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夢見草
vol_2.6 暇な探偵の転寝
※
カフェと喫茶店の違いは、どこにあるのか。アルコール類を置いてある店をカフェといい、置いてないところを喫茶店と呼ぶ。ならば、俺は、確実に喫茶店にいることだろう。いま、俺は酒を飲みたい。喫茶店にいるのにそんなことを願うのは、やはり、この人と一緒にいるから。たぶん、俺の勘はあったている。
「マサトくん。キミは美夏のこと、どう想っているの?」
「なんですか、いきなり?」
「なぁに、ごくごく自然的な会話の糸口ってやつよ。私と、マサトくんとの仲の、ね?」
それは、突然の雨が全てのことの発端だった。
「雨、本降りになってきたね」
同時に窓の外を眺める。夏も終わりに差し掛かったある日の午後。雨宿りの軒先で、となりで同じように雨宿りをしていたのは真由美さんだった。そのことに俺は後から気付かされて、「鈍感すぎるよ」と真由美さんにいわれてから、30分が過ぎた。そして、いま、互いの濡れて黒くひかる短めの髪を眺めながら、俺たちは、雨が降り止むまでのあいだ、喫茶店に逃げ込んでいる。たかが、それだけのことなのに、この人と一緒にいるだけで、それが偶然には感じられない。この雨と同じように、訳が分からなかった。突然、降り、俺と真由美さんを出会わせた。それだけで、充分だった。
「どうかした?」
視線に気付いて、真由美さんは俺の視線を、同じ視線で捕まえた。
「別に、なんでもないです」
「雨に濡れて、透けてる?」
真由美さんは指先で自分の着ている白いブラウスをつまんでみせた。
白いブラウスは微かに透けているといえば、透けてはいたが、それほどではない。
「そんなことないけど」
「そう」
ぽつぽつと降り続く雨。自然とそうなってしまうように、俺と真由美さんの視線は窓の外へと移行していってしまう。溜息ひとつ、俺はついて真由美さんに感じていた違和感がそれとは違うことを尋ねていた。
「今日は仕事じゃないんですか?」
「うん。今日は仕事じゃない。そういうマサトくんは?」
「仕事帰りですよ。見ればわかるじゃないですか」
そういって、雨で見事に汚れきったシャツを指先で摘みあげて真由美さんに示してみる。
「頭のつかえない奴は身体で社会に従事する。社会の原則ですね」
皮肉るつもりはなかったといえば、そうでもない。ただ単に、愚痴を聞いてほしかったのかもしれない。真由美さんは苦笑いを浮かべたまま、俺を見据えた。
「大人の規則は、わかった?」
そう訊き返されると、実に答えずらい。きっと、俺はどうしようもなく不器用なのだ。答えとはいえない、その言葉は、自然とでていた。
「身に沁みてますよ、今頃になってきっと昔のつけがまわってきたのかもしれないですね」
苦笑いで通用するはずのその言葉は、真由美さんには通じなかった。真由美さんは真剣だった。いつのまにか、苦笑いから、真剣になっていた。真顔でも、怒っているのでもなく、ただ、瞳が真剣だった。苦笑いをうつされた俺は苦笑いをゆっくりとひっこめた。
「後悔、してない?」
「後悔?」
「そう、後悔。慎也を連れてここに来たこと」
「してないっていったら、嘘になりますね」
「やっぱり?」
「傍からみてもわかりますか?」
「そうね。瞳が死んでるし」
言葉を失った。なにを言えばいいのかわからない。
真由美さんは、真剣な瞳のままでいった。
「もう気付いていると思うけど、尾行してたのよ、あなたのこと」
最初に真由美さんと出会った頃の違和感が、真由美さんのその言葉で納得できた。
「説教しにでも、つけてきたんですか?」
「まあね。だって、あなたが迷っていると、慎也も美夏も仕事にならないんだよ」
「俺の責任ですか?」
「そう。いま、ここで、できることならば、直してほしいわけなの」
率直にいう真由美さんに、俺は前傾姿勢で喋っていたことを挫かれた。
俺が、都会に出てきて最初に知った本当の大人というか、自分をもっている人は、不思議なことに俺に説教をしている。
窓の外はいよいよ勢いを増して、雨が強くなってきた。店員が置いていった珈琲も、気付いてみればなくなりかけていた。
逃げ出したい。雨が強かろうと、どれほど濡れようが、この喫茶店に真由美さんといることを俺は嫌った。
別に真由美さんを嫌っているわけではない。むしろ尊敬しているほどだ。だからこそ、聞きたくないことを、認めた人から聞かされたくはないだけだった。それだけのことなのに、真由美さんが真剣だからこそ、逃げ出すことなんてできないと感じるのも、この人を尊敬しているからだろう。
「他人のせいにしてない?」
真由美さんの一言で、考えていたことが見事に消された。
「なんのことですか?」
「運命とかさ、社会とか、漠然としたものに責任を転嫁してない? 自分の置かれた状況とか」
だったら、どうしろというんですか?
