夜菊 >>   月下の涙 第一章其の弐

「これもちゃんとした男物だ。…もういい、出かける。相手にしてられない。父上を待たせては申し訳がないしな。ちゃんと留守番してろよ」
 馬鹿の相手はできないとばかりに政宗はげんなりした顔で手綱を引いて馬を歩かせた。
 先頭を行く黒馬の後に続いて付き人達十数人が追う。
「…ファザコンだよなぁ。つくづく」
 ため息を吐き、成実は一人残った小十郎に聞こえるように呟いた。
「あのさ。大丈夫なのか?あいつ」
「何がです?」
 声をひそめて尋ねる彼に、小十郎は聞き返した。
 気まずそうに指先で頬を掻き、成実は目を反らす。
「ん。何か…。ほら。大殿って家督を梵天に譲って小浜城に引っ込んじまっただろ?…ま、今は宮森城にいるけどさ。梵天の奴頑張ってるけど、最近疲れてたっぽいし。ストレス堪りまくってんじゃねぇかなと思って」
「その疲労を癒すために先代にお会いに行かれるのでしょう。以前は同じ城におられたお父上とこんなにも離れる機会はありませんでしたから、慣れるまでしばらくかかるのは仕方ありません」
「んー…。いや、そうなんだけど…。俺はちょっと違う心配してるって言うか…」
 言葉を濁しながら成実がつつつと小十郎に寄る。
「?」
小十郎は首を傾げて前に屈み、彼に耳を預けた。
手を口元に添えて小さい声で言う。
「何て言うかさ…。梵天の奴冗談抜きで大殿に会いに行く時だけあんな感じじゃん?まさかとは思うが、大殿と変な関係になってたりなんかしな…」
「想像力が豊かすぎますなぁ、成実殿。しかしてそれも若さ故」
「…!」
 突然背後の耳元で囁かれた言葉に、成実は弾かれたように振り返った。
 そこには一人の見慣れぬ黒髪を一つに括った美しい若武者の青年が立ち、口元に細い指を添えてくすくす愉快そうに笑っていた。
「な、何者だ…!」
 手にしていた刀の柄を握って反射的に声を上げるが、後ろの小十郎は動じた様子もなくその若武者の正体を教える。
「鬼庭殿ですよ」
「き、鬼庭殿!?」
「ご明察通り」
 先の戦場で政宗が名を呼び、何処からともなく現れたあの者だ。
 鬼庭綱元。本名茂庭綱元。片倉景綱を本名とする小十郎が「小十郎」というその名を親から世襲したのと同じく、代々彼ら茂庭一族は「鬼庭」を名乗り、伊達家のために忠誠を誓っている。彼の父親である茂庭良直も政宗の祖父の頃から仕え今年七十三歳になるが、今だ現役と豪語している。
 息子の綱元もそれなりの歳の男。のはずだが…。
「あの…。何ですか、その格好」
「よくぞ聞いてくれましたな、成実殿。最近の拙者のブームは美少年なのですよ」
「はぁ…」
「しがない中年男の楽しみですわ。ご覧下さい。殿にも負けず劣らずのこの姿。今は亡き信長公に忠義を尽くした小姓、蘭丸殿をモデルにしましてですね、艶のある髪が美しいと聞き及びましたのでこのように。そうそう、それから全身に鶴をあしらった青を刺していたとか。そこまで真似てみたいものですが時間がなくてそこまでは…」
 言って、くるくるとその場で自らの容姿を見せびらかすように回る。
 鬼庭一族は忍の技を全てではないにしろ一部心得ているのだが、特に綱元は忍の才能があるようだった。少年の姿に化けているらしい。明るくて根はとても真面目な人物なのだが、この悪癖が玉に傷だ。
「…」
「ではその麗しい姿で殿の身の回り、お願い致しますね」
 成実は呆れて開いた口が塞がらなかったが、横で小十郎は突っ込みも呆れもせずただ鬼庭が落ち着くのを待ってから淡々と言った。
「御意」
 ぐっと親指を突き出してやたらと高いテンションで鬼庭は応え、ふっとその場から消えた。仕事はきちんとするようだ。
「梵天の身の回りって小十郎の仕事だろ?」
「身の回りとは言え、鬼庭殿に任せるは御世話ではなく守護ですよ。殿は嫌がりますが、いざという時鉄布だけでは不安ですし、大殿にお会いになる際は私もあまり長い間傍にいる訳ではありませんから」
 小十郎はさらりとそう言うが、成実はその発言に不安を覚えた。
 果たして鬼庭に任せておいていいのだろうか。
「…俺も行こうかな」
 不意に主であり友人である政宗の身が心配になり、ぽつりと俯きながら呟く。
 もしいらっしゃるのでしたら道中お気を付けてと言い残し、小十郎は既に小さくなりつつある政宗達一行の後を追って馬を走らせた。
