遺言 >>   月下の涙 第十章

「な…何だこれは!!」
 ついさっき届いた文を見て、畠山義重は真っ赤になって怒鳴った。
 夜は既に深夜を過ぎ、今後はその色を薄くしていく時刻だ。仮眠を取っていた彼の元へやってきた文は二つあった。まず一つは父親である義政が家臣に腹を裂かれて死亡したというもの。よりにもよってこのタイミングでの死亡だ。父親の死亡は勿論哀しいが、それよりも彼はこのタイミングに驚愕し、悲観した。
これを聞いて彼はすぐさまこの情報の隠蔽に乗り出した。外部…連合軍に与している他の諸国に決して知られてはならない。彼らに声を掛けて今回の軍を築いたのは他ならぬ義政なのだから、彼が死んではこの連盟は脆い絆でしかない。
 しかし、必死に対策を練って暗い夜気を払いながら情報を隠そうとしているのに、それは無意味だった。それを知らせるのが、次に届いた息子からの手紙だ。
 蘆名義広。十歳の少年からの手紙は驚くべき内容だった。
『佐竹義重殿
前略。先ほど、連合軍総帥であらせられる貴殿の父、佐竹義政殿がお亡くなりにな
ったと聞き及びました。我ら蘆名の者が今回の伊達討伐を目標とする此度の戦に参加
した旨は、義政殿の恩義の元にございます。義政殿がお亡くなりになった今、これを
受けて我が蘆名軍の今晩中に現地からの撤退、及び南奥羽連合軍からの除名をお許
し下さいまますよう、お頼み申し上げます草々。
蘆名義広』
 蘆名軍の撤退を露骨に表していた。
 義政が死亡したため、もう恩はない。なので自分の軍は連合軍から抜けさせてもらうという主旨だ。これが必ずしも義広の意思ではないだろうとは、義重にはすぐに分かった。どうせ蘆名の家臣達が彼に無理矢理押し丸めて書かせるようなことをしたのだろう。
自分の父親に対しての他人行儀な手紙ほど哀しいものはない。二枚目には彼の本心であろう少し崩れた字で「私の力及ばず、申し訳ございません」と一言だけ書かれていた。
「く…っ。蘆名の腰抜け老人どもめ!義広を押し込めおった!」
 蘆名の軍は佐竹軍と同等の力を持ち、連合軍の大半を占めていた。
 その軍がごっそり抜けては、名を連ねている者たちの志気など地に落ちるだろう。義政の死に加えて、また隠蔽しなければならない情報が増えた。
しかし、隠蔽はもう手遅れに近い。現に蘆名の元には義政死亡の情報は筒抜けになっている。
「何故だ!何故勝手に父上の死が広まっている!?儂が知ったのはついさっきだぞ!?何故同じ速度で蘆名に届いた!」
「鬼様!」
 一枚目の形式ぶった手紙だけを握りつぶす義重の背後から、家臣が一人駆けてきた。
「申し上げます!我が本国へ江戸、里見の両軍が進軍を開始したのを確認しました!」
「何だと!?」
 伊達領地に攻め入っているのをいいことに、二家が佐竹の領地に進軍を始めたことが伝えられたのもほぼ同時だった。
 さっきまで赤い顔をして憤慨していた義重は一変して、青い顔で震える唇を噛んだ。
「どういうことだ…。どういうことだ!何だこれは!全てが偶然とでも言うのか!?」
 連合軍総帥の死亡、蘆名の撤退、自国への敵の進軍。
 よくよく考えればここまでそろう偶然というものは滅多になく、伊達の策と考えつくこともできただろうが、全てを一度に伝えられた彼は今まで余裕があった状況を一変させられ、多少なりとも混乱していた。
 まるで今まで自分の背中から追い風となって吹いていた風が一気にその向きを変え、正面から強く自分に吹き付けているような気さえする。
「伊達が落とせるチャンスなんだぞ!赤子の首を捻るより簡単だろうに、それを…!」
「鬼様お早く国元へお戻り下さい!今は一分一秒が勝負を決めます!」
「…っ!」
 ぎりぎりと歯軋りした挙げ句、義重はぐっと言葉を飲んだ。
 今は夜だが、明け方になれば江戸と里見は本格的に攻め込んでくるだろう。それまでに何とか自国へ戻り、あちら向きに軍を整えて戦に望まなければならない。
 腕を振り上げ、彼は悔しそうに一度顔を顰めてから声を張る。
「全軍、撤退じゃあ!!早急に陣を畳んで国元へ戻るぞ!」
 日が落ちる頃には優々と朝方を待っていたというのに、今は上る天道に追われて急いで撤退の準備を始める。
 蘆名軍どころか佐竹軍まで撤退したことが伝わると、連合軍に名を連ねていた他の諸国も我先にと帰り支度を始めた。死を諸戸もせず果敢に突っ込んできた伊達軍を、二つの軍なしに相手にするほど度胸はなかった。
日が昇る頃にはまるで嘘のように、一本橋の向こうには陣営も兵も消え去っていた。


 朝方。
 昨晩を最期の酒だと思って豪快に飲み漁っていた成実と彼の部下たちは、それでも早朝には意を決して油断なく鎧を纏い、誰よりも先に城を出た。
 しかし、本宮城の前で進軍した連合軍とぶつかると思っていたのだが、いつまでたっても敵の先鋒と蜂合わない。ぐんぐんと進んで馬を走らせているうちに、どういうわけか昨日主な戦地となっていた一本橋付近まで来てしまっていた。
 足場もままならないほどの死体や肉片の数々を乗り上げた先に見える川の向こうには、昨晩まであったはずの敵の姿が全く彼の視界には映らなかった。怒声や悲鳴も全く聞こえず、死臭漂う空気とは場違いな緩やかな川の流れだけが聞こえる。