「してませんよ。全てはきっと、俺の責任なんです。過去の俺の、ね」
笑っていえた。不思議と、それはきっと、本心の欠片すら含まれていないからだ。
「・・・そう」
見透かされているのは、わかっていた。
真由美さんの真剣な瞳に、俺は嘘を突き通していた。
意地というやつなのか。それとも、それを知ってのことなのか。
俺は黙っていた。そして、席を退いた。真由美さんは、俺が横を通り抜けようとする間際に雨音とおなじ静けさで言った。
※
雨が降り続いていた。ただ、そこに。
ずっとずっと降り続く雨はただ抱えきれなくなった雨粒を捨てる果てのない行為そのものだった。
自分と似ていた。俺も、この雨のように果てのないことを悩んで、その原因を考えている。考えることだけが、俺のやるべきことでもあるように、同時に悩むことも止められない。悩むことを止めれば、きっと、俺は俺でなくなる。そんな恐怖心が俺にはあった。
「ちくしょう」
俺は逃げた。真由美さんから逃げた。
俺のことで真剣になってくれた人から。
喫茶店の席を退くとき、最後になって真由美さんがいってくれた言葉があたまのなかで、暴れている。
「本当は、もう気付いているんじゃないの?
自分にしかできない仕事を見つけるんじゃなくて、
自分にしかできない仕事をつくらなければ、見つからないって」
数年前の、あの頃。学校が嫌で、他人の期待に耐えられなかった。
結局、それが自分の保身のためにしかなくて、だからこそ、俺は逃げた。自分が今、やるべきことから。先のことが見えないという理由で。俺は逃げた。ひきこもりから開放されても、そして、都会に来てさえも、変わったのは環境だけで、俺自身は、なにも変わってなんかいない。自分の都合のいいように言い訳をいつも考えて、自分の都合の悪いものを敵にまわす。そうやって、いつだって、俺は自分を守ってきた。そうすることしか、俺にはできなかった。喫茶店のなかで、俺は雨が降り止むのを待った。それでも、外に出てみれば、雨は未だに強く降っている。俺は構わず、濡れてやった。俺みたいな人間は濡れるべきなのだ。
雨に濡れて、汚れて、走ることをあきらめた奴は、雨のなかでも歩けばいいのだ。
そうするべきなのだ。
下を向くしかなかった。「ちくしょう」と平仮名で呟きながら。
俺は、俺という人間は、結局は自分の力だけでは、どうにも自身を変えることはできそうにない。自分を認めてくれない者は毛嫌いするタイプだ。例えそれが、俺のために言ってくれた人でも。俺はきっとどこかおかしい。いつも保身ばかり考えている。傷つきたくない一心で、余計に傷ついている。
俺はきっと、こんなくだらない自分が好きなのだ。ダメだからこそ、好きなのだ。
だから、変われないんだ。いつだって、その気になれば変われる奴は変われる。地方だろうが、都会だろうが関係ない。
俺はただ単に、弱い自分を追い込んでみたかったのかもしれない。
そして、気付けば、この有り様だ。弱い自分を露呈することで安心している。
真剣になやんでいるふりをしている。現状を観察し、よく考えれば、それほど生きるに困らないことなのに。
五体満足じゃないか。病気もない。ただ、それだけしかないことだった。
それ以外のものを、求めて、俺は悩んでいる。
それがなんなのか、漠然とわけがわからないだけで、俺はいつも立ち止まっている。
ずぶ濡れのなかで、俺は電車に乗り込み、吉祥寺で下車をした。
雨のなか、俺はアパートまでの距離を歩きながら考えがまとまらないうちに到着していた。
思考をしていても、足は道順をおぼえている。不安でも、いつかは眠れる。
見上げたアパートまで階段をのぼり、ドアの前で立ち止まる。
慎也がいるんだ。この先に。
「大丈夫」慎也の前では弱気になれない。
笑って、傘をわすれたことにしよう。根拠のないことだけが、俺には必要なのかもしれない。
降り止まぬ雨はもう、見飽きていた。ドアノブに手を掛けて、俺の手は意思とは関係なく動いていた。