「うぬぅ…」
 残された成実は腕組みをしてしばらく考えていた。


 政宗の父であり先代当主の伊達輝宗は、温厚で何事にも動じない人物だ。
 よく好々爺という言葉があるが、輝宗は爺と呼ぶほど年老いてもなく、まだ四十を過ぎたばかり。戦地に立って政宗の一歩前で総指揮を取っていてもいい年齢だ。
身長は高く肉付きは大して多くない。政宗の今の容姿を見て輝宗の姿を見ると、「成る程。この親にしてこの子有り」と納得できる姿形をしていた。武人と言うよりは文化人。実際、政宗と同じく学問にとても秀でた人物で知識人達と広く通じている。
一線を退いた彼は隠居という形を取り、小浜城で風に乗って来る噂と息子からの手紙を通して世界を見ていた。だが畠山を討つならばここを拠点とするだろうと思った彼は邪魔にならないよう政宗達が来る前に宮森城へと退いてしまっていた。
「随分大きくなったな、政宗」
 用意された茶の間で茶を披露し終えると、輝宗は久しぶりに会った息子に微笑んだ。
「お前の活躍は風に乗って私の元にも届いているよ。その歳で多くの者を取りまとめるのは大変だろうと思って心配していたが、上手くやっているようで父として誇りに思うな。あちこちに自慢して吹聴したいくらいだ」
 輝宗の斜め前に正座し、畏まっている政宗は姿勢正しく軽く頭を下げた。
「そのようなことはございません。私はまだまだ父上の足元にも…」
 慎み深く彼は目線も下げる。
 秋を連想させる容姿は、茶の間と部屋に満ちる抹茶と畳の香りがよく似合う。
「今に至るまでの功績、決して私のなしたことではなく、父上の抱えていた家臣の力。私など、非力な一人間です」
「はははは。私相手に謙遜など必要ないぞ。頑張っているなら頑張っていると言えばいいし、辛ければ辛いと言えばいい。誰しも人間、一人くらいそう言う相手が必要だ。お前のそれが私であれば嬉しく思うよ」
「…ありがとうございます」
 咄嗟に何か言い出そうとしてしまう自分を抑え、政宗は軽く頭を伏せる程度に留めた。
「私のような老いぼれと違い伊達家当主殿は戦で忙しいだろうが、今日はすぐに帰るのか?折角顔を合わせたのだから、もう少し一緒にいたいものだ。最近は機会も全くないし、文だけでは哀しいからな。泊まって明日でも明後日でも戻りなさい」
「父上がそう仰るのでしたら」
「では部屋を用意させよう。用意が済むまで、一緒に庭でも周らないか?」
 茶器をしまうと、輝宗はもう一度優しく政宗に微笑みかけた。
その笑みを見るだけで、ふわふわとした不思議な心境になる。幼心を取り戻すというか、日頃纏っている殺伐としたものを投げ捨てられるというか。
政宗にとって輝宗はこの世で唯一尊敬し敬愛し、その言動を最優先とするべき人物だった。輝宗の背中を見つめる眼差しは幼い頃から危ういほど常に一途で、父親の言葉であれば喜んで首でも腹でも差し出すほどであった。
だが何も不思議なことではない。貧しく今にも飢え死にそうな人に米を一握り与えれば、与えた者はその人にとって天にも神にも見える。政宗が父親を敬愛するにはそういう過去があっただけのこと。
 茶室の戸を開けると、廊下に小十郎と輝宗に仕える男の二人がそれぞれの主を待っていた。
 輝宗が男に部屋を用意するようにと言っている横で、政宗は小十郎に眉を寄せる。
「来なくていいと言っただろ。たまにはお前も羽を休めろ。父上は庭でも書庫でも自由に見ていいと仰ってくれたのだぞ」
「ええ。自由にさせて頂いているつもりです」
「…俺の周りに来るな」
 声を顰めて注意する。
 政宗は父親が傍にいると日頃好き勝手をしている自分が自然と大人しくなるのを自覚していた。偉ぶっている彼をいつも傍で見ている小十郎に、父親といる時の縮こまったような姿を見られるのが非常に嫌なのだ。気恥ずかしくて堪らない。
「用事がある時に呼ぶから、それまでは傍に来ないでくれ」
「しかしいざという時…」
「政宗。一晩で大丈夫か?」
 少し離れた場所から輝宗が尋ねる。
「はい。問題ありません」
 彼は慌てて小十郎から視線を反らし、返した。
輝宗は「そうか」と頷くと再び男と話し始め、やがて終えた。
話が終えると政宗達の方へ足を進め、それに気付いた小十郎が片足を発てて跪き、頭を垂れた。
「お久しぶりでございます、大殿」
