DREAM   Princess mermaid   



   次の休日。
 とキラは、アパートjから大分離れた郊外の海辺の街まで足を運んでいた。
 てっきり買い物にでも行くのかと思っていたのに、何故か向かった先は不動産屋で、意欲的に次々と物件を見て回るキラの様子に戸惑いながらも、 は黙って後をついて行く。
 しかし何の説明も無いまま4件目を見終わる頃には、流石に我慢も限界にきてしまった。

「キラ」
「なに?
「家なんて、見て回ってどうするつもりなんだ?」
「引っ越すんだよ」
 当たり前でしょ?と当然のように言い放つキラ。
 そしてやはり説明はない。
「引っ越すって・・でも・・・」
「ね、聞いて?」
 くるりと体を反転させて、混乱し瞳を揺らすの正面に立ったキラは、諭すように告げた。
「ニコルは幸せになるよ。彼が・・・イザークが守ってくれる。それこそ、命を懸けてでもね」
 彼ってそういう人でしょう?
 同意を求められて、確かに彼ならニコルを任せても安心だとも思う。自分達は必要ないのかもしれないとも。
 でも、だからといって二コルを守るのは自分達の役目でもあることに変わりは無い。キラはそれを放棄しようというのだろうか?
 人魚族の掟であり、その使命を捨てることなど・・・は考えたことも無かった。
 二人の存在価値は、いまやニコルを守るためだけにある。
 それを放棄したら、何のために自分達は此処にいるのか分からなくなってしまう。

「だから僕は、を守るよ」

「え・・・?」
 唐突なその言葉に、は思考を止めて顔を上げた。
「ずっと、一生、を守ってあげる。だから・・一緒に。ね?」
 二人だけの家を買って、二人だけで暮らそう?
 真摯に見つめてくる菫色の眸に圧倒されて、は言葉に詰まる。
「キラ・・」
 これはいけない。許されないことだ。
 そう、分かっていても、断ることがキラの想いを無碍にする行為になるということは、を躊躇わせる理由たるに十分なものであった。

 キラとて、伊達にと長く一緒にいたわけではない。
 誰よりもを良く知っているし、誰よりもその思考を理解しているつもりだ。
 だからこそ、あと一押しなのだ。
 少々卑怯な方法ではあるが、背に腹は変えられない。

「それに・・・あの二人を見てるのは、辛いでしょう?」
「!」

 はっとしてキラを見つめる翡翠の眸に映っているのは、傷ついたような己の菫色。
「彼に選ばれたのは僕でもでもない、ニコルなんだ。僕だって二人を見てるのが辛いよ」
 意図的ではあれども、全くの嘘では無かった。
 イザークの声を聞くだけで、姿を垣間見るだけで、騒ぐ心がその証拠だった。
 目の前の翡翠に映る己の顔が苦渋に満ちていたとしても、それは決して演技のせいだけではないのだ。

「だから、二人で行こう?」

 彼を忘れるためにも、遠くへ。
 ニコルはもう大丈夫だから・・・。
 キラは表面上苦し気に顔を曇らせ、それでいて内心ほくそ笑みながら勝利を確信していた。
 は優しい。
 だからこそ傷ついたキラを放ってはおけない。
 そう、キラはの心を動かすために、の心を利用したのだ。 


 辛かった・・・。
 仲良く歩く二人を見ることは、イザークへの想いを少なからず自覚しているにとって、苦痛以外をもたらすものではない。
 けれど、彼から離れることでこの想いが消えるだろうか?
 たぶん答えはノーだ。
 だとしても・・・。

「うん・・分かった」

 しばらくの沈黙の後に得られた承諾の言葉に、キラの顔がぱぁっと明るくなる。
「本当?!一緒に居てくれる?
「ああ・・」
 躊躇いはあるけれど、それだけではない。
 はキラもニコルも大好きで。
 ニコルはきっと幸せになるだろう。
 キラにも幸せになってほしいと思うから。

「ん?」
「あのね・・」


二人で、幸せになろうね?


 そう言って太陽の笑顔を見せたキラに、まるでプロポーズみたいな台詞だな。と思いながら、は綺麗に微笑んだ。



 *  *  *



「どうして?」
「え?」
 ふいに問いかけた言葉の意味を、彼女は理解することができなかったようだ。
 細い腕で抱いている小さな子猫の頭を撫でていた手を止めて、不思議そうな瞳を向けてくる彼女に、サイはもう一度問いかけた。
「何故、言い直すんだい?」

 『僕』から『私』へ。

 会話の節々で登場する一人称。しかし、そのたびにわざわざそれを訂正する彼女を、サイは常々不思議に思っていた。
 確かにあまり女性が使う言葉ではないけれど、だからといって絶対に使ってはいけないということもない。
 育ってきた環境や性格など理由は様々だが、例え女性であっても『僕』という一人称を使うことは珍しくはないように思う。

「・・・すみません」
「あ、いや。別に咎めているわけじゃないんだ・・その・・・」
 途端にシュンとしてうな垂れてしまう彼女に、サイは慌てた。
 必死で言葉を探していると、彼女が少し苦笑して、ゆっくりと口を開く。
「そうした方が良いって・・・普通の女性は『私』を使うものだからって、言われたんです」

 言われた?・・・誰に?

