DREAM   Princess mermaid   



   どこかで見たことがある・・・。
 目を開けてまず視界で捕らえた天井を、ニコルはぼんやりと眺めながら、自身を包む柔らかなその感触に、ベットに寝かされているのだという現状を理解する。
 いつの間に僕はベットに入ったのでしょうか?記憶には無いのですが。
 確か僕は荷物の整理をしていて、窓を開けたら猫の声がして・・・あ!猫!!
 勢い良くベットから起き上がろうとしたニコルは、
「・・・つっ!」
 体を襲う鈍痛に小さく呻き声をあげると、再び体を折り曲げて丸くなる。
 節々が軋むような悲鳴を上げていた。
「ど・・・して?」
 両手で己の体を抱きしめ浅い息を吐きながら、痛みをやり過ごしている間に、少しずつ記憶がはっきりしてくる。

 猫の声に導かれるように部屋を出たニコルは、アパートの裏で捨てられている子猫を見つけた。連れて帰ろうかどうか悩んでいたとき、突然の閃光に包まれたのを最後に、意識が途切れている。
 この痛みは倒れたときに体を打ちつけた衝撃によるもので、おそらく、あの時何かがあって、ここに運ばれたのだろう。

 痛みが引くのを待ってから顔を上げたニコルは、改めて部屋の中を見渡してみた。
 部屋に置かれた調度品の数々は、シンプルな造りものばかりであったけれど、自分が寝かされている、驚くほどスプリングの効いたベットなどからもわかるように、どれもが一目で上等のものだと分かった。
 ニコル達が月から持ってきたものなど、何一つ存在しない。それは、ここが他人の家であることを明白に物語っている。
「僕はどのくらい眠っていたのでしょうか?」
 人気の無い部屋で応えてくれる者などいないのは分かっていても、思わず小さく呟いたニコルは、ベットからおずおずと降り立つ。
 とキラに、何も言わずに出てきてしまった。
 あまり遅くなると2人が心配するかもしれない。
 そしてふと感じる違和感。

 ・・・景色が、違う?

 見たことも無い部屋のことではなく、感じたそれが何であるか、ニコルはすぐに気付いた。
 視線の高さだ。
 今までより明らかに視線の位置が高かった。
 ちょうど近くに置かれていた姿見を視界に納めたニコルは、そこに映る己の姿に激しく驚愕する。
「なに・・?」
 短かったはずの髪は腰の辺りまで達し、すらりと伸びた手足、丸みを帯びた体。そして、胸には本来あるはずのない丸い二つの膨らみ。
「あ・・・」
 僕、は・・僕は・・・・。

 この体は、僕の?
 かキラだとばかり思っていたのに。
 信じられなかった。
 だが、どんなに否定してみても、現実は否応無くその事実をニコルへと突きつける。
 鏡に映るその姿は、まぎれもなく女性のものであったからだ。
 僕が『彼』に選ばれた人魚・・・。
 僕が『彼』の子供を産む?

 ガチャ。

 少し離れた場所で扉が開かれたような音がしたことで、ニコルは急激に意識を現実へと引き戻された。
 『彼』が来る!
 そう感じた。
 知っていたわけではないが、ニコルの本能が、そう告げていた。
 それと同時に、自分が裸であることに気付き、慌ててベットからシーツを掴んで包まった。
 出来ることなら、このまま逃げ出してしまいたい。
 けれど出口は、そこにある扉一つで。
 『彼』はその扉に向かって来ている。
 己の置かれた状況に困惑を抱えたままニコルは扉を凝視し、宣告を待つ死刑囚のような気持ちで、その瞬間が来るのを息を潜めて待っていた。
 

 
 *  *  *



「気分はどうだ?」
「・・・」
 問いかけながら紅茶を差し出したイザークに対する、彼女からの返事はない。
 向かい合う形で反対側のソファーに座り俯いている彼女は、膝の上で組んだ両手を握り締めながら、ずっと黙り込んでいる。
 無理も無いか。
 おそらくあの状況から考えれば、アパートの裏手で襲われそうになったところにイザークが現れ、焦った暴漢がちょうど逃げて行ったところだったのだろうと想像がつくし、そう思えば、彼女のこの態度にも納得がいく。
 不貞な輩に襲われた後、見ず知らずの男の部屋にいて、更に裸でベットに寝かされて居れば、誰でも警戒するものだ。
 だからイザークは、特に気にしたそぶりも見せずに言葉を紡いだ。
「まず、誤解されたままなのは不本意だ。説明させて欲しいが、いいか?」
 相変わらず何の返答も得られなかったが、それでもイザークは、倒れていた彼女をこの部屋に運び、ベットに寝せたこと。着ていた服は破けていたので処分したことなど、事の経緯を掻い摘んで話して聞かせた。
 先程から一言も言葉を発しない彼女は、もしかしたら言葉が話せないか、もしくは耳が聞こえないのかという一抹の不安がチラリと頭を掠めたのだが、俯いた少女の手がイザークの言葉にピクリと反応したことから、聞こえてはいるようだと安堵する。