「久しぶり。小十郎も立派になったものだなぁ。私の元にいた時は丁度お前のような年頃だったのだぞ、政宗。あの頃から秀でた若者だった。政宗はお前の目から見てどうだ。嘗てのようにバタバタと無理をして倒れたりはしていないか?」
「私はもうそのような軟弱者ではありません」
 横で聞いていた政宗が思わず声を上げて否定する。
 小十郎もそれを肯定するようにより頭を下げて応えた。
「は。政宗様は立派に大殿の後をお継ぎになっていらっしゃいます。それは一番文を交わしている大殿自身がよくご存知かと」
「未だそのように父上の目に私は映っておられるのですか。まだ至らないところは多いとはいえ、決してそのようなことはもう…」
「分かった分かった。そう怒るな。冗談だよ」
 輝宗は小十郎の返し方に愉快そうに笑った。
 いつまでも小十郎相手に昔話を語らう父親に焦れ、彼の前では余り自ら言葉を発さない政宗が口を挟む。
「父上、早く庭へ参りましょう。ご自慢の菊、一刻も早く見とうございます」
「ん?あぁ、すまない。すっかり懐かしくなってしまって。では行こうか。小十郎、こんな古びた城だが、政宗と同じく浮き世を忘れてゆっくり休んでくれ。ではまた後で。政宗、こちらだ。付いてきなさい」
「はい」
 輝宗の後を付いてその場を立ち去る際、念のため小十郎を振り返って左目一つで「付いてくるな」と念を押しておいた。それが効いたのか、秋の色溢れる宮森城の庭に小十郎が現れることはなかった。
 朱でよく映えた紅葉を見上げ、政宗は自分の城にある水場を思い出した。途端にぞわっと背筋を寒いものが走り、両手の平がべっとりと生暖かく濡れたような感触を得た。
 顔を顰め、両手を見ないようにして着物の腿辺りで拭く。
「政宗。こちらだ」
「はい」
 城は緩やかな坂をその敷地内に含んでおり、庭は二段になっていた。
 輝宗の後を追っていくと、石でできた階段に出る。そこを降りた所が小さな別の庭になっているようだった。一つ一つ鉢に植えられた黄色や白の菊がそれは見事に大きな花を付けている。
「足元が危ないから気を付けなさい。ほら、手を」
「いえ。父上にそのような…」
「こらこら。余所見をするな。危ないだろうが」
 差し出された手を取ろうとして戸惑い、目を泳がせた政宗の腕を輝宗は自然に掴んだ。
 小十郎に手を拭わせた後のようなすっと透った風が政宗の背中を這っていた寒気を取り除いてくれる。
「気を付けて。おっと、そこに窪みがあるからな」
 手を引かれて下の庭へと降り立つ。
 上から見下ろした時の美しさに加えて菊の豊かな香りがふわりと政宗を囲んだ。
「見事なものですね」
「そういってくれるものがいると嬉しいものだな」
 柔らかく微笑み、輝宗は近くの菊の花弁を指先でなぞった。
「一年を通して世話をするのだ。念入りにな。まるで子供と同じよ。もっとも、お前の時と比べると菊咲かせなど遊びのようなものだが」
「その言葉、嬉しく思います」
「立派に咲き誇ってくれて私こそ嬉しい限りだ」
 輝宗は畏まっている政宗から一度視線を上げ、今下りてきた階段の方を見上げた。
 誰の気配もないことを確認すると再び視線を戻す。
「時に政宗」
 その声に何となく今までの会話との感情の区切りを感じ、政宗は緩んでいた気を引き締めて俯き気味だった顔を上げた。
「先日大内を落としたそうだな」
「は。彼の者は家督相続の際こちら側に付いたのを寝返り、佐竹蘆名側へと付きました。これを許しては伊達の名折れ。まだ相続して間もない私が周囲の者たちに甘く見られるのは当然としても、最初のうちに奴らが思っているほど緩くはないということを知らしめねばなりません。そのため早急に落としました」
「聞いているよ。だが大内自身は殺し損ねたらしいな」
 思わぬ輝宗の言葉に、政宗は驚いて目を見張った。
「何故それを…。影武者のことは私も先日知ったばかり」
「…。実はな、つい昨日だ。私の元に畠山殿がいらしたよ」
「畠山!?」
 とんでもない父親の告白に、政宗は真っ青になって一歩前へ進み出た。
「畠山がこちらに?それは誠ですか。お怪我は?父上にもしものことがあれば…」
「ははは。安心しろ。畠山殿は紳士的なお方だ。堂々と正面からやってきてお話ししたよ」
 まるで親しい旧友との再会を語るような口調。
 最初は驚きと不安で冷や汗すら流しかけていた政宗だが、父親の態度に次第に落ち着きを取り戻して話を聞くことができた。
