DREAM   Princess mermaid   



   閉じた扉のすぐ外で、は咄嗟に両手で口を押さえて蹲った。
「・・・っ・・・けほっ」
 いけない。キラに、聞こえてしまう。
 堪えようとしても肺から込み上げてくる咳が止まることは無く、必死では声が漏れるのを抑えた。
 じっとりと背中にまで冷や汗が滲み、呼吸が荒くなる。
 でも大丈夫。
 こうして少しの間我慢をし、休んでさえいれば咳は治まるのだ。
「こほっ・・・」
 小さい頃から、は医者に見せても分からない、原因不明の咳と熱に悩まされてきた。処方されている薬で、それらを抑えることは出来ても一時的なものでしかなく、最近はその間隔が少しずつ短くなってきたように思う。
 俺は、いつまで生きられるのだろう?
 キラに知られでもしたら大泣きされそうな、昔からずっと抱いていた不安が、次第に現実味を帯びてきたことをは自覚していた。
 しばらく蹲まりながら呼吸が落ち着くのを待って、一つ大きく息を吐いたは、立ち上がって外へと向かうべく、ゆっくりと歩き出した。
 そして、先程キラが閉めてしまったチェーンと鍵を外し、外への扉を開ける。
「・・・ニコル?」
 扉のすぐ向こうに、ニコルが立っていた。
 大きな眸は不安気に揺れて、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいる。
・・あの・・・」
 必死に言葉を紡ごうとするニコルに、は出来る限りの優しい笑みを見せた。
「おかえり。ニコル」
「・・・っ!・・!」
 その微笑に弾かれたように、ニコルは大粒の涙を零しながらに抱きついてくる。
 成長したことにより出来た2人の身長差のために、の胸に縋るようにしがみ付くニコルの背を片手で支えながら、もう片方の手で落ち着かせるように頭を撫でた。

 キラに非情な言葉を突きつけられても尚、ニコルは2人のところへ戻りたかった。
 イザークのことは好き・・・なのだと思う。
 しかし、体は年頃の女性になったとはいえ、中身はまだ10歳の子供であるニコルにとって、まだその気持ちよりも戸惑いの方が遥かに大きいのだ。

 ニコルを宥めている間ずっと、その背後で訝しげにこちら見ている『彼』の視線に気付いたは、そっと彼女の腕を自分から引き剥がして声をかける。
「ありがとう」
「え?」
 目の前で繰り広げられた、気になる女性と見知らぬ男の抱擁を、何ともいえない気分で見ていたイザークは、その相手に突然礼を言われ、間抜けな声を上げた。
「ニコルがお世話になったみたいだから」
 穏やかに微笑むの腕に自らの腕を絡めながら、寄り沿うように隣に立つニコルを視界に納めたイザークの表情が、不快に歪む。
 としては、妹の面倒を見てもらった相手に対して、当然の礼儀を返したまでのことなのだが、それをイザークが知る由は無い。
「いや」
 貴様は誰だ!?
 短い返答を返し、その疑問を込めた鋭い視線を向ているイザークの眉間の皺に、は不思議そうに首を傾げている。
「俺はイザーク・ジュールだ。貴様は?」
 一向にその意図に気付こうとしないに焦れたイザークが先手を取る。
「あ・・ああ、俺は
 叩きつけるようなその物言いに、は反射的に言葉を返したのだが、イザークが知りたかったのは、先程からニコルが連呼していた目の前の男の名前などではなく、2人の具体的な関係だった。
 やけに親密そうな雰囲気を見せ付けられれば嫌でも気になるし、ましてやそれが己が好意を寄せている女性であるなら尚更だ。
「で?貴様はニコルの何だ?」
 物事はハッキリさせておかないと気がすまない。遠まわしな時間の無駄使いを嫌う性分のイザークは、潔く直球勝負をしかける。
「何って、俺はニコルの・・・」
 正確に言えば『姉』だ。
 しかし、中性体らしくスレンダーな肢体に恐ろしく整った容貌を持っていたとしても、身長はイザークより少し低めで(女性にしては高い)、全く丸みの無いこの体を傍から見れば、どんなに贔屓目に見たとしても、今のは男に見える。
「・・・兄だけど」
 だからそう言った己の言葉に、の胸がちくりと痛んだ。
「兄?」
 確かニコルは姉妹と共に来たと言っていなかったか?
 聞き間違いだろうか?
 この部屋は確かに203号室で・・・そこから出てきたは確かにこの部屋の住人だろう。ニコルがに懐いているその様子からも、2人の関係が親密なものだと分かる。
 確かにニコルに負けるとも劣らないくらいの壮絶な美貌の持ち主ではあるが、その趣は全くといっていいほど異なるものだ。
 そんな釈然としないイザークの疑問を更に増大させているのが、先刻のやり取りだった。
「ならば、先程の発言の真意を聞いても良いか?」
 一瞬キョトンとしたは、瞬時にそれがギラの暴言を指しているのだと気が付く。
「え・・・あ、あれは・・その」
 なんと答えてよいものか。
 ストレートに真実を話しても良いのだろうか?
 言い淀むの腕を掴んでいたニコルがぎゅっと力を込めてくる。
 それは拒絶の意思表示。
 だからは、咄嗟に適当な嘘をつき、
「き・・兄弟喧嘩だ」
「兄弟喧嘩?」
 訝しげなイザークに向かって、こくこくと首を縦に振ってみせた。
「ああ・・その。ちょっと色々あってキラの、あ、えっと、もう1人の兄だけど・・・機嫌が少し悪かったから」
「・・・そうか」
 まだ納得などしてはいないものの、明らかに家族の問題ともいえる事柄に、これ以上踏み込むのはマナー違反であったし、の腕にしがみ付いているニコルの様子から、無用の心配だと感じたイザークは、大人しく引き下がる。
 しかし、じゃあ俺はこれで。と部屋へ戻ろうとしたイザークを、今度はが引き止めた。
「あ、あの・・・」
「?」
「もし迷惑でなければ、これからも妹と会ってやってくれないか?」
「え?」
 意外な申し出に、イザークはらしくも無く唖然としてしまう。
「変な意味ではなく・・・俺達、今日月から引っ越してきたばかりで、友人も居ないし」
 自分達も忙しくてあまり妹を構ってあげることが出来ないから、寂しい思いをさせないように。出来ればたまに会って、遊んであげてほしい。と、はそう申し出た。
 勿論これはイザークとの関わりを絶たせないための、なりの配慮なのだが、イザークの方も、ニコルとこのまま別れるのは本意ではなかったので、の申し出に快諾する。
 去って行くイザークの背中が消えるのを待って、ニコルがポツリと呟いた。
「すみません。・・・」
 自分を探すために、散々走り回ってくれたこと。
 キラと自分との間に挟まれて、に嫌な思いをさせてしまったこと。
 そして、ニコルが選ばれてしまったことも。
 謝罪の言葉には、様々な意味が込められていたのだが、はそれに気付かない振りをして、なんでもないことのように笑顔を向ける。
「ん?どうしたんだいきなり?それより、早く部屋に入ろう?お腹すいただろう?すぐご飯作るから」
 どこまでも優しいに、再びニコルの視界が微かにぼやける。
 そんな表情を隠すように薄暗くなっていた夕暮れ時に感謝しながら、ニコルは部屋へ入っていくの背中を追いかけた。



