宗里 >> 月下の涙 第二章其の弐 | ||
宗里が腕に留まったのを確認すると、政宗はくるりと背を向けて歩き出した。 「殿、どちらへ」 「部屋で書を読む」 「では私も」 小十郎がいつものように付き添おうとするが。 「来るな。一人でいたい」 小さく応えて払われた。 政宗が拒んだと同時に、宗里が小十郎へ威嚇をするように喉を鳴らした。基本的に政宗と飼育する者以外の人には無関心なこの鷹は、どういう訳か小十郎に対しては厳しい態度をとり続けていた。 おそらく、小十郎がその衣の下に抱えている何十もの薬の臭いが不愉快なのだろう。または小十郎が日頃そうであるように、若い主に対して無闇に他人を近づけたくないのかもしれない。 とにかく飼い主である政宗は宗里の嫌悪を知っているので、宗里を抱えている時は小十郎を傍に寄らせないようにしていた。言うことを聞くとは言え、何かを切っ掛けにこの鷹が本気になって嘴と爪を向ければ、人一人くらい簡単に殺せてしまうだろう。 「用事があったら来い。…そして成実は死ね」 「何だよ!」 今だ恨んでいるらしい政宗は手にした木刀を成実に投げて返すと庭から城内へと戻っていってしまった。 成実は木刀を受け取るとため息を付く。 「はー…。ったく、怒りっぽいっつーの、梵天は。あんな怒らなくてもさー」 「それができるのは成実殿だけですよ。では」 素っ気なく応え、小十郎も城内へと足を進め始めた。 「あれ?今梵天の奴来るなって言ってたじゃん」 彼が城へ戻ると言うことは、政宗の傍に控えるということだ。 「ええ。ですが、襖を挟めば宗里殿に突かれる心配もないかと」 「は〜…。相変わらず大変だな、側近って」 本当に、まるで影のように小十郎は常に政宗の傍にいる。 姿が見えなくとも主の行動を把握しているかのようであり、また成実を始め他の武将が政宗に用事がある時は必ず音もなく小十郎が部屋に歩み寄ってくる彼らの前に現れては、用件を聞き取り次ぐという徹底ぶりだった。 「梵天には小十郎がいなきゃ駄目だろうけどさ、疲れるだろ。たまには変わろうか?」 両手を頭の後ろに組みながら、成実が言う。 政宗の芯が脆いということは成実も既に承知だった。幼い頃から一緒にいる間柄だ。彼が、如何に小十郎が傍にいることによって支え保っているかは重々理解しているが、一年中日夜を問わずだと流石に小十郎が哀れに思えてくる。 だが小十郎は即答に等しい早さで、迷いなく彼の提案を断った。 「お心遣いだけ受け取らせて頂きます」 優々と一礼すると、彼は歩みを進めて自室に戻ったであろう政宗の後を追った。 言った通り政宗は自室に籠もり、小十郎は襖で挟まれた隣の部屋で長い間目を伏せて控えていた。時折、宗里が翼を広げる音と鳴き声が聞こえてくるが、それ以外の音は全く聞こえない。 静かで緩やかな時間を壊さぬよう現れた第三者の気配に、小十郎はふと目を開けた。 目の前の畳を見つめながら、意識は天井へと向ける。 「ご苦労。…報告をどうぞ」 独り言のような、唇を僅かに動かすだけの言葉に、天井裏の姿の見えぬ人物は頭を下げて言われた通り授かってきた言伝を伊達軍参謀である小十郎に告げた。 『鬼から影へ。本日未二つ時、畠山が大殿の住まう宮森城に訪問。殿との和睦に関して大殿の口添えのお礼と称して城内へ。今夜は宮森城に泊まる様子。宴の用意がされております』 「毒など大殿の食事に含ませぬよう、注意して見張るように鬼庭殿へお伝え下さい。それから同時進行で申し訳ありませんが、奥方様の方もお願いします。何かあったらすぐに伝えるように」 『御意』 ふっと、気配はやって来た時と同じく瞬時に天井裏から消え失せた。 伝令が消えたのとほぼ同時、隣の部屋で人が動く音がした。小十郎は再び目を閉じ、まるで今まで何事もなかったかのように目を伏せ、襖が開くのを待った。 すっと隣の部屋から政宗が襖を開けた。