宗里 >>   月下の涙 第二章

 翌日の午前中帰る予定だったのが、輝宗の傍に一分一秒でも長くいたい政宗が理由を付けて渋り、何だかんだで城への帰省は昼過ぎになってしまった。
 昨晩のことがあってか、輝宗自身は朝食後の散歩を政宗と一緒にしただけで、昨日に比べると常に傍にというわけではなかった。だが政宗の方からすれば、同じ城内にいるだけでも満足という始終陶酔した状態だった。
負の感情以外を顔に出すことが苦手な彼の幸福感は僅かな者しか気づけないが、実質的に縮まった輝宗との距離は、ここ一年ほど父親から離れて一人戦ってきた政宗にとってこれ以上ない至福の時だった。
「それでは、私は城へ戻ります」
 黒馬に跨り、伴を引き連れて城門前で政宗は送りに来た輝宗に頭を垂れた。
「ああ。道中気を付けなさい、何があるか分からないからな。畠山殿たちのこと、考えておいてくれ」
「分かりました。他ならぬ父上の言葉、最善を尽くしましょう」
「…」
 迷いのない切り返しに、傍で馬に乗っていた小十郎は微かに視線を若い主へと動かした。
 城に戻ってから見当すると言っていたが、どうやら輝宗に頼まれた時点で彼の中では結論は出てしまっているらしい。大内はどうだか分からないが、まず間違いなく畠山の謝罪は受け入れるつもりだろう。
 どのように説得しようかと早速思案する小十郎に、輝宗が顔を向ける。
「小十郎、政宗のことを頼むぞ。まだ危なっかしい所があるからな」
「畏まりました」
 静かに頭を下げる従者に安堵し、先代を務めた男は優しく微笑んだ。
「風に乗って流れてくるお前の武勇を楽しみにして、私はここで待っているよ。忙しいだろうが、また時間があったら来なさい。いつでも歓迎しよう」
「ええ。伊達の名に恥じぬ功績をお届けしましょう。…それでは」
 名残惜しそうに丁寧に頭を下げてから、政宗は馬を進ませた。
 彼らが肉眼で見えなくなるまで輝宗は門の前に側近と立って見送ってくれ、それがとても嬉しかった。
二度三度と小さくなる城を振り返る政宗に、小十郎が馬を近づけて囁くような小さな声で告げる。
「殿。大内、畠山両名のこと…」
「さっき父上に言った通りだ。畠山のみ許すことに昨晩決めた」
 小十郎の方を見向きもせず、前だけを見つめて政宗が応える。
「お考え直しを」
 予想通りの言葉に、小十郎は表情一つ変えず再考を勧めた。
 だが政宗は聞かない。彼の中で寡黙な側近と父親とを天秤に掛ければ圧倒的なまでの差を付けて瞬時に輝宗の方へ傾く。それに、政宗の意思を尊重する彼が今回のように助言や頼みという風に政宗に言葉を贈るのはとても珍しく、それを光栄に感じていた。やっと一人前と認められたような気がした。
「聡明な父上が許した畠山だ。伊達家の持つ慈悲を俺が持っていないと周囲に思われるのは勘に障る。この間の小手森城で、俺には鬼畜生の肩書きが着いたらしいからな」
 何を言っても無駄だと言うことを、小十郎は悟った。
 彼は政宗が自分に寄せている信頼を自覚していたが、その彼の信頼の更に上に位置する人物が世の中に二人いる。虎哉宗乙と、そして父親である輝宗だ。
 両者とも素晴らしい人物で小十郎と意見が食い違うことは珍しいが、だからといって決してないわけではない。食い違った時、政宗は身の回りを整える小十郎よりも師である虎哉。虎哉よりも尊敬すべき父親である輝宗の意見を重視してしまう。
「…」
 小十郎は手綱を操り、馬を止めた。
城を出て輝宗の宮森城へ向かう時も一人後から来たように、彼のそういった行動は珍しいことではなく、政宗と他の者は気にせずに馬を進めていく。
「…鬼庭殿。いらっしゃいますか」
 やがて彼らとだいぶ距離を取ると、小十郎は政宗達を見つめながら忍の名を呼んだ。
「此処に」
 ザッと一陣の風が吹き、小十郎の斜め後ろに今まで付かず離れず政宗の傍にいた鬼庭が片膝を発てて控えた。相変わらずその姿は美しい少年の姿だが、振り向かない小十郎はそれを確認しない。
元よりどうでもいいことだ。彼にとっては外見がどうであれ、鬼庭と言う忍の技を持つ人物であれば少し前に彼の中でブームだった老人だろうが少年だろうが何でもいい。