 それにしても美しい少女だと、改めてイザークは思った。
 ジュール家から取り寄せた女性用の服(イザークの母、エザリアの昔の服)に身を包んだ彼女は、明るい新緑色の髪が綿菓子のようにふわふわと揺れ、瞳には優しい光を宿している。鋭利な刃物のような美貌と称される自分とは対照的な柔和な雰囲気を持つ彼女に惹かれている己の心を、イザークは自覚しないわけにはいかなかった。

「俺の名は、イザーク・ジュールと言う。貴方の名前は?」
「・・・」
 黙ったままの彼女に対し、イザークは浅く溜息をついてみせる。
「一応、俺は貴方を助けたことになると思うのだが、その相手に、貴方は名前すら名乗れないと仰るのだろうか?」
 何かの見返りを求めて助けたわけではないが、このままさよならをしたくないと感じたイザークは、意識的に少し意地悪な言い方をしてみせた。
「・・・すみません。あの、僕・・・ニコルです。ニコル・アマルフィと言います」
 やっと聞き出せた名前をイザークは心の中で反復してみて、彼女らしい優しい響きの良い名だと納得した。
 しかし・・・。
「女性で『僕』という一人称は珍しいな」
「あ・・・変でしょうか?」
「変というより、女性なら普通は『私』だろう?」
「そうですね・・・」
 ニコルはいままでずっと一人称が『僕』だった。女性でも『僕』という一人称を使う人はいるだろうが、イザークには気になるらしい。
 彼が気にするのなら、直したほうがいいのだろう。
「『私』にします」
 その返答に満足したのか、それまで硬質だったイザークの表情が少し緩んだことに、ニコルはドキリとした。
 ニコルがずっと黙ったままだったのは、暴漢に襲われたという事実などでは無論無く、初めて会う『彼』を前に極度の緊張状態にあったためだ。
 加えてどうやら本人は無意識らしいが、感情の読み取れない無表情で高圧的な雰囲気を纏っているイザークに対し、怖そうな人だと萎縮していた。
 でもチラリと覗かせた彼のその表情に、案外優しい人なのかもしれないと少しだけニコルは安堵する。
「ディセンベル市は比較的治安の良いところだが、不貞な輩が全く居ないわけではない。やはり女性の1人歩きには注意が必要だな」
 そう思えば、厳しい口調で嗜めるイザークの言葉も、ニコルを労わる優しさから来るものであるのだろうと思えた。
「はい。今後は気をつけます」
 多少の勘違いがあるようだが、否定したところで真実を説明するのもややこしいのでニコルは素直に返事をしておくことにした。

「ところで、何故あそこに居た?家はこの近くなのか?」
「え・・・あっ!!」
 従順なその様子に気分良く言葉を続けるイザークに対し、突然ニコルが大きな声をあげて立ち上がる。
「どうした?」
「あ、あのっ、猫!猫はいませんでしたか?」
 ニコルはアパートの裏へ猫を探しに行ったことを思い出した。
 あそこに居た子猫はどうしたのだろう?
「ちょっ・・・まて!」
 気が付いてしまうと、居ても立っても居られなくて、ニコルはイザークの制止の声も聞かずに立ち上がると、外へ出で階段を駆け下り、アパートの裏へと走った。
 しかし、すでにそこには何も居なかった。
 追いかけてきたイザークに猫の所在を再び問いかけると、イザークはバツが悪そうに横を向いてしまう。
 ニコルの世話を一通り終えてから、猫のところへ戻った時には、ダンボールごと無くなってしまっていたのだ。悲しそうに目を伏せるニコルの様子を視界に納め、もっと早く猫を迎えに行くべきだったとイザークは激しく後悔した。
 とぼとぼとアパートの前へと歩きながら、ぽつりとニコルが呟く。
「でも、良かったのかもしれません・・・」
「?」
「動物は飼えませんから」
 アパートはペットを飼うことが禁止されているのだ。
 しかし、それを知っていても尚、ニコルは子猫を部屋へ連れて帰ろうと思っていた。
 勿論キラやには反対されるだろうけれど、説得するつもりだった。
 子猫の毛並みはフワフワの濃紺で、綺麗な翡翠を持っていたから。
 大好きなと同じ色彩を持った子猫。
 一目で放って置けなくなってしまったから。
 優しい人に、拾われていれば良いのだけれど・・・。
「動物が飼えないアパート・・・まさか」
 その一言が気になってイザークは問いかける。
「はい。僕・・いえ、私はこのアパートの203号室に今日越してきたんです」
 同じアパートの住人だったということに、イザークは驚愕していたが、ニコルの方は目が覚めてしばらくしてから気付いていた。注意深く見渡してみれば、自分達の部屋と間取りが酷似していたからだ。
「ニコルもディセンベルカレッジの生徒か?」
「カレッジ?・・・いいえ、違います。今まで月で生活していて、プラントには今日着いたばかりなんです」
 このアパートにはイザークのようなカレッジの学生が多い。だからニコルもそうなのかと思ったのだが、よく考えてみれば、これだけの美少女だし、記憶力の良いイザークが見かけていたのなら、忘れるはずはなかった。
「ほぅ?1人で来たのか?」
「いえ、2人の姉妹と一緒です」
「そうか。差しさわりが無ければお聞きしたいのだが、プラントにはどんな用事で?」
「それは・・・」