 昨日連合軍とやり合ったのは、夢幻ではないはずだ。現に何百とある死体の中には、成実の部下も自軍の者も多く含まれて地に横たわっている。これらを夢幻で片付けていいはずがない。
「…。……。………」
成実は沈黙した後、口元を抑えて馬上で俯いた。
「…やばい。酒が抜けてないのかもしれない。悪いがそこのお前、目になってくれ。敵は今どんな様子だ?ちょっと俺目がおかしいみたいだ」
「は、はい…」
 傍にいた部下の一人に尋ねてみるが、彼もまた動揺していた。
 助け船を求めるように傍の同僚へ視線を向ける。そしてその者もまた別の者へ意見を求め、成実の隊はざわついていて収集がつかなくなっていた。
当たり前だ。誰の目にも敵陣など一人として映っていないのだから。しかしそんなことは有り得るはずはないと思っている彼らはそれを受け入れられず、どうしていいか当惑するしかない。
「え?お前らも見えない?…あー…。………え?何で?連合軍は??」
 状況が素直に飲み込めない成実たちの背後から、馬の蹄の音が複数聞こえてきた。
 振り返ると鎧をまとった政宗を先頭とし、伊達軍ほぼ全てがやはり戸惑いながらも馬を進めて橋本へやって来た。彼を見るなり、成実はぎょっとして声を張った。
「おい梵天、危ないだろ!お前何こんな前線に…!」
「もういいんだ、成実」
 彼の声はとても落ち着いていて、輝宗が死んだ以前の言動そのものだった。
 凛々しくて澄んでいて、黒馬に跨る姿は紛れもなく成実のよく知っている梵天丸が部屋の外で見せる姿だ。誰もが平伏したくなるような威厳で溢れている。
「対岸にもう用はない。俺たちの目的は最初から城の向こうにあったはずだ。…着いてこい」
 そう言うと黒馬の鼻先を別方向へと向け、ゆっくり動き出した。
 その背後を、小十郎を始め他の家臣達が付き従う。成実もわけがわからぬまま合流し、政宗の傍を歩いた。
静かだった。蹄の音と滑車が回る音しかなかった。まるで散歩のようなスピードで歩む彼らの横から、今さっき昇ったばかりの朝日が徐々に地上を照らしていく。
「…。梵天」
 静寂に耐えられなくなった成実が斜め後ろから少し前に出て、政宗の横顔を覗き込むように彼にしか聞こえない声で小さく声をかけた。
「昨日は殴って悪かった」
 だが、彼が何かを言う前に政宗が正面を向いたまま口を開いた。
「お、おぅ。…ん、いや俺も勝手に配置移動しちゃったしお前の怒りも分からなくはないと言うか…」
「以後は二度と許さん。次は殺す」
「…。…あい」
 たったそれだけの会話だったが、政宗の返事を聞いた成実は不思議と照れたような嬉しそうな顔で頬を掻いた。彼らの様子をもう一方の斜め後ろに控えていた小十郎だけは聞こえたが、彼も僅かに目元を緩ませた。
 やがて見えてくるのは畠山の所有する二本松城。本来の攻めるべき相手の城だ。
 その手前には成実の部隊から分けられた一隊が油断なく今も城の方へ矛先を向け、構えていた。だがやがて背後から近寄ってきた自軍の大軍に気付くと、内馬場が青木の肩を叩いて二人が代表して政宗達の方へやってきた。
「青木、内馬場!」
 成実が政宗を抜いて一番にずっとこの場を守っていた部下二人に駆け寄り、一言二言言葉を交わす。彼の破天荒な行動を咎めず、二人は微笑んで若い主の無事に胸を撫で下ろした。
政宗が近づくと、成実と二人は馬を下りて政宗の元へ行き、今さっき普通に語っていた口調を一変させてその場に片膝を立てた。本来、成実はここにいるべきはずだった。彼が一歩前に進み出て、頭を垂れて報告する。
「殿。畠山、今だ城内から出ず籠もっております。我が軍ならばその血筋を絶つのは容易く、大殿のお悔やみ義継ただ一人では晴れることもなく、かくなる上は何卒我らに攻撃のご許可を!」
 成実の言葉は、伊達軍全ての代弁だった。
 政宗の背後にいる家臣たちも皆一様に主の命を待っている。彼をひたと見つめていた政宗の背後から、小十郎が漆の刀を差しだした。それを無言で受け取ると、重みを確認するように手にしてから、腰に一度携えた。
 一陣の風が吹いた時目つきを鋭くしジャッ…!と勢いよく抜くと、その切っ先を真っ直ぐ目の前に見える畠山の城、輝宗の仇の血族が集まる二本松城へと向けた。
「狙うは二本松!!」
 凛とした声だけが周囲に響く。
「大殿の仇、畠山の血を残すな!その手で我らの哀しみを連中へ分からせてやるのだ!!」
 成実が横で言葉を続け、それに家臣達が一斉に声を張る。
「行くぞ!進めえぇえ――ぃッ!!」
 命令を下すと同時、黒馬が前足を上げて嘶き、誰よりも先に政宗が駆け出す。
 力強い声は、例えるなら手にした刀と似た輝きを放っていた。何千もの声がそれに同調して叫び、我先にと一斉に馬を走らせる。先頭で、政宗は正面から吹きつける風に髪を揺らしながら空を仰いだ。すぐ頭上に、白い翼が見えた気がした。
 数は減ったとはいえ、勇士揃いの伊達軍が城に籠もり震えている畠山を落とすのに時間はさほどかからないだろう。ここにようやく様々な区切りをつけて、父親の仇を成し遂げることができる。
 空は日が昇りきり、朝独特の淡く白い太陽が世界に光を落としていた。