「申し訳ありませんが、このまま宮森城に残ってください。大殿と畠山の交友がどのようなものなのか気になります。殿が畠山に許すと言えば、必ず改めて大殿に感謝を述べに来るでしょう。どのような様子か見張ってもらってよろしいですか」
「御意」
 気配はすぐ小十郎の背後から消えた。
 振り返ると誰の姿もなく、澄んだ風が吹くだけだった。
 遠くに今出て来た宮森城が見える。
輝宗は優しすぎる。あの慈悲が悪い方へ転ばなければいいのだが…。
 不安そうに一度だけ瞳を揺らし、小十郎はまた表情を消すと政宗の後を追った。


 自城へ戻ると、政宗はすぐに小十郎に言って畠山に文を送った。
 その内容は輝宗の助言とこちら側へ付くという賢い判断を讃え、今後は伊達の元でその力を振るって欲しいというものだった。ただしそれには条件が付き、領地の大半を献上することと匿った大内をまず差し出すことだった。
 了承はしたものの苛立ちが僅かに残る政宗の言葉を、小十郎が丁寧な文字と礼儀を加えて直し、届けられた。返事は早く、数日で畠山の感謝と忠誠を記した文が戻ってきた。
 畠山の二本松城を落とそうと用意をしていた伊達軍はその準備を一時止め、標的を畠山から佐竹、蘆名の二名への戦へと向けて新たに策を練り、畠山とはまた別様の準備を始めていた。
 もう間もなく畠山を落とすという雰囲気が漂っていた城内には、打って変わって比較的穏やかな時間が流れていた。
 そんな時間の合間に、小十郎は政宗の師、虎哉の部屋を訪れていた。
 五十を過ぎた仏僧は小十郎と同じく常に冷静な男だったが、唯一違うのはその顔に常に柔らかい笑みが浮いているというところだった。無表情が基準の小十郎と比べると優しげに見えはするが、実際の所はそうでもない。
政宗のことに関して言えば、彼の担当分野は学問であるはずだが私生活の面でも随分と口を出し、従順な小十郎と違い虎哉の方が厳しい躾方をしていた。幼い政宗は涼しい顔をして彼の容赦ない説教を受け、後々小十郎に泣きついてくることも多かった。
元より仏僧。広い視野と歪みのない信念を持っている。それにこの辺りでは名の通った人物だった。引く手数多に我が子の師にと依頼が舞い込んでくるのを断り続けていたが、輝宗が直々に彼に会って政宗の身の上と現状を述べ、ようやく了承を得たのだ。
以来、彼と政宗の師と徒の関係は長い。政宗に期待をしているからこそより高い教育と教養を彼に叩き込んでいるというのは、小十郎や他の家臣だけではなく政宗自身が理解していた。彼は幼い頃から虎哉にありとあらゆる学問を吸収し続けている。彼にとっては第二の父親であると言ってもいい。
今回の彼の判断に対する第二の父親の意見を、小十郎は聞きたかった。
「虎哉様はどう思われますか」
 障子を開け、庭を見つめている虎哉の背に座っている小十郎は尋ねた。
 佐竹、蘆名、大内、畠山。それに対する政宗の判断。彼がここ最近主の傍で見てきた状況そのままに虎哉に伝え、彼の判断を仰ぐ。
「私は今回の畠山の吸収、不安で堪りません。例え大殿の助言があったとしても、もう少し慎重に考えるべきではないかと思うのですが」
 畠山はどちらかと言えば、今まで佐竹蘆名側に傾いていた将だ。今回立場をはっきりさせたとは言え、先にあちら側と連んでいるとしたら爆弾を家臣内に抱えることになってしまう。情報など筒抜けだ。非常に危うい。
できれば虎哉にも頷いて欲しかった。だが…。
「それが殿の判断なのであれば、宜しいのではないだろうか。拙僧は反対致しません」
 予想していたものとは違う答えが返ってきて、小十郎は意外だった。
「この間送った文には大内殿の件と領地の件、両方承諾していたのだろう?ならば殿にとっては利益。それに、例え反対すべき理由があったとしても、先代である輝宗様の助言があったとすれば…。殿はもう拙僧や貴殿が言っても無駄であろう」
「それは…。確かにそうですが…」
 虎哉という人物は、小十郎が珍しく身近に感じる人物だった。冷静な言動には何処か共感を覚える節がある。思考も似ているのか、ほとんど意見も合致してきていた。
 そんな彼が、今回のことには肯定派だった。