 貴方に会うために。

 ・・・でもそれを口に出すのは躊躇われた。
 嘘では無いが、初対面の見ず知らずの人間に、いきなりそんなことを言われても信じられるわけがないし、胡散臭すぎるだろう。
 どうしよう。
 何かを考え込むように黙り込むニコルを決して急かそうとはせずに、黙って見つめていたイザークは、ふいに視線を感じて顔を上げる。

 するとニコルの向こう側で此方を見ている二つの双眸と目が合った。
 こちらを見ていたのは、イザークやニコルと同年代の2人の少年で、1人は短い鳶色の髪に綺麗な菫色の眸が印象的な少年。そしてもう1人は、宵闇色の髪に宝石のような翡翠の眸を持っていた。
 そして、その2人の容姿は、ニコルに負けないくらいの壮絶な美しさを持っていて、思わず目を奪われてしまったイザークは、彼等からしばらく視線を逸らすことが出来なかった。
 

 
 *  *  *



 思い当たる場所を散々あちこちを探し回ってもニコルを見つけることが出来なかったキラとは、疲れ果て棒のように重たい足を引き摺りながらアパートへと戻ってきた。
 そして2階へと昇る階段の手前で、見つめ合う美しい1組の男女の姿を視界に納めたかと思うと、それぞれがその場で固まってしまう。

 腰のあたりまで伸びたふわふわの新緑色の髪と、面影が色濃く残る優しい顔立ちの女性は、一目でニコルだと分かった。
 そして何より2人の目を惹きつけたのは、一緒に居る男性だ。
 見事な銀色の髪に、透き通ったアイスブルーの眸。寸分の歪みすら感じられない美しい容姿は、凛とした、どことなく高貴な雰囲気をも漂わせていた。
 そして間違いなくそれが『彼』なのだと、キラとは直感する。

 しばらく様子を覗っていると、まず『彼』がこちらに気付いて視線を向けてきた。
 特に言葉を発するでもなく、黙って此方を見ている彼に、キラも、そしてもまるで言葉を忘れてしまったかのように黙り込む。
 時間にしてみれば、実際はほんの数秒程度の事だったのかもしれない。
 しかし、かなりの間そうしていたかのような息苦しさからやっと2人が開放されるのは、こちらに気付いたニコルが発した声のおかげだった。
!キラも・・」
 ニコルは2人に驚愕の表情を向ける。
 そこに居たのは、ニコルが見慣れた2人ではなく、成長した少年達が立っていたからだ。

 ニコルは、何と声を掛けて良いか分からなかった。
 選ばれたのが自分だったことを、素直に喜んでいいのかすら分からない。
 けれどそれを嘆いたとしても、事実は変わらない。
 だからそれ以上の言葉を続けることが出来ずに、俯いてしまう。 
 も同様に、掛ける言葉が見つからず、黙ってニコルと『彼』を見つめていた。

