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夢見草


vol_4.5   蜘蛛の糸



 過ぎ去ってしまった時間。決して戻ることのない時間というものは、多かれ少なかれ人を変えるにあたいする。人を変えるのは時間のなかの密度。経験、学ぶもの。与えられるもの、与えるもの。あたしが考えられる、人を変えることができる存在は、時代を越えて変わりはしない普遍的な存在だと現在でも考えが行き詰る。人は、人間は、間違いを犯し、後悔し、戻ることのない時間に苛まれる。例えば、それが全てを「無駄」だと言われる過ちだとしたら、どうだろう? 他人から見れば、「無駄」だと言われてしまう時間だとしたら、そして本人からしても、はたして費やした時間と同量の質があるのかと問われるだけのものだとしたら。


 人は、決して過ぎ去ってしまった時間を戻すことはできない。
 無駄な時間は、後悔という名の感情に変わり、見えない蜘蛛の糸になる。


 細く、永く、白く。
 人は、とくに、ある種の人間は、糸を吐きつづける蜘蛛の子を心のなかに飼っているといわれる。
 過去を喰い、「無駄」を喰い、そしてなにより、変わらないでいる現在を喰いつづける、赤い蜘蛛の子を。
 東京へと上京してきた頃の正登の表情といったら、それはなかった。
 まったくといって、この世の全てを悟ったかのような、あの小生意気な表情。
 顔に書いてあるとは、よくいったもので、まさかあたしは、その表情を現実に見るとは思ってもいなかったはずだ。心に赤い小さな蜘蛛の子を飼っている人間の、その顔をみて。なぜ、上京したての正登の表情を見て、小生意気だと感じたのか。なんで、こうも、心の中が顔に書いてあるのか、あたしはそんな表情を、都会に上京する田舎者の顔に幾度も遭遇する。希望に満ちた清々しい表情。夢のために邁進する純粋たる表情。それらは全て生きることがあきらかに本来の意味とはズレている人間だけの人間らしい表情である。生きること、全ては平等ではない。生きること、全ては不明瞭。生きること、全てはなくしたものを捜し求める行為。


「久しぶり、西崎正登。そして、慎也」
 隣にいる慎也の方が、いや、慎也だけが、ひとりだけ見えない、なにも表情に書かれていない顔でそこに立ちつくしていた。慎也だけが、やはり自覚していたようでもある。赤い蜘蛛の子を飼う人間。それは正登だけではない。東京という名の地方都市、大都会といわれる地方都市。夢を見る若者が、日々流動的に、そして入れ替わるかのように出入りするこの都市に、またひとり、・・・いや、ふたり、迷い込んできた。入口は、北千住。そして、ここが過去からの出発点。

「ようこそ、東京へ」
 人込みがごったがえす駅のホームで、あたしは確かにそういったはずだった。
 東京という名の迷路に迷い込むふたりの若者を見つめて。あたしはあらためて正登と慎也に願う。
 生きること、全ては平等ではない。
 生きること、全ては不明瞭。
 生きること、全てはなくしたものを捜し求める行為。
 生きること、だからこそ本当の意味で生きられる。
 ようこそ、そしてここが迷路の入口。


   ※


「高卒認定試験、受けるってさ」
 煙草の煙を事務所の窓から澄み切る青空へとのぼらせていたあたしに、となりにきた真由美さんはいった。
 空は青空。澄み切る青。その空へとあたしの吐息に混じる煙草の煙がその青へとのぼっていく。
 白い煙の帯は、やがてみえなくなり青に溶けていく。そして、視線を地上へとふと戻せば、行き交う人、人、人。
 人が住むのは地上だ。この混沌とした蟻の列だ。空との対比に、あたしはいつも思う。
 どれほど天高く、ビルを高くしようが、人は、所詮は地上でしか生きられない。


「すごいですね、真由美さん。あたしは絶対、断るんじゃないかって思ってました。真由美さんにまかせてよかった」
 あたしがいっているこの言葉が、あたしの本音なのだろうか。あたしは煙に混じり言葉を隠そうとしている。
 隠そうとしていること、どうしてそんなことをするのか自分でも意味がわからないのだ。
 理屈では表現できない、この気持ちはいったいなんなんだろう。
 煙を吐くこと以外、窓の外から人をながめる行為以外、高いところからでは地上の世界は滑稽に見えてしまう。
 全ては無意味、全ては、だからこそ誰もその無意味を止めることはできない。
 本人でさえも止めることはできないのだから。


「人はなんで、ひとつのところに留まっていられないんですかね、真由美さん」
 あたしは正登と慎也とはまったく関係のないことを訊いていた。
 いや、本当のことをいえば、そんなことさえも考えないで訊いていた。
 ただ、単に。街の歩道と交差点を渉る人並みを見ながらあたしは真由美さんだけに訊いていた。
「うーん、相変わらず唐突だね、美夏は」
「・・・すいません」
「別にあやまることじゃないけどね」
 しばらくののち、沈黙が漂った。真由美さんは椅子に座りあたしを見ている。
 あたしはなぜか、そのときになって上京したての正登と慎也の姿を思い出していた。
 田舎者まるだしの夢と希望とかいう喰えないものを胸に秘めた人間の表情。
 そのときになってはじめて、あたしは無意識のうちにふたりのことを見下げる景色に投影していたことへと至った。


「クサルからかな」
 真由美さんの言葉が回想していたあたしの目を覚ましてくれた。
「クサル?」
「そう、腐る。ひとつのところに留まってると腐る。人から聞いた話だけど、人って水みたいなものなんだって。ひとつのところに留まっていると水が腐るように、人も腐ってしまう。だから、人も、水も、ひとつの場所にはいてはいけない。ながれつづける水のように、ながれる水は腐らない。人もおんなじだって」




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