 *  *  *



 それから頻繁に、イザークはニコルを誘いに来るようになった。
 学生である彼は、カレッジに通いながらも暇を見つけては水族館や映画など、理由をつけてはニコルを連れ出している。
 外で何かあっては大変だからと、アパートの部屋まで毎回ニコルを迎えにくるイザークの応対に、まず最初に出ていくのは大抵であったため、自然に彼と話をすることも多くなった。
 当初はそんなイザークに戸惑っている様子を見せていたニコルも、最近では慣れたのか以前より表情が柔らかくなってきたように思う。
 今日もそんな2人を、手を振りながら送り出したは、部屋に戻ると手際よくコーヒーを二つ入れると、それを持って一番奥の部屋にいるキラのところへ向かった。
 机に座り、一心不乱にPCのキーボードを叩くキラを邪魔しないようにと、静かに机の端にコトンと一つカップを置く。
「ありがとう、
「あ・・・」
 でも結局邪魔をしてしまったようで、キラは手を止めて笑顔を浮かべ、を見上げた。
 先日の一件以来、キラはニコルに対し硬質な態度を崩すことはないのだが、と2人の時は違っていた。
「ごめん。邪魔したみたいで・・・」
「ううん。いいよ。ちょうど休憩しようと思ってたとこ」
 美味しいと、ニコニコ微笑みながらコーヒーを口にするキラを眺めながら、はすぐ近くに置かれているベットに腰掛けた。
「キラ、買い物に行くけど、今日の夕食何が食べたい?」
 プラントに来てから、キラは毎日PCと睨めっこをしていたし、ニコルはイザークと出かけていることが多かったため、自然と家事はの役目になっていた。
「んー?何でもいいよ」
「そんなこと言うと、毎日ロールキャベツにしちゃうぞ」
「いいよ。のロールキャベツは最高に美味しいしね」
 本気なのか、それとも冗談なのか図りかねる笑顔のまま答えたキラは、机の引き出しから何やら取り出してコーヒーを片手に歩み寄ってきたかと思うと、の隣へ腰掛ける。
「はい。コレ使って」
「なに?」
 渡された小さな通帳とカードに、は首を傾げた。
 そしてキラに促されるままに中を開いてから、は目を見張る。
「キラ?これ、どうしたんだ?」
「稼いだの」
 なんでもないことのように、にっこりと笑うキラに、は呆然としてしまう。
「稼いだって・・・どうやって?」
 そこには信じられないくらいの金額が入っていた。
 月から持ってきお金と比べても桁の数からして違う。
「んと、作ったプログラム売ったり、投資したり・・・いろいろかなぁ。僕って意外とそういうの才能あるみたい?」
 実際は口に出せないハッキングや違法取引などにも手を付けていたのだが、キラは足が付かないように念入りに操作していたし、に余計な心配をさせたくないので、その点は伏せておく。
「月から持ってきたお金だって限りがあるでしょう?だからこれからは自分で働いて稼がないと。あ、まだまだ入金される予定だから、好きに使っていいからね」
 そう言われても納得できずに通帳とキラを見比べているに、キラが可愛らしく首を傾げて念を押してしまえば、もう何も言うことが出来なくなったが曖昧に頷いた。
「さぁ、買い物に行くんでしょ?早く行かないと遅くなっちゃうよ。でも、裏路地とか危なそうなところには入っちゃだめだからね!」
「あ・・・ああ、分かってる」
 ポンッと軽く背を押されて立ち上がっただったが、此処で生活していくのなら、働いて稼がなくてはいけない。自分より精神的に子供だと思っていたキラに、そんな現実的な考え方を突きつけられて、は戸惑ってしまう。
 けれど、夕食は何でもいいけど、Past○lのなめらかプリンは買ってきてね。と背後から飛んできた声に、やっぱりキラだな。と笑みがこぼれた。