「大内殿の小手森城を落とした際に、そこにいた人々全てを撫で斬りにしたそうだね」
「はい…」
「一体どうしたと言うんだ、政宗。過ぎたこととは言え、心優しいお前には珍しい選択のように私には思えるのだが」
「…」
 政宗は俯き、垂れ下げた左腕に右手を添えて黙り込んだ。
 周囲を威嚇するためとはいえ、やはり先日の行動は輝宗の目から見ても非道だったらしい。小十郎は肯定したが、政宗にしてみれば唯一尊敬する父親に話の始めに否定されては、これから先理由を発してもそれはいいわけにしか聞こえないだろうと思えた。
「咎めているわけではないよ。顔を上げなさい」
「…すいません。浅はかでした」
「お前なりに考えた理由があるのだろう。言ってごらん」
「いえ…。今となっては全て哀しい言の葉。形に残らず風に霧散するのみ。私の非道、許されることではありません」
「何もそこまで卑下することもないぞ」
 輝宗は腕を伸ばすと、政宗の癖の強い髪を優しく撫でた。
「責めるつもりはない。ちょっと聞いてみたかっただけだ、気にしないでくれ。…話を戻そう。畠山殿は逃げた大内殿を匿っておられるらしい」
「…知っています」
 その情報だったら、城を落とした次の朝に小十郎が伝えていた。
 戦が終わった夜遅くに放った忍は戻ってきており、畠山の城で大内を見たという。だから今政宗の軍は次に討つ標的を畠山と決め、囲った大内共々討ち滅ぼさんとしているところだった。
「大内殿はお前の取った処罰に酷く怯え、日の光も浴びられぬと言うことだ。畠山殿は今まで態度を曖昧にしていたことを謝り、お前の元へつくことを私に告げに来た」
「畠山が我が陣に?…なら何故直々に私の元へ来ずに父上の元へ。そのような無礼者聞いたことがありません」
 吐き捨てるように政宗が言うと、輝宗は困ったように続けた。
「お前が恐いのだそうだ」
「…私が?」
「ああ。政宗、お前自身はあまり自覚がないかもしれないが、十八のうら若い城主が家督を相続して早々の老若男女撫で斬り。数日前のあの噂は瞬く間に奥州…。いや、ひょっとすると国中に広がり、随分と鬼畜生の印象を諸将に与えてしまったようだ。畠山殿だけではない。諸将はしきりにお前の言動を警戒している。向かい合ったが最後、瞬時に首を斬られるような無慈悲に思われている中で、それでも許しを乞い私に接触してきた畠山殿は勇敢と言える方かもしれない」
 輝宗の言葉は政宗にショックを与えた。
 心の隅で極悪非道だとは思っていた撫で斬りだが、そこまで広まっているとは思っていなかった。確かに諸将を怯えさせ自分たちに手を出させないようにし、良ければ味方にと思ってはいた。だが、彼の行動は返って諸将に敵意と恐怖を持たせて警戒を強くしてしまっただけのようだ。
「そんな…つもりは」
 愕然とした政宗は弱々しく呟き、輝宗の手を逃れて無意識に一歩後退った。
「私が潰したいのは佐竹と蘆名。他の諸国は後でもいいから、手さえ出さないでくれればと思っておりました。そのため一つを犠牲にして他の国を牽制できれば、それだけ戦で死に逝く兵は少なく土地は荒れずに済むと思い、私は…」
 小さな声で発する政宗が地に戻ったのを、輝宗は瞬時に察した。
 一度は逃れた彼の腕を再び引き、自らの胸に引き寄せる。
「そうであったか…。しかし思い通りにならないのが人の世。落ち込むことはない。どうだろう、政宗。畠山殿の和睦の申し出、大内殿共々受け入れてはくれないだろうか」
「…。…畠山は考えましょう。ですが大内は…無理です」
「無理?」
「すいません。…すいません、父上。いくら父上の言葉でも、梵には父上ほどの器はありません。一度裏切った者を再び許すことなど、できない」
 悲鳴のような痛々しい声を発し、政宗は輝宗の腕へ縋り顔を寄せた。
「あまり難しく考えることはないのだよ。畠山殿は領地の一部をお前に譲ると言ってきた。大内殿もただでとは言わないだろう。謝ったから許す。簡単だろう?それでは駄目なのか?」
 幼い子供に言い聞かせるようにする輝宗の言葉に首を振る。
「梵はこれ以上、人を信じられなくなりたくないのです。…今だってそうだ。家臣皆を信用したいが、心から信じることができずにいます。自身が怯えているのです。皆を信じたい。先ほど本音を話してもいいと仰いましたので甘えます。梵は信じようと努力しております。ようやく家臣達に信頼を置くことができはじめました。ですが、その家臣の中に大内のような者を一人でも入れてしまえば、全体を信じられなくなってしまうでしょう」
