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夢見草
vol_2.7 かわらないもの
10
ひとりの子供が教壇の上で黒板消しとともに、チョークの粉を舞い散らせながら左右に伸びる手をみつめていた。
黒板消しが左右に揺れていた。とても大きな左右の幅、黒板消しは小気味いい音とともに滑りながら、手品のように黒板と黒板消しとの狭間で生まれる白い粉は、なぜか僕の好奇心を擽っている。チョークの粉雪は、微かだが、黒板を滑り、落ちるように降り積もっていった。
僕は、そのとき初恋の人に恋焦がれていた。授業の合間、休み時間になると、この場所にやってくる。
そうすると、いつも決まって、その人は僕に優しい微笑をむけてくれるからだ。
先生の服はいつも日毎に違っていた。服は違っていたが、ひとまとめにした長い黒髪と、縁のない小振りで丸長の眼鏡だけはいつもと変わらなかった。ただ、微笑を僕は、微笑で答えるときもあったし、先生が、僕に話をかけてくれるときもあった。そのときは、先生が僕に声をかけてくれた。
「どうしたの? 西崎くん?」
知らぬうちに僕はこのとき初めて、誰かを見惚れることを自覚していた。
訊きたいことがあったのに、話すきっかけは先生からだったからだ。
「訊きたいこと、あるんです」
改めて訊く僕の声は多少、子供なりにも上擦っていた。
先生は変わらない笑みを絶やさないでいてくれた。
「なぁに?」
「なんで子供っていっつも毎日学校に来て、勉強しなくちゃいけないんですか?」
「うーん。むずかしい質問だね」
「先生でも、むずかしいの?」
「冗談。先生に解けない問題なんて、ないんだから」
屈んで、僕を覗き込むように、先生はいった。
「西崎くんが、毎日学校に来て、勉強をしているのはね。それはね、勉強をした分だけ、西崎くんの未来の可能性が拓けるからだよ」
「未来の可能性?」
「西崎くんは、将来はなんになりたいのかな?」
「うーんと、・・・まだよくわからないけど、・・・・先生みたいな、先生になりたい」
「じゃあ、いっぱい勉強しないとね」
そう嬉しそうにいって、頭を撫でてくれた先生の手は、暖かく柔らかなものだった。
「・・・あ」
「どうか、したんですか?」
「チョーク」
「チョーク?」
黒板消しを手にしていた先生の手で撫でられた僕の頭には、季節ちがいの冬の子が少しだけ降りていた。
「あとは、なにか聞きたいこと、あるの?」
チョークの粉で白っぽくなった僕の頭を先生がチョークが付いていない方の手で撫でながら尋ねてくれた。
僕は上気していた。本当はもう、訊きたいことはなかったけれど、自分が照れていることを知られたくなかったから、その場でおもいついた質問をしていた。本当に、このときはおもいつきだった。
「あとは、その、・・・どうして、大人は仕事をしなくちゃいけないんですか?」
先生は、僕の上気した顔をみて、微笑んだ。
微笑んだ。微笑んで、そこで、夢から醒めてしまった。
目の前には、春の日差しのように暖かく微笑む先生も、自分より遥かにおおきな黒板もない。あるのは、古ぼけた部屋の天井だけだった。
夢だという実感を得るまでに少しばかりの時間をかけて、幼い頃の僕だった俺は、よく好きだった先生にこんな質問を訊いていたことを思い出していた。白昼夢だった。ただ単に、昼寝をしていた。過去の僕をなぜだか知らないが、俺は僕を他の誰かと同じ視線でみていた不思議な夢だった。
小学生の低学年。僕は好きだった担任の若い女の先生に質問をしていたこと。夢が醒めたのは、大人になったら、どうして仕事をしなければいけないのか、その答えの部分だけが思い出せないまま、古びた天井が視界に映り込んで肝心の答えがみつからないで夢から醒めていた。
