終章 >>   月下の涙

 血に触れれば必ずそのまま水場へ向かう政宗が、その晩は水を浴びなかった。
 柚家に布をかける際に指先に着いた紅い染みは、決して汚らわしくはない。彼が羽織っていた布は羽織布の中でも一際気に入っていたものだが、それも全く惜しくはない。あれはそのまま柚家に持たせるつもりで彼を丁重に別の場所へ運んだ小十郎へと預けてきた。
 時間は深夜というよりも既に明朝に近い。空は闇ではなく濃い紺で染まっていた。家臣が寝静まった頃に部屋を出た政宗は今までずっと南の庭に面している外廊に腰掛け、月を眺めていた。だが東か昇ってきた月も、もはや西へ傾いている。
「…今まで、これほど先生を恨んだこともありません」
 政宗は呟くように、背後に立つ人物へと言葉を向けた。
 一人月に誘われるようにして部屋を出て来た政宗を待っていたかのように、庭に面した外廊には彼の師である虎哉が、優しげな微笑みを讃えて政宗を出迎えた。黒衣の仏僧は両目を伏せ、もう何時間も政宗の傍に寄り添っていた。
「全てご存知だったのですね。父上が死を直視していたことも」
「お察しの通り」
 虎哉は隠さなかった。
 輝宗は早くから彼にだけは自分と政宗の関係や、自分がこの世から失せた後の息子の身を相談していた。畠山の性格を知った上でこれを好機と取り、タイミングを計って政宗に家督を相続させ、そして目の前で死ぬことを選んでいた。
 最初、それを聞いていかに高尚と誉れ高い虎哉でも目を見開いて驚愕し、何とか思い留まらせようと説得を試みた。しかし、何度考えても輝宗はこれが最良と言って聞かなかった。
 自分の命と比べ、政宗が救われるのならばそれでいいと言う。自分は随分罪深いことをし、政宗から自由や意思というものをことごとく奪い取ってしまったことに対して彼はもう長い間奪ったそれらを返したかったというのだ。
「先代は何よりも殿を愛していらした。殿がそれを御理解しておるのなら、もうこれ以後嘆くことは許されませんぞ」
「はい…。喪服はもう止めました」
 言って、政宗は自分の姿を確認させるように背後の虎哉を振り返って見つめた。
 虎哉は満足そうに頷く。それを見てから再び正面の月を見上げると、しばらくして政宗は静かに口を開いた。
「先生、俺は…一体何処で過ったのでしょう」
 今歩んできた道が最良だったかと問われれば、政宗は否定する。
 足を止めて振り返れば、ここに至るまでの様々な分かれ道にもっとよりよい方向へ繋がる道が必ずあったはずだと思えてならなかった。輝宗が今回の決断をする前に自分自身がしっかりしていれば他の未来へ繋がったのではないかと政宗の考えは果てなかった。
 勿論、今来た道を戻れればと空想し、それにしがみついて泣き伏せるなどという愚かしい行為を彼はできない。してはならないのだ。絶対に。しかし、泣き伏せることはしなくても、疑問に思って答えを求めることはしなければならない。
 常に前を見て経験を糧に。おそらくそれが輝宗の望む自分だろうと、政宗は感じていた。
 どんなに直視したくない現実でも泣き伏せたい事実でも、凛として正面から受け入れ、そしてそれを糧にして二度と同じようなことがないように、それ自体を知識の一つとし成長し続けなければならない。
 何処か呆けているようで再び追い詰められているような政宗の発言に、虎哉はそっと彼の頭へ手を置いた。突然のことに政宗が肩を振るわせて驚く。最近は父親以外に頭など撫でられたことはなかったが、幼い頃は虎哉にもそうされていた。
 驚いて振り返った政宗へ、彼は目尻を緩ませて言う。