「政宗…」
 表面上立派に家督を継いだとしても、長い間負ってきた彼の心の傷はそう簡単に癒えるものではなかったようだ。
 輝宗は政宗の奥底にある傷の深さを再認識すると、宥めるように細い肩に手を置いた。
「すまない。お前を苦悩させたいわけではなかった。だが考えておいてくれ。急いで返事をする必要はないのだから。…本当にすまない」
「すいません。…すいません父上」
 見ている方が哀しくなりそうな追い詰められた表情で政宗は父親の謝罪も聞かず謝り続けた。
 輝宗の助言すら聞けない自分の狭い心が心底憎らしく思えた。


 空も紅く染まり始め、用意された客間へ戻ると当たり前のように小十郎が待っていた。
 本当に何処へも行かずに一日中そうしていたのか、政宗が襖を開けると同時に深く頭を下げて迎えたので、流石の彼も呆れてため息を付いた。
「散歩でもしてくればいいものを」
 肩にかけていた上着を折り畳む小十郎を見て、政宗は言った。
 輝宗に見せてもらった庭が美しいことや菊が綺麗に咲いていたこと、菊の葉を湯船に浮かせると疲れが取れるという話を聞いてきたことなどを小十郎へ話すと。
「それはようございました。殿の喜びは私の喜び」
 短い返事だけで彼の体験を自分の喜びと僅かな笑みに変え、終わった。
 他の家臣達はそれなりに各自楽しんだようだが、小十郎は一体いつ休むのだろうと時折政宗は考える。だが昔から繰り返し思っているこの疑問を本人に尋ねてもきちんとした答えは返ってこないので、口に出すこともなく黙っている。
「大殿と何をお話しになったのですか?」
「だから菊の話だ」
「それだけでございますか?」
「…」
 小十郎の全てを見通したような切り返しに、政宗は一度彼から視線を外してきょろきょろと辺りを見回した。天井やら畳やら。ぐるりと部屋を見渡すが、何の気配もない。
「…まさか忍は連れてきてなどないだろうな。俺は嫌だと言ったはずだぞ」
「まさか。大殿との一時、この小十郎が邪魔するようなことは決して」
「ならいいが…」
 小十郎の即答に安堵すると、政宗は座して先ほど聞いてきたことを小十郎へ話した。
「…その謝罪、決して受けてはならぬかと」
 話を聞いた後の小十郎の言葉は簡潔で短かった。
「ああ、俺もそう思う。畠山はまだしも、大内は絶対に…」
「両者でございます」
 歪曲して政宗が受け取った感想を、鋭く小十郎が修正する。
 政宗自身が思っていた意見と違い、彼は顔を上げた。
「畠山も駄目だと言うのか」
「ええ。なりません」
「だが、領地の一部を俺に献上すると言ってきたらしい。それに先の小手森城の件、やはりやりすぎたらしく、周囲の諸将は怯えるだけならまだしも俺を警戒しているということだ。畠山なら組み込んでも損はあるまい」
「お考え直しを。畠山の城主、義継殿は決して真っ直ぐな性格とは言い難く」
「…この話は帰ってからにしよう。今日は晩に父上の元へ酒盛りに向かう約束をしたんだ。向かう前に失礼のないよう着物を変え、湯に浸かりたい。菊を一輪頂いた。早速花弁を浮かべてみたい」
「仰せのままに」
 大きな黄色い菊一輪を小十郎へ手渡すと、彼はそれを受け取って席を立った。
 用意された鮮やかな黄色を浮かべた湯に身を浸してから、晩方政宗は身を整え直すと部屋を出て行った。
「…。来るなよ」
 小十郎に昼と同じように言い、頭を下げた小十郎に見送られて彼が出ていったのは月が昇り始めた頃。
 先に休んでいろと言い残して輝宗の部屋へ向かった政宗だが、小十郎は主より先に寝床につくという考えは端から持っていなかった。先ほどまで政宗が着ていた着物を折り畳み箱にしまい、寝床を用意すれば彼のすることはなくなってしまう。
 さっきは忍を否定したが、鬼庭が今も政宗を付かず離れず護衛しているはず。小十郎が表立って動くのを他ならぬ政宗が嫌がるのであれば、常に従って傍について回っていた彼は手持ち無沙汰に自分の着物の裾を無意味に手で直したりしていた。
政宗の城や小浜城ならともかく、ここは輝宗の城。小十郎の自室には読みかけの書が多く残っているが、それらを持ってきてはいない。