「答えは、自分で見つけろってことですか? 先生」
そう質問してみるが、当然ながら、毎朝毎晩みている古ぼけた天井はなにも喋ってはくれはしない。
真由美さんに言われたことが昨日のようにおもえる。俺は僕のまま、なにも成長していないのだろうか。
うだるような暑さから開放されて、秋がやってきた。一年は、ながいようで短い。
近く冬が訪れる。そして、春になる。春、その季節になったら、俺はどうしているのだろう。
想像もつかないようなことを巡らせて、あの頃の僕が先生になっているところを想像した。
俺は、あの頃の僕とは違う。未来の可能性、それすらも俺にはとんと見えなくなっていた。
※
待ち遠しかったはずの春は遠のいて、今では影すらもない。
早く大人になりたいと思っていたあの頃とは反対に、俺は子供に戻りたいと夢から醒めていまの今まで捨てきれないでいた。
あの頃、期待していた可能性は、いまや自由人と名を変えて、ここにいる。
確かに、自由だ。学校という教育機関から開放されて、かといって、社会という首輪にも従わない。言い方を変えれば野良犬になった。好きなときに寝る。自然と、目が覚めるまで夢を見る。そうすることが、僕の、あの頃の可能性なんでしょうか? と尋ねたところで、俺には先生も誰もいなくなっていた。僕は確かに野良だった。いや、野良だ。現在進行中で。だが、現実は違う・・・。
辺りを見渡した。街中、吉祥寺周辺を一瞥しただけでも、そうとうの野良が生息している。その殆どが、若い野良だ。街を歩けば必ず聞こえてくる笑い声。なにが、そんなにおかしいんだ。俺にはわからない。どうして、そんなに、楽しめるんだ。それしかいえない自分も俺は嫌いだった。人は楽をするために、発明を繰り返してきた。楽しむためにサービス業という分野がなりたっている。おかしいのは俺か、あいつか。そんなことばかり、考えてしまう。俺は人生をたのしめないタイプの人間で、それだけのことだった。そう、思い込むことで、僕もまた、楽をしていた。逃げていた。現実は、今という一瞬にしか、訪れない。そう、願いつつ、俺は喉が渇いた欲求を満たすため、コンビニに入っていく。綺麗に陳列されてある雑誌を立ち読みしている人たちが目に付いた。俺は知らず知らずのうちにそのなかに紛れ込み、週刊誌を手にしていた。指は、今週の運勢の欄で止まった。
※
部屋に帰り、万年床で横になる。
そして、くすんだ天井を見上げた。
事欠いてもなを、澱んでいた。真由美さんと会ったあの日、俺は真面目に仕事をして以来、あの日以来から、肉体労働をすることさえも、億劫になっていた。道路工事の警備員や、日雇いの労働でさえも、俺はやる気を失っていた。そして、今朝の夢が俺を打ちのめした。全てのものを、あきらめてしまえば、もしかすると人間というものはもっとも楽になれるのかもしれない。天井を見つめながら、思った。美夏も慎也も俺に期待してくれているのだろう。だが、俺はなにもしてやれない。期待に添うだけのことは、無理だ。俺は自分のことでさえも、満足させることができない。そんな奴に、なにができるのか。俺は可能性とやらを信じすぎたのかもしれない。社会というものの流れに従うべきだったのかもしれない。世界中から、社会の全てから、この薄汚い部屋の一室が隔離されているように思えた。いや、実際にこの部屋は隔離されている。俺は、ほおっておいてほしかったのか。
俺は、そして、瞼を閉じる。いつだって、この世界から、隔離できるじゃないか。
また、夢をみた。
ぼんやりと輪郭がぼやけた蛍光灯と、布団ではなく、ベッドで横になっている僕。
漠然と見えない未来を無力な僕が蛍光灯を見る先で彷徨っていた。
いまとさほど変わらない。独りだった頃の僕だった。