 流石に周り全てがそうだとなると、小十郎もこれは自分の考えすぎなのかと思ってくる。
「心配するでない、片倉殿」
 珍しく俯き考えを巡らせる小十郎に、虎哉は庭から視線を彼へと移して微笑んだ。
「此度の件、上手くいけば殿の…。ひいては我が軍にとって大いなる好機となるだろう」
 などと言われても、明白な理由がなければ納得などできない。
 顔を上げて、その理由を尋ねようと小十郎は前に出た。
「虎哉様の頭の中には一体どのようなお考えがあって…」
「うがああああーッ!」
 尋ねようとした直後、虎哉の肩越しに一枚の絵が切り抜かれているように見えていた庭の右から左へ、稽古でもしていたのか着物の上を腰へ下ろし、上半身裸の成実が冷や汗を流しながら全速力で何か悲鳴のようなものをあげて駆けていった。
「…」
 次いで、数秒の間もなく木刀を片手に握った政宗が眉を寄せて無言で追っていく。しっかりとその表情には怒りが宿っていた。

彼の後ろを更に追うように一羽の立派な白鷹が翼を広げて付いてきていた。羽ばたいて政宗を抜かしては風に身を任せ、その後ろに下がって再び羽ばたく。
「ぁあもう!悪気ねえっつってんだろー!しつこいんだよ!!」
 二人の姿はあっという間に見えなくなるが、成実の声だけは以前と聞こえていた。
 一体何があったのやら。その光景を目にした途端、一瞬前まで考えていた言葉や思考が全て小十郎の頭から抜け出て何処かへ霧散してしまった。
 彼と違って虎哉は二人の姿がなくなってから庭を振り返ったが、小十郎の表情を見て何が透ったのかを大体予想した。第一成実の声は彼にも聞こえていたし、ああ見えて勇士であり誰からも一目置かれる成実が、そんな声を上げる時にその後ろを追いかけているのは一人しかいないものだから予想も何もないのだが。
「今の声は成実殿ですな。また殿のお気に障ることでもなさったのだろうか」
「後を追っていらっしゃったようでした」
 淡々と小十郎が状況説明をするのに対し、虎哉は笑みを更に深くした。
「成実殿の存在は貴重ですな」
「ええ。本当に」
 遊び相手という意味での発言だろうが、昔から彼らの行動はパターン化しており、書を読んだり詩を詠んだりと、茶を点てる時以外は一人で時間を費やしている政宗に意図せず成実が何かをしでかし、それを怒って稽古さながらの格闘になることが多い。
成実にとっては哀れな配役だったが、確かに貴重な存在である。彼がミスしなければ誰も政宗の私的時間を奪おうとは思わず、一人で一日を過ごしてしまう。成実がいれば他の家臣達も何事だと寄ってきては苦笑したりする。
 彼らが消えた方を気にしている小十郎の顔を見て、虎哉は言葉でその背中を押した。
「成実殿が殿に潰されないうちに止めに行かねばなりませんな、片倉殿」
「ええ。では、私はこれで」
 一礼してから、小十郎は急いで部屋を出て彼らの元へ向かっていった。
「さてさて。吉と出るか凶と出るか…」
 意味深な呟きを残し、虎哉も筆を取りに自室を出て行った。


 小十郎が二の庭へついた頃には、もう勝負は付いていた。
 苔の上に成実がうつ伏せに横たえ、その背に片足を乗せたまま木刀を近くの地面に突き刺し政宗が立っている。両者とも相当走ったのか、息が上がっていた。特に成実の方は目に見えてぐったりしている。
 小十郎が彼らの傍に寄ろうとすると、二人のいる近くの松の枝に留まっていた鷹が整った鋭い嘴を開いて一声甲高く鳴いた。新たなる来訪者を主に告げるような一声に、政宗も成実も顔を上げてやって来た小十郎を見た。
「こじゅうろ〜…。だずげで〜…」
 情け無い声を成実が上げる。
「ぼんでんが…ぼんでんがいじめ…」
「うるさい」
「いでっ。いで、いて…、痛ぇって!」
 げしげしと背中に乗せている足を数回踏みつけ、成実が声を上げる。
 小十郎は半ば呆れながら二人の傍へ歩いてきた。
「一体どうされたのですか」
「別にお前が出てくるような事じゃない」
 さらりと政宗が小十郎を蚊帳の外へ出そうとする。