さて何に時間を潰そうかと考えていたところ、襖が開いてさっき出ていったはずの政宗が戻ってきた。
「小十郎、立て」
 心なしか出ていった時は明るかった顔から血の気が失せている。
 顔色の悪い政宗を不審がり、小十郎は膝を上げて傍に寄った。
「如何なされましたか、殿。顔色が」
「何も言うな。…いいから、父上の部屋まで俺について来い」
「畏まりました」
 疑問に思いながらも政宗について廊下へ出る。
 政宗が呼ばれた酒盛りの部屋というのは、輝宗の寝室の横にある客間だった。上階の奥にあるその部屋に向かうにはいくつかの階段を上がらなければならない。宮森城の階段は一つ上るごとにぐるりと城の中央を時計の逆回りに上がるようになっている。階段を上っては少し平らな廊下を歩き、また目の前にある階段を上る。
 政宗自身位が高いため、城の中でもそれなりの高さに輝宗は部屋を置いてくれた。呼ばれた部屋に続く階段をいくつか上ると言っても、それほど疲れるわけではない。
 やがて一つの階段に片足をかけると、政宗はぴたりと一度足を止めた。
「…離れるな」
「は」
 振り向かずに小十郎に呟いてから、音を発てて階段を上がる。
小十郎はそれに無音で従った。
 階段を半ばにさしかかると、上階の廊下が見えてくる。木目の美しい磨かれた廊下を塞ぐように、一人の女と侍女たちが立ち止まって窓の外の夜景色を見ていた。その中に、一際目立った萩色の小袖と打掛を纏って扇を携えた女がいた。
 彼女を見て、小十郎は政宗が自分を連れ出してきた理由を瞬時に理解した。それなりに取っていた目の前の政宗との距離をさり気なく狭めるために一歩前に出て、彼のすぐ斜め後ろに寄り添った。
 この時間に城下の様子が見えるはずもなく、見えるのは細く笑う人の口のような月のみ。
「月見でございますか」
 語りかけたのは政宗の方だった。
 侍女達が階段を上がってきた彼に気付いた途端、急に所在なさ気にそわそわし始める。
 だが中央にいる女性は今見える月のように微笑み、ゆっくりと政宗へ顔を向けた。
「ええ、そうですよ。良い月が満月とは限りませんので」
「…お久しぶりでございます、母上。変わらぬお美しさ、この政宗驚きの限り」
 頭を垂れる政宗の前にいる女性は正真正銘、彼の母親だった。
会うのは久しぶりになる。最後にあったのは彼が家督を相続した日の式典だったが、それ以後は一年近く会っていない。尤も、式典に出ただけで言葉を交わしたわけではないが。それどころか、式典以前は数年に渡り政宗がその姿を目にすることはなかった。
しかし今言葉にした通り、彼女は年を取ったはずにもかかわらず美しかった。いや、返って艶が増したというところか。
「…」
女ながらに利発で馬を操ることを趣味とし、自らの意見を誰に対しても率直に述べるような母親は久しぶりに会う息子を前にしても喜ぶどころか素っ気ない態度で扇を開き、口元を隠すように添えた。
「はて。貴殿など私は存じませんが、どちら様でしょう?」
 綺麗な笑顔と美しい声だった。
 政宗はそれを聞いて薄く笑う。
「私をお忘れですか。…それも仕方のないこと。人の記憶は常に失われるものです。賤しい旅の者とでも思って頂ければ光栄ですね」
 政宗の言動は意図せずにして全て凛々しいもので、ボロ着を着て街角に立たせて知らない人間に差し出しても、彼が高貴な身分であることをすぐに理解するだろう。彼の言っていることは言葉だけなら自らを卑下しているものの、明らかに相手を馬鹿にする言葉だった。
 女は扇に隠れた頬をぴくりと動かす。
「旅の方、もう夜は更けていますよ。客間にお戻り下さいな、風邪を引かれます」
「お心遣いありがとうございます。しかし、私は貴方様の殿方に呼ばれておりましてね。貴方こそ、そこを退いて部屋へお戻り下さい。いくら美しくとも、年老いた体には辛いでしょう?または道を開けて頂けますか」
「…まあ。お邪魔でしたかしら。失礼しました」
 彼女は申し訳なさそうに言ってから、目を細めて政宗を見た。
「しかし…。客人のような恐ろしい容姿の者がこのような夜更けに訪れては、事前にお会いになる約束がなければ魑魅魍魎や鬼と勘違いされるというもの…」
