鈴木賢二は1964年、東京・雑司ヶ谷のアトリエで脳梗塞を患った。その年東京での制作活動を断念し、家族の住む栃木県栃木市に帰住。言語障害は甚だしく、右手の自由を失ったが、リハビリに専念しながら左手での文字練習、スケッチ、やがて左手に彫刻刀を持ち、再び版木に向かうようになった。
賢二は、かつての街の人々の風俗を、懐かしみをこめながら版木に彫りこんでいった。街の角々で見かけた商人、職人、芸人を数多く作品にした。その数は200点に余る。
あまさけ
あさがお市
いもぐし
かきごーり
かくべいじし
カルメやき
もっこかつぎ
たらいあめうり
しゃぼんだま
根っからの生活派といっていい。
しかもその背後には常に社会批判の鋭いまなざしと刃がある。
鈴木賢二先生のこと
滝平二郎 きり絵作家
鈴木賢二先生は、わたしにとって唯一人の師匠である。17歳の夏休みにわたしは「これからお邪魔します」とハガキを一枚出しておいて、返事も待たずに先生のアトリエを訪問したのであった。押しかけ入門である。さぞ御迷惑なことであったろう。しかし先生は、この不躾な田舎少年を遠来の友人のように迎えてくれたのが無性にうれしかった。
なにしろ半世紀以上も前のことだから、こまかいことまではつぶさに覚えていないが、たった一つだけ今でも脳裏にこびりついていることがある。
「絵をやるならまずデッサンだ。一にもデッサン、二にもデッサン、三にもデッサン!」と厳しい口調でいわれたことだ。版画をやるように奨められたのもこの時である。
もともと彫刻家として活躍されていたはずなのに、私が戦争から帰ってみると、どういうわけか先生は本業の彫刻はそっちのけで、せっせと版画を彫っておられたではないか。
戦後は一貫して版画一本槍で、数々のグループ展や、日本アンデパンダン展、平和美術展等に出品を続けられたが、美術ジャーナリズムなどには無関心で、じつにサバサバしたものだった。
先生の版画は根っからの生活派といっていい。しかもその背景には常に社会批判の鋭いまなざしと刃がある。生活派がともすると陥りがちな通俗への警戒と反発が、強い造型思考を呼び起こし掻き立てて、物語の表情を画面として深く引きしめている。
わたしはしばしば、鈴木賢二木版画集(1977年・未来社刊)を引っぱり出して、その一枚一枚を懐かしみながら凝視している。
1992年 鈴木賢二遺作展 パンフレットより
『物売りの声がきこえる 記憶の風景』
創風社刊
鈴木解子・文 鈴木賢二研究会・編 1800円(税別)
中国の農村部で発展したという雑芸≠フ芸人を目指す、子供達の修行・表情ををとらえたテレビのドキュメンタリー番組を見た。6歳から12歳くらいまでの子どもたちが「有名になって、家族を楽させたい」と語っていた。目に涙をにじませながら「練習すればきっとうまくなる」と言い、歯をくいしばる。こんな言葉は、少し前までは身辺でよく聞いたものだったと気づかされた。幼い頃からの環境が、柔軟さ、身軽さ、バランス感覚と、心を鍛えぬいていった。“空にさえずる鳥の声・・・”物悲しく懐かしいメロディーが口を突いて出た。
駄菓子屋のおばあさんは手ぬぐいをのっけた氷を、大きなかんなをひっくり返した刃の上で力いっぱいかいていく。そのうち別の店にかき氷の機械が入ったと聞けば、そっちの店に行ってみる。水色ボデーの手回し機械は、ギーギー音を立てながらみるみるうちに氷をかいた。イチゴ味の赤い汁、青色メロン、黄色のレモン、汁が透明の広口壜に入っていた。それを小さなひしゃくで、かいたばかりの氷の上にささっとかけるとすっと山にくぼみができる。くぼみが小さくならないようにと、私の目はおばさんの掌にのったガラスの器をじっと見つめていた。
たらいを頭に載せたかき氷屋のおじさんは、路地を、次の路地を走りながら「こーりー、こーりー」と叫びながら商売をしていたんだな。