 しかし、キラだけは違っていた。
!行こう」
「え?・・・キラ?!」
 左手に持っていた紙袋をクシャッときつく握り締めたキラは、空いている右手で強引にの腕を掴むと、突然のその行動に戸惑いを隠せないの腕を、ぐいぐいと強い力で引きながらニコルの横を通りすぎる瞬間、キッと彼女を睨みつけた。
「もう帰って来なくていいから」
「あ・・・」
「キラ!!」
 容赦の無い一言に、ニコルは青ざめて立ち竦み、は非難の声を上げる。
 しかしキラは立ち止まる気配も見せず、ましてやの腕を放すこともしないで、その細い肢体からは想像出来ないほどの強引さでを引き摺りながら階段を昇りきると、部屋の中に押し込んでしまう。
 ガチャリ。と鍵を閉め、チェーンをおろすキラに、は慌てて声をかけた。
「どうしてあんなこと・・・どうかしてるぞ?キラ」
「なんで?」
 スタスタと奥の部屋に向かうキラの当然とでも言いたそうな冷たい口ぶりに、は狼狽しながらも弱弱しく反論する。
「何故って・・・」
「ニコルは『彼』と出会ったんだよ?なら『彼』と行くべきでしょ。僕達がそれを見守るのは義務だけど、干渉する必要はない。最初からその予定だったじゃない」
 机の上に、月から持ってきたPCを設置し始めながら、淡々と綴るキラの後姿を眺めながら、は小さく溜息をついた。
「確かにキラの言う通りだが、理屈はそうでも感情はそうはいかないだろう?」
 幼い頃から共に過ごしてきた姉妹と別れ、いきなり今日出会ったばかりの人間と暮らせと言われて、はいそうですか。と直ぐに納得出来るかと聞かれたなら、は迷わずNOと答えるだろう。
 例えそれが決められた運命であったとしても、襲い来る不安は並大抵のものではない。
 ニコルの性格を思えば、少しずつ『彼』との距離を縮めることから始めるのが一番良い選択肢のような気がする。
 いくら日頃ニコルとあまり気が合わなくても、幼い頃から共に育っているキラが、それを分からないわけは無いのだ。
「ニコルは不安がってる」
 だから、迎えにいこう?
 諭すに、キラは依然として振り向こうともせず作業を続けていた。
「僕は行かない」
「・・・キラ」
頑として態度を変えないキラを見つめるの眸が悲しく陰ったことに、背を向けているキラは気付かなかった。
「迎えに行ってくるよ」
 振り向かない背中に向かって、諦めたように呟き踵を返したに、キラは鋭い声を投げつける。
は悔しくないの!?」
「・・・」
 は足を止めたが、何も答えない。

 キラは悔しくてならない。
 1人で心細い思いをしているのではないだろうか。不安に泣いているのではないか。そんなニコルの身を心配して、 とキラは走り回ったけれど、当の本人はといえば、何食わぬ顔で、すでに『彼』と一緒にいるではないか。
 まるで恋人同士のように見つめあい・・・しかも、ニコルが着ていた服は、自分達が用意していた服など問題にならないくらい上等の物だと一目見ただけでも分かった。

 カチャカチャと、キラがPCを設置する無機質な音だけが室内に響く。
 しばらくの沈黙の後「行ってくる・・」と躊躇いながらも小さく呟いた が、静かに扉から出て行った。

 何故、選ばれたのはニコルなのだろう?キラには納得出来ない。
 けれど、それが事実である以上、キラが考えなくてはならないのは のことだ。
 ニコルはこれからずっと 『彼』の隣で高価な服に身を包み、何不自由ない暮らしが保障され、『彼』に守られながら『彼』の子を産み、幸せに微笑んで生きるのだろう。
 しかしキラと はどうだ?
 女性になれなかった体は、一生中途半端な中性のまま、決して男性になることはない。
 だから、2人はこの小さなアパートの一室で、ニコルの幸せを見せ付けられながら、ただ生きて、そしてただ死んでいくしかない。
 それが人魚族の選ばれなかった女性体の運命だった。
 けれどそれなら・・・。

 キラは設置が完了したPCの電源を入れる。
 小さな静動音の後しばらくして、正常に起動されたPC画面を確認すると、キラはそれに向かうように椅子に座り、両手をキーボードへと運んだ。

 『彼』がニコルと生きるというなら。
 『彼』が を幸せにすることが出来ないというのなら・・・。

は・・・僕が守る」

 キラが流れるようにキーボードを叩くと、画面上に様々なデータが次々と表示されていく。
  に不自由な生活など絶対させるものか。
 例え子を成す事が不可能であったとしても、それ以外の・・・『彼』がニコルに与えるものと同じ、いや、それ以上のものを、キラは に贈ろう。
 キラの大好きな・・・あの綺麗な笑顔を守るために。
 そのためならキラは何だってしてみせる。
 画面に表示される数値の羅列に走らせているキラの菫色の瞳には、いつしかぼんやりと淀んだ光が浮かんでいた。


200510.07


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