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夢見草


vol_2.9   かわらないもの



   ※


 俺は、真由美さんの思惑どおり、柵を乗り越えて逃亡することはなかった。そこには、やはり、現実と同じように誰かに従事することを、いまは願う俺がいた。僕ならば、こんな柵など、軽く飛び越えて、たとえ歩いてでも帰ったはずだった。
 なぜだか、そんなことが脳裏に張り付いていた。過去の僕ができて、現在の俺にはできないこと。
 不思議にもおもえたし、なぜだか無性になさけなさを感じていた。
 昼間に家を出てきたはずなのに、あたりはすっかり夕暮れをまとい、通り越して夜になろうとしている。


 そんな暮れた空をながめている自身が、どうしようもなく理由の見えない無力感のような塊でしかなく、現実はただ穏やかなのに、支配されている。
 当然なことだった。パーキングの軽食所からみる硝子越しの世界が、それとかさなっていたからだ。普遍でいて、どこか、世間一般とかいう生活環境から隔離されたこの場所を、自分と重ねてみていたのだから。俺はこの車だけのためにある通路のように特異なのだ。通行人はいない。それを引き込む商店も、そして流れを止めるべくしてある信号機すらもない。ただ普通ではありえないまっすぐな道がある。・・・普通なんて、ここにはないのだ。そして、俺も普通じゃない。俺は普通には、もう、なれない。どう努力しても、変えようとしても俺は普通とは違う。この場所で安らぐことは、きっとそういうことに近いのかもしれない。俺はテーブルの向かいに座る真由美さんに声をかけた。


「真由美さんは、水商売をやっていたんですよね?」
 自販機で購入した缶コーヒーと、売店でかったカレーライスの皿をみつめて俺は尋ねていた。
 真由美さんは皿のうえの銀のスプーンを中途半端に戻して僕にいった。
「そうだけど?」
「なんで、やめちゃったんですか?」
「え? なんで、やめたって、・・・」
 いったん置いて、考えるように空を眺めていた真由美さんはあらためて笑った。
「変なの。どうしてやっていたかじゃなくて、どうしてやめたかを知りたいの?」
「どうしてやめたかを、知りたいんです」
 俺がそういうと、真由美さんは僕にいった。
「となりの、・・・アパートに住んでいる、となりの人が引っ越していったから」
「引っ越したら、やめちゃったんですか?」
「うん。やめた」

 真由美さんは、そういって、僕に話しを続けた。
「なんの関係もなかったんだよ。名前すら、知らなかった。仕事から帰って、自分の部屋の方をみたの。そしたら、いつも、となりで、私よりもまえに住んでいた隣人がいなくなってた。いつも、ベランダの、カーテンの隙間からみえるごみごみとした生活の跡が、きれいさっぱり。カーテンは全開で、その先には、綺麗にされたフローリングだけしかなかった。だから、やめたの」
「そんなことで、やめちゃうもんなんですか?」
「お金を稼ぐためだけだったからね。あのころは」

 まいったね。と真由美さんは顔をつくって、みせた。
「いつか、自分もこうなるんだろうなって、おもっちゃったんだね」
「仕事、続ける気は、なかったんですか」
「ないない。だって、やる気なかったもん」
「やる気、なかったんだ?」
「それなりにやってたけどね。やる気なんて、なかった」

 缶コーヒーを飲んだ。カレーを食べた。
 そうしていて、不思議におもった。僕は、水商売をしていたという人と一緒にパーキングでカレーを食べている。
「俺も、やる気なんてないですよ。ただ、お金のためです」
「・・・」
「・・・生きることにすら、金は必要ですからね。まったくもって、不便な世の中です」
 僕の最後の方の「不便な世の中です」で、どちらともなく、僕と真由美さんは互いに笑っていた。
「変な話、こんなこといってると、みんな自分とおなじっておもえてくる」
 真由美さんがいった言葉に僕は戸惑った。
「真由美さんと、俺はおなじですか?」
「君のほうがしっかりしている」
「・・・俺が?」
「慎也をつれて、知らない土地に出てくるなんて、誰にもできることじゃない」
 信頼されているとおもった。昼寝をするまえのあの、不確かな嫌悪感が僕の動きを鈍らせようと、俺のなかであがいているようだった。真由美さんに気付かれないように、俺は、正直に、喋ることにした。
「慎也は、俺と似てるから、独りになんてしてやれなかった。家にいることが、どれだけ自分を制限させるか、知ってた。助けられたのは、俺の方ですよ。独りでは、家を出ることなんて、できなかったんです。慎也がいたから、俺はあの家から離れられたんですよ」
「・・・慎也を守るために?」

「慎也を守るため?」
 僕は真由美さんのその言葉を反芻していた。
「マサトにとって、慎也が守るべき人なんだ?」
「まあ、いいかたを変えれば、そういうことになりますか?」
 中途半端に俺が返事をすると、真由美さんはなぜだか少し納得しているようだった。


   ※


「少しだけ安心したよ」
 夜風をあびながら、僕と真由美さんは外で会話を続けた。
「こんなんでいいんですか?」
「なにが?」
「真由美さんがしたかった話しって?」
「充分、充分」
「で、俺はこのためだけに連れ出されてきたわけか?」
「ご不満なら、朝までお付き合いしましょうか?」
 俺と真由美さんはお互いに顔を見合わせて笑顔を浮かべる。
「冗談、きついぜ」
「ひとこと、おおい」

 来たときと同じように、バイクに跨った。
 僕がのった真由美さんのバイクは、ゆっくりと、車線に合流し、近くの料金所で下りた。
 帰るときは、下の道を走った。本当に、高速に乗り、パーキングによって、話をして帰っただけだった。
 ゆっくりと、見慣れない景色が僕と真由美さんの左右の視界を通りすぎていく。路上の脇には通行人がいる。
 さまざまな光がある。音がある。帰ったら、僕はまたあの、見慣れた天井を見ながら眠りにつくだろう。
 そしてまた、少しだけの隔離を閉じて、気付かされるのかもしれない。現実からは、どうやっても逃げられないと。
 真由美さんが、いった。

「今度は、みんなを連れて、どこかにいこう」
 さまざまな光と雑路に入り混じる声を聞きながら、信号が赤になった。
 ゆっくりと、景色が停まる。僕は、それをわすれないようにみつめていた。
 現実は変わらない。なにもかも。だからこそ、前へ進むしかない。
 前にしか、進むしかない。




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