わからなかったのだ。
「どうしたらいいんですか?」
「知りたい?」
「知りたいから、訊いたんですけど」
このときの妖しく微笑む真由美さんを、止めるべきだったのかもしれない。
「簡単なことよ。美夏が、マサトに自信を持たせてやればいい。美夏にしかできない方法でね」
「あたしにしかできない方法?」
「付き合っちゃえばいいのよ。あなたは、あたしをしあわせにして。そうしたら、あたしは、あなたをしあわせにしてあげる、ってね。夢がなければ、つくればいいのよ。あなたとマサトで」
あたしはきっと、真由美さんを羨ましく感じていたのかもしれない。
今になって、いえることだけれども。
「そんなこと、あいつが受け入れるわけないじゃないですか。なにいってんですか。あたしは、真由美さんとは違うんですから」
「そうかなぁ。とっても、合理的にもおもえるけど」
「ありえません。そんなこと」
断言までするあたしに、真由美さんは他の皆が帰っていなくなった事務所で、静かに息をついた。窓の外は、少しばかりの星が針の先ほどの光を、暗幕の空で灯しているだけだった。蛍光灯だけが、薄ぼんやりと事務所にいるあたしと、真由美さんを照らしうつしている。真由美さんは、優しくいってくれた。
「ねぇ、美夏」
「…なんですか?」
「男の子ってね、自分以外に守るものができれば、強くなれるものなんだよ?」
あのあと、あたしは、なんと返えたのだろう。
忘れてしまった。でも、なんであのとき、あたしが真由美さんの案を断ったのかは、答えられる。あたしは、傷つくことが、こわいのだ。好意をもって、好きになって、それで終わるのが。どうしようもなく、こわいだけなのだ。