岡田家由緒
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岡田家の歴史
 当岡田家は遠くは京都三条の出と言われています。後醍醐天皇が滋賀に行幸なされお病気になられた際、オオバコを煎じて献上したところ、たちどころに病がお治りになった功績から、天皇から家紋を賜わりました。下の写真がその家紋でオオバコを意匠としたものです。

            


 武士として後醍醐天皇に仕えていましたが、天皇が隠岐の島に流された後、足利幕府に仕えました。江戸時代慶長の頃帰農し、士豪として栃木に移住しました。栃木の荒地を開墾し、徳川家から「嘉右衛門新田村」という名称を賜り、以後代々の当主は嘉右衛門を襲名し、当代で26代となります。当地の嘉右衛門という地名の由来となっております。
 日光例幣使街道の開設に伴って名主役を、また畠山氏の知行となると屋敷内に13ケ村の陣屋が設けられ代官職を代行するなど、地域発展のために寄与しました。
 一方歴代当主は芸術面にも関心が深く、巴波川の舟運や街道の往還を通して、文人、墨客が訪れていました。明治時代には画家富岡鉄斎との特別な親交があったのは特筆すべきことです。蔵には、この鉄斎作で栃木県文化財の韓信堪忍図をはじめ、文人の松根東洋城、陶芸家の板谷波山、竹芸家の飯塚琅斉等の作品が展示してあります。
         
 
 また、宝暦10年から146年分の日記も保存されています。この、岡田家の古文書から、幕末に江戸城大奥に「美恵」「るい」という二人の娘が行儀見習いに上がったことが記されていました。大奥には幕臣の子女が奉公に上がることがほとんどだったのですが、地方の豪農商の娘が礼儀作法や高い教養を身に着けるために江戸城に奉公することは稀ながらあったそうです。ちょうど「篤姫」の時代でした。
 岡田家の中興と言われる22代の当主は雅趣に富み、隠居後70歳で別荘建築を発起しました。銘木を吟味し、練達の工匠が技を競い合って作り上げた別荘が翁島です。大正建築を代表する建物で国の登録文化財に指定されています。
 この岡田記念館は25代当主が、邸内を広く一般に開放し、岡田家所蔵の品々を展示することにより栃木市の観光に寄与しようと昭和53年6月に開館しました。現在まで多数の観光客が訪れました。、また近年はテレビ、映画のロケ地としても利用され、西田敏行さん、宮沢りえさん、黒木瞳さん、本木雅弘さんなど、数多くの芸能人の方が撮影にいらっしゃっています。