INITIALIZE ORIGINAL NOVEL


menuindexbacknext


夢見草


vol_4.1   日常



   ※


 どちらかというと幼い頃からだった。
 僕はなぜか自然に笑うことができなくなっていた。
 笑うこと、心から自然に笑うことをしてしまえば、その先にある不幸せなことが透けて見えるようで、だからこそ僕は心から笑うことを拒みつづけた。いや、笑えなかった。素直に笑ってしまえば、素直にその先の未来に傷つくからだ。
 とくにこれといって不安はなかった。でも、逆に不安がなかったことが不安だった。
 なぜこんなふうになってしまったのか。わからないうちになってしまっていた。

 心から笑わなければ、心から落胆することはない。
 心から信じなければ、心から裏切られることはない。
 不安はなかった。けれど確かに惰性と諦めとなによりも妥協は常に傍にあった。
 傷つくことから逃げ出したくて、傷つきたくないと思えば思うほど、傷ついて、
 あの頃の僕は本気にならなければいいと感じては、目を逸らし続けた。
 きっとそうすれば痛みを感じないはずだと、不安も妥協も諦めも消えてくれると信じていた。
 僕は、逃げつづけた。

「なあ、西崎」
 俺はニコンのカメラを構えてこちらを向く古橋を見据えた。
「俺だって、二十数年間無駄に生きてきた訳じゃない。自分に写真の腕がないことぐらい
十二分すぎるほど理解している。わかっているんだ」
 カメラを構えたまま、古橋は俺に言った。
「だけどな、西崎。なんで俺がカメラをかまえるか、ファインダーをのぞくか知ってるか?」
 俺は憂鬱な眼差しで古橋が構えるニコンのカメラをただ黙って見据えていた。
「その先に見えない、知らない何かが発見できるからだよ」
 そういって古橋はシャッターを切った。
「おまえの知らない世界がココに映ってる」


 すくなくとも、古橋は逃げてはいなかった。
 写真家としての才能が自分にはないと理解していたとしても、
 自分の将来が見えなくても、古橋は逃げてなどいなかった。
 それに比べ俺は。

「また、酔払ってるの?」
 美夏の声が聞こえた。遥か彼方から聞こえたようにも、耳元すぐ近くから聞こえたようにも感じる。俺は美夏の声が聞こえるほうに手を伸ばした。やがて指先はなにやら柔らかいものを捉えた。顔を上げる。瞼を持ち上げる。そうしてやっと美夏を見ることができた。
 俺の指先は美夏の手のなかにあった。夢の続きだと思った。美夏は俺に言った。
「ひどい顔してるね」
「・・・そうか? 寝起きだからな」
「あたしは寝起き以外の意味でいってるんだけどね」
「・・・どういう意味だよ」
 不貞腐れた表情をつくって俺はあえて訊いてみた。
 美夏は俺の表情を誤魔化すように突然、話を変えた。
「選考される場から、自分の居場所探しへ。選ばれるのではなく、選ぶ視点を持つ」
 美夏の突然の言葉は寝起きの俺を翻弄するかのように不思議と掴んでいた。わけもわからぬまま繰り返し言葉にしていた。そして繰り返した二日酔いの俺に美夏は溜息のような息を突いた。
「真由美さんが、言ってやれってさ」
「真由美さんが?」
「そう、真由美さんが」
 少しの間だった。俺と美夏は寝る姿勢と前で正座する姿勢で互いに視線がある一点で停止した。ほうけた顔のはずの俺の顔を美夏は正面からではなく、ななめよこからみているような、そんな視線で見合っていた。そのときの美夏の視線では感情が読み取れなかった。
「…それで?」
「それでって?」
「それで、なに?」
「…さあ?」
 逆に訊き返されてしまった。
「真由美さんに訊けば?」
 そんなことを言い返されてしまってはどうしようもない。
「そんなこと、いうなよ」
 俺が素直にそういうと、美夏はななめよこの視線から逸らしてしまった。
 やがて、美夏の手から俺の手へと硬いプラスチックのような質感が落ちた。
 一瞬の出来事だった。美夏はただ黙っていると思っていた。俺にそっと手渡したそいつを残して最後に笑顔でいるはずだったのに。俺は美夏になにもしてはやれないから。
「がんばってね」と言い残して去っていく美夏に俺はまた逃げてしまった。


 俺はまたしても逃げていた。
 現実から、そして自分自身から。
 後に残ったのは後悔だけで、それだけだった。
 美夏からもらった携帯もまったくといっていいほど反応はない。
 しあわせを呼びこむはずの黄色い携帯にしあわせは応答はない。
 こんなはずではなかった。気付けばそう思う日々が俺にとっての日常になっていた。




next page


menuindexbacknext
+ INITIALIZE -
Copyright warning All Rights Reserved.