同時に小十郎はいつもそうしているように一つ礼をする。 「…今、誰かいたのか?宗里が気にしていたようだったが」 「いいえ、誰も」 彼の右肩に乗っていた宗里が戯れ言を見抜いているかのように小十郎へ威嚇をする。 そんな鷹の脇翼に手を添え、政宗はそれを落ち着かせた。彼が手を添えると途端に宗里は大人しくなる。 「ならいい」 短く言って話を終わらせるが、政宗はすぐに部屋に戻らずその場でしばらく佇んでいた。 「…小十郎」 「はい」 「茶を点てる。付き合え」 頭を下げたままの小十郎を見つめ、今思い出したような口調で言うと彼は小十郎の横を通って歩き出した。 軽く宗里の羽を撫でてから右手を払うように振ると、その肩から宗里は翼を広げて飛び立った。風を切る翼は堂々と左右に開き、空を切って飛んでいった。その様子を政宗は足を止めて見つめる。 「…あいつはいいな」 「宗里がでございますか」 「ああ。ああやって空を飛べれば…。…」 「どちらかへお出かけになられますか?」 「ん?」 何処かぼんやりとした表情の政宗に、後ろから小十郎が尋ねた。 振り返った政宗に畳みかけるように続ける。 「殿は翼があったなら何処へ行かれるのか。今は戦前とは言えお時間がございます。宜しければ馬を出しお供致します」 「…」 政宗は黙り込み、自虐的に口元を緩めて目を伏せた。 「…まあいい。行こう」 それを遮るように自ら言葉を止め、ゆっくりとした足取りで廊下へ出る主に従い、小十郎も部屋を出た。 着物を変えて茶室へ向かい、茶道を楽しむと毎日の日課としての書を数時間ほど読んでから寝床へ付いた。 最近は戦で忙しく、久しぶりに宗里を駕籠からからだろうか。一日中宗里を傍に置いてその翼を撫でていた。そんな彼が翌日に鷹狩りをしたいと言い出したのは自然なことだろうが、小十郎を始め側近の者たちは驚いた。 誰かに会いに行ったり交渉のために移動することはあるが、彼が自分で持っている時間に城外へ出ようとするのは珍しい。特に成実は嬉々として政宗の言葉に顔を綻ばせ、彼の背中をばんばん叩いて鷹狩りを勧めた。 調子に乗るその腹を政宗が容赦なく蹴っていたが、彼らのじゃれ合いを見て小十郎は微かに微笑んだ。 翌日。 いつも日が昇る前に一人起き出す政宗が、それより随分早く布団から出た。 まだ周囲が薄暗く城内の誰もが寝静まっているであろう時間に起きても、襖を開ければ手を添えて座っていた小十郎が深く頭を下げて迎えた。 「うあ〜。久しぶりだなあ!」 馬に跨り先頭を行くのは政宗ではなく成実だった。 そのはしゃぎようと言ったら子供のようで、彼の鷹である和月が馬に乗る成実の周囲を主と同じように嬉しそうに飛んでいる。対して政宗の宗里は大人しく主の肩に留まっていた。飼い犬は飼い主に似るという噂があるが、鷹も同じなのかもしれない。 小十郎に持ち鷹はなかったが、いつものように政宗の一歩後ろに控えていた。鷹ではないが、彼がいつも乗っている茶色い馬もまた主人に似て落ち着いており、目の前に槍を突きつけられたところで主人が一声かければすぐに平常心を取り戻すという度胸の据わった名馬だった。彼の他にも数人の部下が必要最小限の装備で追ってきている。 まだ朝日が昇ったばかりで、周囲は霧が覆っている。 そこまで酷くはない。やがて天道が高くなると同時に薄れていくだろう。少々肌寒いが、一枚多めに着てきた成実と違って政宗はいつも通りの薄着だった。 「お前さ、それ寒くないか?」 「少し寒い」 「上着をお出ししましょうか」 小十郎が言うが、首を振って拒む。 「日頃から薄着でいる方が、身体が丈夫になるぞ。お前はちょっと着すぎじゃないか?」 「んなことないだろ〜。これが普通で、梵天が異常に薄着なんだよ」 「…」 「いで!…う、うわ!?」 背に背負っていた矢を一つ手に取り、政宗が成実に向けて投げつけた。 