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夢見草


vol_5.0   遥か彼方



   15


 かじかんだ指先から、すべり落ちていった。
 金属音が一度だけ響いて、十円玉の銅の硬貨が転がり、自販機の底の暗がりに消える。
 ローカル線の旅路。乗り換えのため、下車した駅で、慎也はそんな俺を笑った。
「なんだよ、慎也。笑うなよ。・・・あぁ。取れそうで取れない」
 屈んで自販機の暗闇を覗き込む俺に慎也は苦笑いを漏らして俺を見ている。
 俺は、そんな慎也を背中越しに窺っている。

「西崎さん」
 自販機の底を手探る姿勢から、慎也を見上げた。
「僕の貸しますよ」
 たとえば、そんなことを言える慎也が、なんとなく大きくなったような気がする。
「貸すのかよ、・・・じゃぁ、借りといてやるよ」
 たとえば、そんなことを言える俺が、変わらないなと感じる。
 慎也から借りた十円玉を受け取り、自販機に入れる。先に入れといた百十円、俺のだ。
 気がつけば、自販機の缶コーヒーすら値上がりしていたんだな。昔は百十円で買えたというのに。


「なぁ、慎也。知ってるか? 昔は缶コーヒー、百二十円じゃなくてな、百十円だったんだ」
「知ってますよ、そんなこと」
 俺はなんとなく、苦笑。慎也もつられて苦笑した。
 もう、漏らすのが苦笑しかない。苦い笑い。
「自販機でさえ、変わってるのに、僕たちって変わらないですね」
 俺は、また自分の財布を漁る。確かに、百二十円。
 投入口に今度は落とさないように入れてから、同じ缶コーヒーを選ぶ。
「百二十円、貸しといてやるよ。差し引き、百十円」
 慎也に手に持って熱いそれを渡す。そして、慎也は変わらずの苦笑でそれを受け取る。
「西崎さんは、ホント、変わってないですね」
「・・・変わってないか? それはそれでさみしいな」
「変わらないことはいいことですよ。とくに、西崎さんは」
 そうやって笑う、慎也の表情に投影する姿は、最初に会った頃と少しだけ違って見えた。
 乗り換えの電車が来るまで、まだ多少時間がある。俺と慎也は自販機横のベンチに腰掛けた。
 電車が来るまで、俺は慎也に訊いておかなければいけないことがあった。


「なぁ、慎也。俺さぁ、まだおまえにちゃんと訊いてなかったことがあるんだけど」
「なんですか、西崎さん」
 ベンチから見上げる駅のホーム。上京するとき以来の景色だ。
「なんで、おまえは引きこもってたんだ?」
 元ひきこもりにそんなことを訊いて、意味などあるのだろうかと問われれば、意味などないだろう。
 だが、知って意味などいまさらないが、訊くことには意味がある。
「なぜ、・・・なんとなく、不安だったから、かな」
「不安だった。みんな、そういうよな、不安だって」
「西崎さん、僕の父がシステムエンジニアだったことは知ってますよね」
「知ってる。玲奈から聞いたことがある」
「きっと、父のようにはなりたくはなかったんです。仕事だけで、生きていきたくはなかった。でも、僕には父のようになるしかなかったんです。きっと、父のように仕事を中心にして、生きていくんだろうなって、同じ血がながれているから、とかじゃないですけど、見えてしまったんです。自分の適性っていうか、・・・進む道が」


 慎也がひきこもってしまった理由。
 それが言えただけでも、少しはいままでの時間の意味はある。
 変えることはできない、過ぎ去ってしまった現実。後悔だけが残ってしまっても、
 いつの日か、気付いてほしい。後悔とは、同時に自分を変えることのできる、ただひとつの経験済みの希望だということを。
 乾燥する肌寒い風を汽笛が裂いた。電車が見えた。線路の先、遥か彼方に。


   ※


 なぁ、慎也。俺はときどきつらくなる。
 東京へと上京したことで、なにが変わったのかと訊かれたら、まだなにも変えてはいないからだ。
 俺と慎也が上京することになって、愁が昔住んでいたという葵藍荘のことを聞いたときでさえも、おまえはなにくわぬ笑顔でいたよな。
「古橋って奴がまだいるはずだから、そいつに困ったことがあったら頼め」

 愁の声に、俺は無表情だったのに、
 慎也、おまえは苦笑していたよな。おまえが笑顔を絶やさないのは、俺は知っている。
 おまえが笑顔でいるのは、全てを妥協でゆるしているからだ。
 おまえが笑顔でいるのは、相手に警戒をもたれないと知っているからだ。
 おまえが笑顔でいるのは、現実から逃げているからだ。
 おまえが笑顔でいるのは、自分自身に嘘をついているからだ。
 慎也、俺はおまえの笑顔を、本当の笑顔に変えてみせるよ。
 いつの日か、絶対。だから、慎也。俺は、それまでなにも変わるはずがないだろう。
 変われないだろう。だから、俺はそれまでに、なんとか自分をこの場所で見つけたい。
 この場所で、俺は、俺自身を変えていきたい。


「すいません、ちょっと、道を教えてください」
 駅を下り、葵藍荘へと向かう道をそうそうに迷った俺は、コインランドリーでチキンラーメンを啜る奴に声をかけた。
 無愛想な表情。シラケタ目付き。愁とはどこか似ても似くさぬ脱力感を感じる奴、それが古橋だった。
 俺だってなにも、こんな奴に声をかけたくはなかったが、いたしかたがなかった。交番は見つからず、平日の昼間だというのに国立には酔っ払いの群れしかいない。かといって駅に戻るのも気が引ける。別に、俺だって、こんな奴を選んで訊いた訳ではない。しかたがなかったのだ。・・・なのに、こいつときたら。

 第一声が「・・・っは?」である。
「いや、だから、道を、・・・道を教えてもらえますか?」
 インスタントなのだろう。小型の鍋に入ったチキンラーメンの汁を直で啜りながら、無愛想はこう言った。
「おまえの知りたい道など、俺は知らん。自分の道ぐらい、自分で探せ」
 人が下手に出ていれば、
「道を知らないんですか?」
 声は、後方から聞こえた。
「あなたも、道を探しているんでしょう?」
 誰一人、気付くはずがないと言えば嘘になる。
 慎也は古橋が夢追い人だと一見して知ってしまったのだ。
 チキンラーメンの鶏がらスープを飲み干した古橋は、それから慎也をベンチから見上げた。
 ごうごうと響くのは乾燥機が回転する音で、ただ、それだけだった。
「もうすぐさ、乾燥終わるから買ってきてくれない? 案内料の代わりにビール。・・・カネないなら、発泡酒でいいから」
 古橋と最初に出合った日。それは春先のあたたかい陽射しのなかにある国立のコインランドリーだった。




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