巴波川反乱
平成27年の「関東・東北豪雨」では私どもも少なからず被害を蒙りました。栃木市内の被害の主たる原因は巴波川の氾濫にあります。巴波川は思川小倉堰の分水を始端として水田からの排水および原野の湧水等を併せて南流し、途中旧栃木市街地を貫流した後、永野川を併せて藤岡町で渡良瀬川に合流する流路延長約20q、流域面積約217.6q2 、一級支川9河川をもつ一級河川です。歴史的には本川は江戸と栃木を結ぶ舟運のルートとして栃木の街と共に生きてきた川であり、今にいたるまでこの街になじんだ巴波川の流れは栃木の人々の安らぎの場となっております。このような川ですが時として、洪水という牙をむきます。昭和以降で最も大きな被害は昭和22年のカスリーン台風によるものです。栃木観測所で総雨量242.2oの降雨が発生し、浸水家屋3800戸、死者4名という大被害をもたらしています。これに匹敵する被害が今回生じました。
今回の水害では栃木の駅舎も水につかってしまい、駅前にある郵便局も1週間ほど休業状態でした。当クリニックと空地をはさんで隣に立っているホルスターマンションも1階部分が水につかりエレベータが使用できなくなりました。当クリニックは幸運なことに被害を免れました。しかし、私が住んでいる嘉右衛門町にある岡田記念館はいろいろと被害を蒙りました(写真1、2)。先に述べたように栃木の街並みを育んだ巴波川の舟運は、元和3年(西暦1617年)徳川家康の霊柩を日光に移した際に御用の荷物を栃木川岸で陸揚げしてからといわれています。当岡田家でも武士の時代が終わりを告げた後、廻船問屋を始めました。鉄道開通によって不要になった約2100坪に及ぶ自家の荷揚げ場があった場所に、私より4代前の岡田家中興の祖とされている22代嘉右衛門が別荘を建てました。別荘の立っている場所は南面に巴波川が流れており、北側にある今は細い流れになってしまった川にはさまれて島状になっており、隠居した当主が住んだため翁島とよばれています。島の中央には以前は巴波川より水を引き入れた巨大な池を造り、掘った土で築山をつくりました。それらをめでる場所に現在は有形登録文化財になっている建物(翁館)が建っています。私は毎朝の散歩の際に別荘に立ち寄り、池に掛けた橋の上で手を叩いて錦鯉たちを集めてエサを与えていました。今回の洪水で巴波川と別荘の池がつながってしまいました。そのため50匹以上いた錦鯉の4分の3は巴波川に逃げ出してしまいました。水が引いてから池に行くと、手を叩くとすぐに集まってきたかわいがっていた鯉たちは見当たらず、あまり見たことのない魚たちか残っていました。そして残った鯉たちも一匹また一匹と死んでいき、今や一匹の黒い鯉と雑魚のみが生き残っている有様です。いかに氾濫した水が汚染されているかを思い知らされました。翁館自体はこのような巴波川の氾濫を見越していたのか、まったく無事でした。しかし、翁館のそばに母が作った茶室は床上まで水が押し寄せ畳をすべて新調することになりました。
愚痴にはなりますが、岡田記念館内には修復すべき建物、品物などが数多くあり、私の給料をつぎ込んでせっせと修繕しています。今回の災害において最大の被害は、当家では主に2番目の価値があるお宝を陳列していた2号館と呼んでいる蔵が雨漏りをしてしまい、そのなかの展示物のすべてが水を浴びてしまったことです(写真3)。水に濡れてくっついてしまい、めくることができなくなった古文書3冊をまずは急いで修復してもらいました。修復は紙間についた卵から孵った多量のヒルがついていて難渋したとのことです。費用は43万円かかりました(写真4)。今回の被害をすべて修復するのにはいったいいくらかかるのでしょうか?末恐ろしい感がします。

写真1 岡田家見世蔵の看板の色の変わり目まで水が押し寄せました。

写真2 見世蔵の内部で畳あげをしています。

写真3 濡れた品物が運びだされた2号館の内部。

写真4 修復が終わった三冊の古文書。
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