「私の右目のことを言っておられるのですか。そうでしょうね。貴方のような高貴なお方には、私の姿はさぞ醜く映るでしょう。何分、女は臆病だ。臆病なお方には不完全な私との会話などお気を悪くするだけでしょう。こちらの城の主のように器が広く視野の広いお方でなければ。貴方は本当に良い殿をお持ちだ。…不釣り合いなほどに」
 政宗は彼女の態度に大した反応もせず、軽く笑ってすら見せた。
「さあ…」
 言い終わると、垂れ下げていた両手のうち右手を鬱陶しそうに横に振る。
「邪魔だ。退いてもらおうか、女!」
 突け話した言い方に侍女達は怯えて道を譲るよう彼女に言った。
 言葉を補うようにして小十郎がずいっと政宗の前に出て彼女たちを睨む。
 彼女自身はあくまで動こうとしなかったが、侍女達に背中を押されるようにしてしぶしぶ廊下の隅に移動させられた。その横を政宗が堂々と小十郎を引き連れて横切る。
「…こちらにいる間、せいぜいご注意なさいませ客人殿。何者かが食事に毒を入れるとも分かりません故に」
 彼女の横を透る瞬間、底冷えするような脅迫が耳に届いた。
「ご忠告どうも」
 鼻で笑って政宗は自らの母親に応えると、彼は廊下を移動して更に上へと続く階段を上った。その後ろ姿を、彼女は扇を怒りで震える手で握りしめ、忌々しそうに睨んでいた。
 階段を上がりきると、やがて階下にいた彼女たちの姿は見えなくなった。
 途端に、今まで何者も恐れぬような態度を取っていた政宗は片手で口元を覆って手摺りによりかかった。
その顔はまさに顔面蒼白。血の一滴も通っていないかのような蒼を通り越して白くさえ見えた。喉の奥が乾いて痛い。思い出したように心臓が戦の時以上に速く脈打った。
 カタカタと小さく震える肩に小十郎が後ろから手を添える。
「殿…」
「…大丈夫だ」
 声すら震えていた。
 今会った彼の母親は片目を失った政宗を幼少の頃から自分の子供だと決して認めなかった。今は取り除いた右の目玉は、当時は眼球から垂れ下がり腐食し、確かに彼女の言う通り魑魅魍魎や鬼なども恐れおののく姿だった。それを取り除いた今は刀鍔で空洞となった右目を覆い収まったが、それでも彼女は変わらず忌み嫌い、終いには完全に血族外の扱いをしだしていた。
 今の彼女にとって、腹を痛めて産んだ子供は弟である小次郎だけなのだろう。その弟との接点も、完全に政宗は遮断されていた。幼い頃は良く一緒に遊んだが、今となっては二人で城内を駆け回ったのもまるで夢の中の出来事かのようだ。
政宗が父親に寄り添っているように彼は彼女の保護を受けているのだろうが、今はどうしているのやら。
 向かい合うどころか母親の姿を見るだけで、瞬く間に政宗の内側にある傷が刃物で剔られる。階段の下から彼女があそこにいるのに気付いた彼は一人でその場を通過する自信がなく、一度部屋に戻って小十郎を連れてきたのだ。
 無表情の寡黙な側近がいるのといないのでは、天と地ほどの差がある。彼がいて初めて、政宗は心の傷そのものである母親に対しても虚勢を張ることができた。
 口元を抑えたまま俯き、政宗は肺の中の濁った息を吐き出す。
「わざわざ悪かった。もういい、戻って休め」
「大殿のお部屋までお送りするのが私の務めにございます。お部屋の前まで参りましょう」
 小十郎は政宗の側に付き、そのまま輝宗の部屋の前まで向かった。
 冷たい夜の廊下を歩いて目的地である輝宗の部屋へと続く襖が見える所へ着くと、政宗は小十郎を振り返って足を止めた。
「ここでいい。帰りは遅くなるかもしれないが、あまり遅くまで飲むつもりはないから心配するな。先に休んでいろ」
「いえ、お迎えに上がりましょう。城内とは言え…。いや、城内だからこその危険もございます。お召し上がりになるお食事や酒には是非ともご注意を。先ほどの奥方様のお言葉、気にかかります」
 政宗が死ねば、伊達の家は弟である小次郎へと移る。
 恐ろしいことだが、彼の母親はそれを望んでいるようだった。そこまで政宗と彼女の間には深い溝があるのだ。
「なら…、頼む」
 済まなそうに短く言う。
「畏まりました」
「じゃあな」
「…。殿」
 歩き出そうとしていた政宗を、後ろから小十郎が呼び止めた。
「何だ」
 彼が振り返る。
 何だと聞き返してはいるものの、彼が何を言いたいのか政宗は察していた。
「失礼ながら…。どうか御身、ご自重下さい」
「…うるさい」
深く頭を下げる小十郎へ吐き捨て、彼は輝宗の部屋へと向かった。