「・・・そう」
 ふっと浮かんだ疑問の言葉を、迷った末、サイは口にすることが出来なかった。
 果たして聞いて良いものなのか、そして、自分にそれを問う資格があるのかということも、分からなかったからだ。
「でも、君はそれでいいの?」
「・・・」
 顔を曇らせて視線を下げてしまった彼女を、子猫が心配そうに見上げ、みぃ〜と鳴いた。
 その声に応えるように彼女は白い手で子猫の頭を撫でている。
「君がそうしたいなら仕方ないけど。でも・・・なんか無理してるように見えたからさ」

 彼女に一人称を直すように言った人物との関係はどんなものだろう?
 家族や友人?・・・それとも、恋人?
 もし後者であるならば、その彼は彼女を全く理解していないのだと思う。
 彼女自身を知らない誰かが、その清楚な外見だけを見ていたならば、『私』という一人称に何等違和感を感じることはないだろうけれど、サイは違 う。
 出会ってからほんの数週間しか経ってはいないけれど、それから多くの時間を共に過ごしてきたサイには分かる。美しくたおやかな女性に見える彼 女内面が、まるで子供のように無邪気であり、明るく純粋な笑顔を持っていることを。
 だからこそ一人称は『私』より『僕』の方が似合う・・・いや、しっくりくるのではないかと思うのだ。

「無理なんて・・・」
 その否定の言葉には覇気が全く感じられなかった。
彼女にそんな悲しい顔は似合わない。いつも笑っていてほしい。ふと過ぎったそんな感情の波に、サイはあがらう事が出来なかった。
「確かに普通はそうかもしれないけど、『僕』でも別にいいんじゃないかな。それが君の自然な言葉だろう?それに・・・」
 『僕』でも、可愛いよ。
 思うままに言葉を綴ってしまった後、すぐに頬を真っ赤に染めた彼女を見て我に返ったサイは、激しく狼狽した。

 今、自分は何を言った?
 まるで告白のような・・・そんなセリフを吐きはしなかったか?

「あ、えっと・・・今のはその・・・」
 普段の自分であれば、決して口に出せやしないような言葉を、勢いにまかせて言ってしまった。

 数週間前、禁止されていると分かっていても、放っておけずにこっそりと飼い始めた子猫。
 そしてその数日後に、ふらりとサイの前に現れた彼女。
 神を否定するわけではないけれど、信仰とかそういったものには全く無縁で育った自分が、彼女を始めて見たときに、まるで天使が舞い降りてきた ようだと思った。
 奇跡のようなその美しさに見惚れ急速に惹かれていく己の心は、彼女という人となりを知れば知るほど、否定することが難しくなってくる。

「あ・・」
 小さく上がった声に彼女の方を見れば、腕の中の子猫がするりと抜け出して、床に着地するところだった。 みぃ〜っと小さく鳴いた子猫は、その 場で一度横に回転してみせてから、開いている窓の方へと走り出した。
「あすらん!」
 慌てて名を呼び捕まえようとした彼女の手から、器用にすり抜けた子猫は、あっという間に外へと出て行ってしまう。
「大変・・追いかけないと!」
「あ、うん」
 アパートの住人。ましてや管理人に見つかったら大変なことになってしまう。
 少し青ざめた顔で飛び出していった彼女の後ろ姿を追いながら、部屋の中に流れていた雰囲気が一瞬で消えたことに、サイは安堵していた。
 このままでは彼女に、言ってはいけないことまで言ってしまいそうな自分が怖かったから。
「あ・・・」
 玄関まで来たときに目の端に映った傘で、サイは思い出した。
 今日は朝から天気が悪い。
 これはプラントでは予定されていた通りのもので、確かそろそろ雨が降り始める時間のはずだ。

「待って!ニコル」

 サイは咄嗟に傘を掴むと、先に出て行った彼女の後を追いかけた。



 *  *  *



 昨夜、血を吐いた。

 大した量では無かったし、心配を掛けたくもないので、キラやニコルには黙っていることにした。
 少し疲れたから・・・そんな適当な言い訳をして、昨夜は早く寝てみたけれど、一晩では回復しなかったようで、今も何ともいえない不快感に襲わ れている。

 流石に、ちょっとマズいかもしれない。

 自分を騙してバイトに出てきたことを後悔しながら、カウンターの奥に滑り込んだは、客から死角になる位置までくると、壁に背を預ける。
 ずるずるとそのまましゃがみ込むの脳裏にふとキラの笑顔が浮かんだ。
 今週末は、また他の物件を見学に行こう!と誘われていた。
 ニコルを見守る役目があるから、離れるわけにはいかないと主張したに、キラはこう言った。

 選ばれた人魚は必ず幸せになる。それは運命であって、例外ではない。
 だったら、自分達が側に居なくたって大丈夫だから、二人で幸せを探しに行こうと。

 確かにそうなのだと思う。
 ニコルは選ばれたのだ。イザークに。
 彼ならニコルを大切に守ってくれるだろう。

 そうは思っても、役目を放棄することには抵抗があった。
 渋るに、粘るキラ。
 しかしやはり最後に折れたのはだった。

 いつものことだし、仕方がないとも思う。 
 実はキラが自分のためにあれほど頑張って仕事をしていたのも分かっていたし、自分と共にある事を望み、それでキラが幸せになるのなら、そうし たいと思った。
 は知っていた。
 自分の命の灯火が、そう長くは持たないということを・・・。

 どのくらいそうしていただろう。
 しゃがみ込んだ体制のまま動かずにいたら、少し楽になってきた気がする。
 とはいっても、とても仕事が続けられる状態ではない。
 緩慢な動作で視線を上げると、そこに小さな窓が見えた。
 空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。

 帰ろう・・・。

 そうだ。帰ろう。
 キラの待つ、あの部屋へ。

 フラつく足を叱咤しながら、はのろのろと立ち上がった。


2006.06.25


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