会長からのメッセージ

MESSAGE FROM THE CHAIRMAN

オリエンタル技術開発株式会社 取締役会長 安田 稔

人生とは自分自身何に向いているか自分でもわからない。自分が何に向いているかより、今、自分と向き合っている仕事を精一杯精魂傾ければ、その仕事の面白さが分かってくる。しかし、自分が最適な仕事を探しつづけ、最後の最後まで分からずに、一生涯を終わる人が大半であると思う。今自分と向き合っている仕事が天職と思い、ただひたすら打ち込めば、おのずと道が開けると確信しているのです。

世の成功者は長い間、自分の仕事に打ち込んでいる内に、何かをつかみ、小さなものが積もり積もって、だんだん大きくなり、大をなすものと思うのである。私はどんな人にも成功する素質を持っているものと思います。成功できない人とそうでない人の差は仕事の好き嫌いより、打ち込む心が脆弱であるからです。この世に生まれたからには精一杯努力して、夢を持って生きることが大切なような気がします。

この世で精一杯生きてみることが成功者になれると信じています。夢を見つつ、自分の能力を使い切って生きることも人生であり、無為に過ごして生きるのも自分の人生であります。この世に生を受けたならば、自分の能力を使って、自分の絵を立派に描いて、悔いのない一生を送り、その絵こそ自分の歴史であります。素晴らしいこの世に描いて生きることを願っております。

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子氏が曰く、「置かれた場所で咲きなさい」と提言していますが、置かれた場所こそが今の最高の居場所であり、その場所こそが自分を作り、自分の生涯の作品として、大輪の花を咲かせたいものです。そこの場所を良くするも、悪くするのも、あなた自身によるものであります。親から与えられた生命を精一杯生きて、自分が満足できる絵にしたいものです。

仕事に於いても、資格を取得するのも、一途に邁進する普段の努力が実を結びます。毎日の小さな差が大きな差を生むのが、人生そのものです。それこそが「継続は力なり」と言われる所以です。

プロフィール

  • 1942年栃木県粟野市に生まれる。
  • 1967年立命館大学理工学部土木工学科卒業後、栃木県上級職公務員試験に合格し、栃木県庁入庁。
  • 1974年栃木県庁を退庁後、ヤスダ建設コンサルタンツ(株)設立。
  • 1991年統一地方選挙にて、県議会議員となる。8月、法人税法違反事件で逮捕される。12月、栃木県議会議員を辞任。
  • 1992年ヤスダ建設コンサルタンツ(株)をオリエンタル技術開発(株)に商号変更し、取締役会長に就任。 現在に至る。

著書のご紹介

INTRODUCTION OF THE BOOK

甦る夢(上下巻)

甦る夢(上下巻)

高度成長期を背景に政治家への夢に向かって生きた男の
「転落と再生」を描いたドラマ

「政治とは、政を治めると言って、生活に欠かすことのできないものなんだぞ」
――村会議員選挙に出馬し落選した体験をもつ父から、政治の話をしょっちゅう聞かされながら育った稔。彼の心中には、いつしか政治家への夢が芽生えていた──
エネルギッシュな高度成長期を背景に、初心を忘れることなく、父親の果たせなかった夢に向かってがむしゃらに生きていく男の人生を描いた小説。

  • 書籍名:甦る夢(上下巻)
  • 著 者:安田稔
  • 出版社:文芸社
  • 発売日:2004/08

小山評定

小山評定

栃木県民でさえ知らない人が多い
歴史の大きな転換点「小山評定」の再発見を願って記された一冊

豊臣秀吉の死後、天下を狙った徳川家康はいろいろな手を使い、豊臣秀吉の5奉行であった石田三成に反感を持たせるように仕向けて、ある時は秀吉の遺言を一つずつ反故にしていった。
家康は、豊臣家の遺産を豊臣の恩顧の大名に分け与えて家康に懇意を持たせ、シンパを作り上げていった。家康は伏見城で政務を執ることになっていたが、秀吉の死後、大阪城に乗り込み、豊臣恩顧の大名と徳川家との婚姻を結んでいった。
その反面、豊臣政権の恩顧の大名は北政所(寧々)にずいぶん世話になったことを家康は知っていた。また、秀吉の死後、北政所と淀殿との確執が巨大な大阪城の内部で渦巻いて、もう後戻りが出来なくなっていることも知っていた。北政所のところにしげしげと足を運んで、彼女の心をつかみ、「自分は幼君秀頼君が成人するまでの間、豊臣政権を支えるだけで、何の望みも存念もない」と言って憚らなかった。自分が天下を狙っていることをおくびにも出さず、秀頼君の御為であることを強調し、北政所を信用させたのである。そのことが、家康が「狸爺」と言われる所以である。
石田三成にとっては、家康の行動があまり目に余る物があり、黙っていられなくなり、家康の行状を糾弾していった。秀吉の奉行として君臨している時、「上様の言葉」であるとして各大名を統制していた三成は、持ち前の横柄さで、豊臣恩顧の大名(先輩大名にさえも)に知識をひけらかし、命令的で、各大名と反目するようになった。
家康は、豊臣恩顧の大名が三成を忌み嫌っていることを利用し、反目させることで自分の夢がかなうので、三成を生かすことにより、一歩一歩夢に近づいていくことにほくそ笑んでいた。特に福島正則や加藤清正は、朝鮮出兵中に三成が些細なことを「上様」である秀吉に言いつけたという出来事もあり、三成に反感を持つようになったのである。
家康は着実に、家臣の本多正信や嫡男・正純に言い含め、黒田長政に豊臣恩顧の大名を懐柔させ、徳川家康に味方するように働きかけていった。
そんな中、家康が「上杉景勝が謀反を起こして、自国内の要塞化をしている」と言い掛かりを付け、上杉討伐のため会津に向かい、栃木県小山市に家康が滞陣している時、大坂で三成が挙兵したことを知った。現在の小山市で軍議を開き、豊臣恩顧の大名に、石田三成の西軍に味方するか、徳川家康の東軍に味方するか、豊臣恩顧の大名の帰趨を謀ったのであった。その会議が「小山評定」である。(ちなみに世に有名な「小田原評定」とは、小田原城で行われた戦国大名の後北条氏における重臣会議のことで、「中々結論が決まらない会議」という意味での比喩表現として使われている。)
東京が日本の首都として発展し、政治経済の中心地として栄えているのは、徳川家康が「関ヶ原の戦い」で勝ったからであり、それゆえに、江戸・東京が今日の隆盛を極めたのである。「小山市は開運の街」として、さらに発展することを願うものである。

  • 書籍名:小山評定
  • 著 者:安田稔
  • 出版社:文芸社
  • 発売日:2015/011/1

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