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夢見草


vol_3.1   明けのこない夜



 父は誠実な人だった。
 父は誰よりも真面目で、だからこそ全てが平等だと勘違いをしていた。
 そして、真実が数学のなかにあると誤魔化す人だった。
 そんな父が選んだ死に方は、やはり過労死という選択肢だった。

「慎也が部屋からでてこないの」
 母の言葉に父は表情をあきらかに曇らせていた。
 それは慎也を気に掛ける父の表情ではなく、仕事に差し障る出勤前になぜそんなことを相談するのか、という表情だった。
「最近、残業続きで帰ってきてからじゃ遅いでしょう?
 だから、せめて仕事に行くまえでも、あなたから声を掛けてあげて」

 母は悲願していた。
 言葉自体は悲願したように聞こえなくても、母は心のどこかで悲願をしている。
 私にはわかっていた。私だけがわかっていた。
「悪い。もう、時間だ」

 父は鏡に向かい、ネクタイを締めながら平然と感情のこもらぬ声でいった。
 私が高校の制服に着替え終わって盗み見ているとも気付かずに、その様子を観察しているのも知らずに。
 母はあきらめた顔をして、父は、父ではなく社会人のような、なにか苦行を強いられている僧侶のような顔をして、鏡に映っていた。
 全ては、きっと。・・・きっと、そのとき、全てを理解していた私が出て行くべきだったのだ。
『おねがいだから、パパ。慎也に声をかけてあげて』

 私は逃げるようにそっと玄関のドアを後ろ手で閉めていた。
 その家に、すべての悪いものを押し込めるために。しまいこむために。
 私と慎也は関係ない。私と父は違う。私と母は、同じではない。
 きっと、そう思い込みたかった。そう思い込んでいた。


   ※


 父が勝手に過労死を遂げてなにが変わったか。
 それはいうまでもなく、なにもかわらなかった。
 棺に寝ている人が父だとは思えなかった。父はやつれていた。
 どこか、壊れてもいた人だった。誰がそうしたのか、誰が父をこのような姿にさせたのか。
 理由はあるにせよ、父は自らの運命を予感できたはずである。現在の私にはいえる。
 父は仕事が生きがいで、そして生きながら死んだ。


 父が死んでから、私は父と同じ道に進んでいた。
 高校を卒業し、情報処理系の専門学校に入り、ネットカフェでバイトをする。
 私はやはり父の子供だった。数学が全ての真実であり、それを信じることで、その他多勢の不合理を忘れられる。
 私は信じていた。この惰性のような生き方を変えてくれるのはただひとつ。数式のような完全なる理論だと。
 ただひとつの問題点をのぞいて。

「ねぇ、慎也」
 いつもとおなじだった。
 なにも変わらない毎日。なにも変えられなかった。
「ごはん、ここに置いてくね」

 惰性だったのだ。
 慎也、たったひとつの白ではない、私の光源が。
 私の惰性の生き方を決定付けていた。


   ※


 私は、日々壊れていった。
 私の生き方を阻害するものがいる。
 邪魔するものがいる。
 それが慎也だった。

 父がいなくなってから、私はそう思うようになっていった。
 空気のような存在の父だと思っていたが、違っていたのだ。
 父は私に想像以上に影響をあたえていたのだ。父は私の将来像であり、憧れだった。
 そう気付いたのは、父が過労死で死んでから半年ほど経った頃だった。
 いつものようにネットに繋ぎ、プログラムを組み上げるためのサイトを巡っていた。
 息抜きに掲示板を覗いたのは、そんなある日の晩のことだった。
 “交流の場”と名付けられたその掲示板は、自殺、死を連想させるキーワードで検索を行った数え切れないほどある掲示板のうちのひとつだった。なぜ、そんなキーワードで検索を行ったのかも、息抜きにそのようなことをしたのかも、現在では忘れてしまったが、私の指はそれを捜し求めていた。死、自殺。父が行った過労死。全ての理論の完結は死である。父がそう提示しているように無意識に悟ってしまったのかもしれない。
 私の指先はあきらかに私の意思ではない何者かによって動かされているかのようにそのサイトを引き当てたのだ。


 私はこの掲示板に釘付けになった。
 自己憐憫に満ち溢れ、自分自身がこの世界で最も不幸であると勘違いをした人間がいる。
 そしてその者たちが互い違いにお互いの悩みを書き込み、傷の舐め合いを交わす。
 正直いって、身震いがした。寒気がした。
 こうも素直に、舐め合いをできるのか、目の前にあるフォントの羅列が、なにかの冗談かと私は身震いしたのだ。
 私も壊れているが、この人たちも、壊れている。それが理論の完結だったのか。
 私は行着いた。私も壊れているが、あなたも壊れている。
 父も、私も、母も、慎也も。誰一人、壊れていない者などいないのだ。
 理論の欠落。元々、壊れている人間がいくら必死になったところで完璧な理論など創り上げる事など所詮は無理だったのだ。たとえ理論を確立しようとも、どこか他の分野で皺寄せがやってくる。父は行着いていた。自分がどれほどがんばろうと、努力を重ねようと、全ては無意味だったことを。父は気付いてしまったのだ。だからこそ、父は承知のうちで過労死という死に方を選んだ。燃え尽きた。きっと、父の本望であり、最期の足掻きとして、父は選んだのだ。


 社会には規律がある。
 それは、人間が、人間という存在が元々不完全な生き物だからだ。
 弱く、脆い。だから、規律という名の決め事で縛り上げる。
 最初から私は勘違いをしていた。人間は完璧だと思い込んでいた。
 違うのだ。完璧じゃない。だから、規律が存在する。
 逆説的に言えば、規律が存在するからこそ、人間は人間として現状を保っている。
 父は忘れていたのだその事に。私はそこで壁を睨みつけていた。
 なら、慎也はどうだろう。規律を守らない慎也という存在。
 壁を隔てたこの先にいる存在。
 それは果たして人間と呼べるのだろうか。




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