 襖を開けてすぐの所にある手前の部屋に輝宗の側近が控えており、入ってきた政宗を丁寧に出迎えると奥の部屋にいる主に取り次いだ。
 輝宗は既に酒の準備を整えて待っており、政宗を嬉しそうに出迎えると男を下げた。
 しばらく世間話をした後、彼は戦の話を切り出す。
「さあ、この間の小手森城の武勇伝でも聞かせてもらおうかな。私のいない戦は上手くできたかな?」
 朱の杯に注いだ酒を飲みながら、輝宗はのんびりと尋ねた。
 室内は四方に置いた蝋の灯りで、ぼんやりと橙に灯る程度。その中に浮かび上がる輝宗は天道の下とはまた別に、非常に魅力的に思えた。父親の姿をなるべく見ないようにして、政宗は同じように受けた杯を手にしたまま応える。
「昼に申し上げた通り、まだまだ私など…。全て父上がお抱えになった家臣のお陰です。私はただ飾り立て、そう見えるように振る舞うだけで何の力もありません」
「悪癖はなかなか治らぬものだなぁ…。何故そうもお前は自分の価値を下げるのか」
 輝宗を始め、他人が見れば政宗は十分知勇を兼ね備えた一人前の武将。
 彼の勇士を褒める家臣や諸将は多いが、自らに自信のない彼はそれら全てお世辞にしか思っていなかった。勿論、家臣や諸将の前ではこうもあからさまに否定しない。感謝を述べて言葉を受け入れる。だが輝宗には日々何重にも覆われている心の鍵を解き、胸の内を曝して素直になれた。
「実際に私に価値など…」
 すっと、伏せ目がちに顔を反らす。
これもまた気を許した相手の前で見せる彼の悪い癖だった。その一連の動作が如何に人を惑わす姿なのか全く自覚していない。加えて折り目正しい言動と身につけている着物、覗ける肌から薫り立つ菊の香といったらほとんど毒に近かった。
「まだ弱いな、政宗。もうそろそろ家督を継いだだけでなくその心も自立できないものか」
「…」
 さり気ないが、ぐさっと胸に突き刺さる一言だった。
 杯を置くと、政宗は膝の上で両手に拳を作り、俯く。
「梵は…。自立など、望みません」
「それはいけないな。いつまでも私が傍にいられるとは限らないのだから」
「そんなことはありません」
 可能性の話を政宗は全面否定して顔を上げ、父親を見つめた。
 自分の胸に片手を添えて必死に食い下がる。その瞳は真剣なものだった。
「父上の身から我が心を離すなどできるわけがない。この身が滅んでも幾度輪廻転生を繰り返しても、私は常に父上の傍に生を受けましょう」
「…政宗」
 輝宗は深いため息を付き、やがて健気な息子の頬に手を伸ばした。
 指が触れる瞬間、ぴくりと政宗の身体が縮むが逃げはしない。寧ろ恍惚とした表情でそれを受けた。その顔にあまりにも色香が漂いすぎている。
 果たしていつからこんなことになってしまったのだろうと思いながら、輝宗は深くため息を付いた。否定されることだと分かってはいても、自分だけを懸命に見つめる他者の眼力というのは凄まじいもので、輝宗は苦渋にもそれに飲まれていた。
 それが親子という関係であっても、政宗から発せられる艶に容赦などなかった。心広く慈愛に満ち、聡明で穏やかな輝宗は不安定だった幼い政宗にとってあまりに理想に近すぎた。彼はその心を意図せずに掴み取ってしまったのだ。
気心を許した自分にのみ許した表情だと思うと、その愛しさは理性を僅かに押し流す。
「父上…」
 甘えるように頬に添えられた腕に手を添える政宗に流され、輝宗はもう一度諦めたように息を吐くとその唇に自らのものを重ねた。


 あまり遅くならないといった政宗が部屋を出たのは、日が昇る三時間ほど前だった。
 人気のない、まだ深夜とも思える廊下に出ると、いつから来ていたのか。言った通り迎えに来た小十郎が廊下の隅に座ったまま深く頭を下げて、入った時と同じく乱れ一つない着物をまとった政宗を出迎えた。
「…端見に変わった所はあるか」
 特に気を利かせた会話はなく、政宗は自らの首に片手を添えて目の前の小十郎へ身体を見せるように軽く手を広げ、尋ねた。
「何事もなく」
「ならいい。湯は」
「既に整えましてございます。菊の葉も浮かべました」
「上出来だ。…戻るぞ」
 外から見て着物が覆っていない場所に接吻の跡がないことと風呂の準備を確認すると、政宗は頷いて歩き出した。
一度だけ父親の部屋を振り返ったが、ぱっと袖を広げ直して凛とした姿勢で歩き出す。
その後ろを小十郎が付き、彼らは朝方自室へ戻った。