 彼が入ってきてしまうと政宗はこれ以上成実を追い込むことなく抑えられてしまうのを経験から理解していた。確かに最初は半ば本気で怒って追いかけるのだが、最後の方になるとそれなりに楽しくなってくる。ただ、それを言葉にできないために、早めに止めに来る小十郎を疎ましく思うのだ。
「さっき俺が一人で稽古してたら間違ってその木刀が手からすっぽ抜けちまってさ、それが丁度ムネサト出してた梵天の背中に当たっちまったんだよ〜」
 泣き真似をしながら成実が言う。
 それを聞いて政宗は思い出したのか、不愉快そうに顔を歪めてもう一度成実の背中を踏みつけた。
「木刀が手から滑ったなんて嘘を誰が信じるか。どうせ狙ってぶん投げたんだろ」
「だーかーらぁ、狙ってねえっつーの!たまたま!偶ぅ然!自意識過剰だっつーの!」
「速攻で逃げておいて何がたまたまだ。普通謝るだろ、偶然だったら」
「だってお前謝っても許さねぇし、第一速攻で追いかけてきたのそっちだろ!?」
「…お二人とも、もうそれくらいで」
 二人の遣り取りを見て、小十郎は一度音のない息を吐いてから両手を軽く上げて二人を制した。
「成実殿は木刀が手から滑ったとか…。そのようなこと、戦場であってはなりません。注意力が散漫しているとみえますね。しかもそれが殿の背にとあれば、殿のお怒りごもっとも。今後はどうかご注意を」
「へ〜い」
 あまり真面目な返事は返ってこないが、取り敢えずは納得してくれたらしい。
 成実が、政宗の言ったようにわざと背中を狙って投げつけるような人間でないのは、言っている本人である政宗も小十郎もよく分かっている。本当に偶然だったのだろう。それが政宗にとっていいじゃれ合いの口実だったというだけだ。
 成実から、今度は政宗へ視線を移す。
「殿」
 彼にはただ単語を一つ浮かべるだけで、特に何も言わなかった。
「…分かってる」
 政宗は退屈そうに小十郎の言いたい通りに、成実から膝丈まである革靴に包まれた足を退かせた。片手を細い腰に添え、拗ねたようにつんと横を向いた。
足元でやれやれと成実が身体を起こす。外気に晒していた背中はすっかり政宗の靴の裏で汚れていたが、傷にはなっていなかった。
「はー…。いってぇなぁもー…」
「お前が悪いんだろ」
「へいへい。ごめんなさぁい」
 砂利のついた背を払う成実の前で、政宗はその場にいる二人を無視して松の方へ視線を移した。
「宗里、来い」
 バサッと松の枝に留まって傍観していた鷹が優雅に翼を広げ、政宗の元へやってくる。
 鹿の革で作り上げた指掛けをはめた左手を軽く上げると、宗里はそこに留まり鋭い金色の目を瞬いて成実の方へちらりと視線を移し、興味を持ったのか彼をしばらく眺めていた。
 政宗が目を掛けている宗里と名付けられた鷹は、文句の言いようのない名鷹だった。先の曲がった鋭い嘴と爪を持っており、通常の白鷹の翼が少し灰色がかっているのと違い、雪のように白い翼の中に主の髪とよく似た茶色い羽が美しく織り込まれている。
 そもそもこの宗里は輝宗から、彼が十になった際に贈られた品物だ。家臣や身内の縁を大切にする輝宗が一際可愛がっている彼に贈られるものが、そんじょそこらで簡単に手に入るようなもののわけがない。
 まだ輝宗について回って戦に出始め、帝王学を学び始めた頃だ。殺伐とし始めた日常の間に僅かにある自由な時間を父親と過ごすことを好んだが、輝宗の都合が合わないとその代わりとでも言いたげに宗里を抱えて過ごしていた。
 庭に立つ彼の姿は、それは幻想的な光景だった。人に会うのを良としないため早朝か夕時しか散歩をしない彼の肩で、弱い天道の光の中肩に止まった宗里が時折羽ばたき、遠巻きに覗くとまるで背から翼が生えたようにも見え、時折「天狗のようだ」と囁く者も多かった。災いを知らせると言われる天狗だが、政宗の姿はどちらかと言うと神々しい。
 彼は今も一人の時間を大切にするため他人と時を過ごすことはあまりないが、父親から送られたこの鷹を今も時間があれば駕籠から出し共にいることが多かった。宗里を出したからといって何をするでもなく、相変わらず書を読んだり剣を振るったりというものだが、気高い宗里は邪魔にならない程度に主の傍にいる。その控えめで忠実な姿はたかが一匹の鷹が一人の家臣のようにさえ思えた。