東方の商人 >>   

 何日も何日も眠っていたような気がする。
瞳は閉じていたけれど、まわりが明るいのがわかった。今は朝かしら。それともお昼?
ゆっくり目を開いて窓の方を見ると、どうやら今は朝のようだった。
 へんなかんじ。
まだ熱があるようで体はぼんやりとだるいけれど、頭はすっきりとしていて、気分が悪いはずなのに、とても気持ちが良かった。

 ゆっくりと体を起こす。めまいがするかと思ったけれどそんなことはない。
寝癖のついた髪が恥ずかしくて(誰に見せるわけでもないのに)手櫛ですいた。
部屋は、お茶のいい香りがする。誰かいたのかもしれない、誰かと言ってもラルなのだろうけれど。
 そういえば、喉が渇いてる。

「あ、あぁっ!奥様!無理をしたらいけませんよ!」

 部屋の扉が開いてすぐに、声が、した。
褐色でも白でもなく、薄いクリーム色に近い肌をした少女が駆け寄ってくる。
髪の色はラルと似ているけれど、何か違う。今までこんな肌の色をしたメイドはいたかしら。こんな子がいたらすぐに気がつきそうなのに。
 そう思って、私はこの家の使用人をほとんど知らなかったことに気がついた。
この部屋にやってくるメイド以外を私は知らない。なぜなら、私はこの部屋からほとんど外に出ないからで、そんなことならば知りようがない。

「奥様、まだお熱が下がりませんのに、あまり無茶をしてはお体に障ります。旦那様も心配されますよ」
「あ…ごめんなさい」

 促され、体を支えてもらいながら絹のシーツに横になる。
私より年が若いのかもしれない、はにかむような笑顔がとても可愛らしい。

「今、お飲み物をお持ちしますね。ずっとお眠りでしたから喉が渇きましたでしょう?」

 にこり、笑いかけて部屋を出て行く。安心させるように。

それよりも。

「キリシュ語…?」

 私の母国の言葉。あんなに流暢に操っていた。話せる、と言う事は、どういうことなのかしら。



「お待たせいたしました!」

 はつらつとした声が、ぼんやりしている私を現実に戻らせた。

「さっぱりした物の方がよろしいかと思いまして、お茶をお持ちしました。
 後は、もし食べられるようでしたらスープもございますから」
 

 ゆっくりと起き上がって、手渡された暖かいティーカップに口をつける。
すっとするようなミント香りがほのかにする。あぁ、いい香り。

「ありがとう。……ねぇ…あなた、お名前は?」
「わ、私ですか?」

 お礼を言って名前を尋ねると、彼女は可愛らしい瞳をいっぱいに開いて驚いた。
そうよね。私だって、母国にいたころはメイドの名前なんてほとんど気にした事がなかったもの。

「私は、リリと申します。旦那様から奥様の日々のお世話をするようにと言付かっております」

 ふわりと一礼される。

「リリ?不思議な名前…」
「生まれがこの国より東ですので。私の生まれた国でも、珍しい名前なのですけれど」
「お花の名前ね、リリィ…という花があるわ」
「まぁ、存じ上げませんでした」

 どうぞ、と空になったカップに新しいお茶をついでもらう。

「あなたは、どうしてキリシュ語が話せるの?」

 あぁ、なんだか質問ばかり。
リリは戸惑った顔をしながらも丁寧に答えてくれる。小さい時から異国の言葉を勉強するのが好きだった事。事情があってこの国に来なければならなくなって、言葉が話せると言う事がとても役に立っていると言う事。
そして、つい最近この屋敷に雇われたと言う事。

「奥様のためですよ。旦那様、とても心配してらっしゃいましたから」
「…そうなのかしら」
「えぇ、もちろんですよ」

 スープを飲めるかと聞かれてうなずくと、シルバートレイの上の小さなお鍋からカップへと器用にスープをよそっていく。
どうぞ、とスープを渡される。薄い色をしたミネストローネのようなスープ。
とてもいい香りで、食欲が誘われる。

「奥様は、寂しい病気だったんですよ」
「さみしいびょうき?」
「えぇ。今まで、旦那様としかお話にならなかったのでしょう?ですから、旦那様のいらっしゃらない時はひとりぼっちでしょう?そんなの、寂しいじゃないですか」
「…そう、かしら」
「そうですよ。お医者様や旦那様はそんなこと考えていなかったのでしょうけれど、今の御病気だって、きっと寂しかったからだと私は思うんです」

 そこまで喋ってから、はっとしてリリは私に謝った。出すぎた事を申し上げました。
そんなこと言わなくてもいいのに。と思う。だって私は、この子がいてとてもほっとしている。

「そう…かもしれないわね」

 ぽつん、と言うと、リリがにっこりと笑った。

「奥様、もしよろしかったら、いつでも私に話しかけてください。何でもお話してください、奥様が黙っていろと仰った事でしたら絶対に誰にも話しません。旦那様にもですよ。お約束します」

 ですから、もう寂しくないですよ。
リリが、まるで聖女様のように微笑んだ。

「…そう、ね。……そうね」

 今までどんな状況になっていても泣く事なんてなかったというのに、目から涙が溢れて止まらなくなって、ぼたぼたと絹の寝巻きに落ちていった。
リリは慌てて私の手からスープのカップを受け取って、乾いた布を渡してくれた。



 あぁ私は、今とても。

しあわせなんだ。