 *  *  *


 買い物に出かけたの後ろ姿を部屋の窓から見送ったキラは、再び机に向かいキーボードを叩き始める。
 ネット上で様々な仕事を請けているキラの元に舞い込んでくる多種多様な情報の多くは取るに足らないガセであり、それを見分ける能力もネット業界では欠かせない。
 そんな膨大な情報の中から、一つ大変興味深いものを発見した。
「これって、どうなんだろう・・・」
 なにやら胡散臭いのだけれど、キラの好奇心が煽られる。

《貴方の願いを叶えます。 ZAFT》

 画面一杯の黒背景に、まるで血の色を連想させる一文だけのシンプルなキャッチコピー。
 情報提供者のハンドルネームは『Tolle』。
 キラはあえて本名を使っていたが、実はネットで本名を使用する者は少ない。
 だから『Tolle』という名も、おそらく偽名だ。
 しかし、彼なのか彼女なのかも分からない、この『Tolle』という人物がキラに回してくる仕事は、いずれも確かなものばかりで、この業界の中で数少ない、キラが信頼している内の一人だ。
 その『Tolle』の情報なら間違いないのだが、こんな一文だけは、何が何だか分からない。

《詳しく話が聞きたい。 Kira》

 特に何か頼みたい事があるわけでは無いけれど、どの程度の願いを叶えられるのか。
 そんな単純な興味本位から、キラは送信ボタンを押したのだった。



 *  *  *



 ガララララ・・・・。

 買い物に出かけた繁華街の一角で、いきなり聞こえてきた派手な音に、 は足を止めた。
 道行く人の向けている視線を辿ってみると、 と同じ年くらいの青年が、道路に散らばった何かを必死に集めているのが見える。
 周囲の人はそんな彼の姿を、チラチラと視界に納めながらも、足早に通りすぎるだけで、誰も助けようとはしない。
 転がってきた短い円柱形の物体を、 は何気なく拾ってみる。
 猫の・・・缶詰?
 彼の足元に転がっているものが全て同じ形状のものであることから、おそらく全部猫詰なのだと推測される。
  は無言で歩み寄り、一緒に缶詰を拾い始めた。
 それに気付いた青年は、一瞬驚いたように を見つめた後、すぐに、ありがとう。と照れたような笑みを浮かべた。
 色素の薄い茶色の髪はキラよりも短く刈られ、ブラウンの眸には人柄を表すような穏やかな輝きを放っていた。その容姿は特筆すべきものが無いまでも、眸を隠すように僅かに色のついた眼鏡は嫌味の無い程度に品がある。
 全てを拾い終わり何度も頭を下げて去っていく彼の姿に、人の良さが覗えて、 の頬も自然と緩む。
 そういえばニコルも猫を見つけたと言っていた。
 居なくなってしまったその猫も、あんな優しそうな人に、拾われて大切にされているといいのだが。ボンヤリとそんなことを考えながら体の向きを変えると、ふと横に張り紙がしてあることに気付いた。

《アルバイト募集・・・》

 そこは小さな喫茶店だった。
 どうやら簡単な給仕をする仕事らしく、未経験者でもOKと書いてある。
 今まで働いたことなど無い だが、家事だけは得意だ。
 暫く立ち止まってじっと張り紙を見ていた は、一つ小さく頷くと、躊躇うことなく喫茶店への扉をくぐった。


200510.13


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