バランスを崩して馬上から転がり落ちそうになる成実を助けることもなく、政宗はその横を通過して集団の先頭に立った。後ろから来た小十郎に助けられ、何とか成実は手綱を握り直す。 その頃には政宗は先に進んでしまっていた。黒馬の尾が彼を馬鹿にしたように揺れている。 様宗の態度にムッとし、馬を走らせて成実はその後を追う。 「おいこらァー!酷すぎるぞお前―!」 後ろからスピードに乗って政宗の横を通り過ぎ、飄々とした後ろ頭を叩いてやろうと思っていた。 だが、気配を察した政宗はすっと頭を縮めてしまう。 「阿呆」 「うおあッ!?」 結果、空を切った成実の身体は体重が左へ傾いていたので、冗談抜きで落馬してしまった。 前方に倒れた彼を踏まないよう、黒馬の手綱を引いて政宗は止まらせる。 「いってー…」 「…お前って本当に馬鹿だよな。昔から」 呆れてものも言えないという顔で政宗がため息を付いた。 「うるせえ!」 「泥が顔に付いてるぞ」 「あ?」 だがしばらくすれば、彼の呆れ顔は苦笑に変わる。 成実は自分の頬に手を当てて泥を払おうとするが、返って面積を広げてしまって余計に彼の顔は泥で染まっていってしまう。 左拳を口元に添え、その様子をくつくつと政宗は笑った。彼も成実も、その様子は年相応の若者らしい仕草で、戦地などで殺伐と大人びている二人と同一人物には見えなかった。 鷹狩りは、政宗が自然に振る舞える数少ない時間の取り方だ。城内では誰が見ているか分からないので、自室を除く全ての部屋にいる時は気を張らなければならない。戦も勿論同じようだが、鷹狩りは数人の親しい家臣だけを連れて行う。 城外と言うこともあり、無理を装ってはいなそうだ。もっと鷹狩りの回数を増やせばいいと思うのだが、どうしても内向的な政宗のこと。なかなかそのようにはいかないのだ。現に政宗が笑うのを小十郎は久しぶりに見た。 彼が微笑むのは父親の前だが、笑うのは成実が傍にいる時が多い。 ひょっとすると、常に傍にいる自分よりは成実の方が彼の喜怒哀楽を多く見ているかもしれない。 そんなことを考えていた小十郎の数歩前で、政宗と成実は何かを相談していた。成実が奥の森へと指を向けている。 「小十郎、俺らあの辺行って来るからな」 「ええ。分かりました。私も後からゆっくり、お二人の邪魔にならないよう参りましょう」 「別に休んでいてもいいぞ」 成実の横で、政宗が言う。 苦笑はすでに引っ込めてしまっていて、いつもの表情だった。 「朝っぱらから付き合わせたしな。いつ頃から起きていたんだ?」 「ん?梵天、お前今日は何時に起きたんだ?」 「四時」 「よぉーじぃー!?」 大袈裟に成実が身を引いて驚く。 政宗は今の発言が何故彼を驚かせたのか分からないようで、髪を耳にかけながら頭上に疑問符をいくつか浮かべ、首を傾げた。 「だって城出たの六時だぜ?それまで二時間何してたんだよ!」 「別にいつもと同じだが…」 成実は知らないかもしれないが、政宗は起床すると共に水を浴び、一時間書を読むことを習慣づけている。 長年続けてきたせいで、それは彼にとって顔を洗うとか着替えるといったような基本中の基本に位置していた。今日は鷹狩りで早く出かけると決めていたため、ただそれらの時間を取れるように早く起きただけだ。 「早すぎ!」 「だが、小十郎は起きていたぞ」 同意を求めるように政宗が小十郎へ視線を投げる。 彼は会釈してそれを肯定した。 「前々から言おうと思っていたが…。お前は少し俺を心配しすぎじゃないのか?」 「あー。それは俺も思う」 政宗の言葉に成実も同意する。 「幼い頃は不安定だったが、もう大丈夫だ。おぞましい右目も切り取り、こうして刀鍔で隠せる。お前のお陰だ。俺もあの頃より随分落ち着いた。あまり心配せず、もっと自分を優先して欲しい」 「有難うございます」 感情のない声で恭しく小十郎が頭を下げる。 