「過ちを観て斯に仁を知る。…良いか、殿。過ちを犯さぬ人間が一人でもこの世にいるとお思いか。否。そのような人間この世にいるわけがない。大切なのはそこに陥った際にどう動きどう考えるか。その動きによって人は自他の器を知るのです。確かに、今回の先代の英断意外にもよりよい道があったのかもしれない。しかし、今ここにこうして陥ったからこそ、今見事に立ち上がった貴殿が拙僧の目の前にこうして在る。過ちあればこその大器!…貴殿の進んできた道は最も過酷なれば、最も大きな器を成す道です」
 政宗の頭から手を離すと、虎哉は一歩後ろに下がった。
「正直、殿が再び前を向くかは大いなる賭けでした」
「でしょうね」
 政宗は自嘲した。
 何よりも、輝宗が亡くなった当初は間違いなく自分自身が立ち直れないと自覚していた。それが柚家に託された言葉で再び自分の足で立ち、前を向く。父親の言葉がなかったら既に壊れ果てこの世にいないだろう。
 自虐的な彼の笑みを見て、虎哉は続けた。
「殿。貴殿はこの地に降る雪同様、白く広大である。しかし外の地は貴殿が考え得るより何倍何十倍と汚れている。此度の事件はその象徴でしょう。人はそのような生き物なれば、貴殿もやがては泥となり汚れて行くだろう」
「俺は既にこの手を血で染め上げてきました。もう雪のような白さは微塵もありません。汚れ行くのに抵抗すら感じない」
 虎哉の例えに、政宗は首を振って否定した。
 一体何人殺してきたのか数えることもできない。嫌って避けてはいるが、血や肉に抵抗など既になくなってきていた。そんな自分を未だに白いと例える虎哉の意見など頷けるはずもない。
 しかし、政宗の応えに虎哉は声を上げて笑った。
「ほらご覧なさい。殿はたかが今回の一件が世の獄だとお考えだ!それこそが貴殿を雪と例える理由である。世は殿がお考えよりも腐り果てている。これではこの先もいつ崩れるとも分かりませんな!」
「…」
 虎哉の言葉に返す言葉もない政宗は、そのまま俯いた。
 覇者を目指して生きるということは、人間の醜い部分の底まで見て歩かなければならない。確かに小手森城の撫で斬りから始まった今回の一件は政宗の中に様々な人間の持つ汚い部分を見せ与えた。だが、これから先もっと多くの場面と出会うだろう。
 俯いていた政宗は、やがて顔を上げた。一瞬戸惑いはするものの、もう彼は迷わない。自分の足元には輝宗の死がある。いくら脅された所で、政宗は今ようやく立ち上がったこの場所から動くつもりは毛頭なかった。
「世が腐っているのなら、この身も腐らせるまで。雪などと例えられては迷惑千万!いくら先生とはいえ、以後口にする際はお気をつけ下さい」
 彼は肩越しに振り返ると、きっと真っ直ぐ虎哉を見上げた。
 その言葉を受け、虎哉は笑うのをぴたりと止めた。しばらく睨み返すように双眸を細めていたが、やがてふっと緩め、いつもの温厚そうな顔に戻ると軽く会釈をして政宗から離れると廊下を歩み出した。
 歩きながら、彼に聞こえるよう僅かに声を上げる。
「拙僧は世辞など申しません。殿は支えなくしてはおそらく汚れ行くこともできまい。先代に代わる新たな支えが必要なれば、次にこの場に来る者こそがその支え。…。…いや。もう長い間、彼の者はその役を担っていましたな。今更こういうのもおかしいかもしれません」
「…」
「誰かに縋ることと頼ることは違います。また、共に歩むことは依存ではありますまい。どうか深くご思案下され。人は常に半円。片割れが何処かに在るものです」
 誰を指しているのかは明らかだった。
 一度足を止め、肩越しに虎哉は彼の言葉に驚く風もなく腰掛けている政宗を振り返った。恭しく頭を垂れ、深く礼をする。穏やかな声がふわりと夜風に乗った。
「殿。此度の試練、本当に…よくぞ耐えましたな。貴殿のような高尚な方に学をお教えできることを、拙僧は光栄に存じます」
 それだけ言うと、彼は去っていった。
 政宗は下ろしていた両足を外廊へ上げるとその場に座し、両手を前に深く去りゆく師へと頭を下げ続けた。