だが、その行動に言動の改めはあまり望めなさそうだ。 淡々としている彼の声はこれまでと全く変わらないし、自由にしていろと言っても政宗の傍について回る小十郎だ。その忠義は硬すぎて、政宗が言うように自分を優先するのはなかなか難しいのかもしれない。 政宗はため息を付き、宗里の留まる左腕を軽く振った。大きな翼を広げて宗里が彼の腕から離れ、その周囲を飛ぶ。 「行くぞ、成実」 「おーっす」 二人の若者は二匹の鷹を周囲に、先を争うように駆け出した。 その後ろ姿を小十郎は静かに見つめていた。 「いやはや。若さとはまさに宝だな」 その後ろから、かなり集団とは遅れて虎哉がやってくる。 自分の寺と城を行き来するだけのこの僧が自ら政宗に付き添って鷹狩りなど、珍しいことこの上なかった。最初はマイペースな彼を気遣って政宗を始め他の者たちは移動していたが、そのうち彼の方から先に行っていいということを何度も言われ、気にしながらも一同はいつものスピードで進んできていた。 あっという間に馬を走らせて遠くなっていく二人と、それを追っていく家臣達。 野原に残されたのは小十郎と虎哉だけだった。 「虎哉様、お身体の方は大丈夫ですか」 「確かに貴殿たちより一回りも二回りも年老いているが、そこまで老人になったつもりはない。まれの散歩だ。楽しませてもらっているわ」 政宗から譲られた馬の首元を撫でながら、黒い法衣で虎哉は微笑んだ。 小十郎は政宗を囲む周囲の注意力を削ぎはしないが、今日は彼の傍よりこの僧の傍にいることを決めていた。それが政宗の意思だと分かっていたからだ。口に出して命令されたわけではないが、彼は師である虎哉のことを気にかけているようだった。 「拙僧らは鷹など持ち合わせぬが…。さて、片倉殿はいつも何をしておるのかな?」 「私は何も。ただ殿の傍に控えてるのみでございます。後は…。そうですね。草花を楽しんだり空を眺めたりでしょうか」 「大いに結構。移りゆく自然の四季折々を感じることは何事にも勝る学びなれば」 虎哉は手綱を引き、小十郎の脇を通って前に出た。 ゆっくりと政宗達が消えた方向へ進む彼の後を、小十郎は普段政宗にそうするように表情も無駄口もなく従ったが、その内心は複雑だった。 一体何故彼が鷹狩りなどに出て来たのか。 ただの気まぐれにしても、この僧の性格からして一人で出かけるだろうと思っていた。それが外出の準備をしていた政宗に気付いて同行するという不思議な行動に出た。あまり理由のない行動を取るような男ではない分、何か不吉な予感がしてならない。 「…」 まさか虎哉が政宗を裏切るようなことはないだろうが、そうであったら…。 小十郎はすっと視線を落とし、胸に片手を添えた。 彼の腰には他の者がそうしているように脇差が差してあるが、実際、瞬時に使うものと言われれば露骨な刃物などよりも掌より少し大きいほどのクナイだった。それは絶えず彼の懐に収まっている。それだけではなく、薬の類も毒薬良薬問わず何種類も常に持ち歩いていた。 忍顔負けの薬学と冷徹を身につけている小十郎は一度決意すると躊躇いがない。長年政宗を支えてきた虎哉や今一緒に鷹狩りを楽しんでいる成実が裏切るようなことがあったとしても、彼はその心臓にクナイを打ち込むのをほんの一瞬も迷わないだろう。 いや、虎哉や成実といった身近な者であればあるほど、恐らく遠慮などしない。政宗の目や耳に情報が届かぬうちにその存在を忽然と消してしまうことが、小十郎にとっては好ましい。政宗が彼らの裏切りと死に耐えられる可能性が低いのを、重々承知しているからだ。 「片倉殿。参ろうか。あまり殿と離れるのもまずかろう」 「ええ」 振り返る虎哉に微動だにせず、小十郎は従った。 |
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