崩壊後編 >> 月下の涙 第三章 | ||
小十郎の読みの通り、義継達はあの状態のまま高田ヶ原の河原に来ていた。 いつまでもしつこく付きまとってくる輝宗の家臣達は今やその手にする武器を刀や槍よりも鉄砲に変え、何度か義継を狙おうとした。だがそれに気付いた彼は輝宗の背後に隠れるように位置し、終いには自分は元より家臣一人にでも傷を付けたら殺すとまで言い出した。 そうして河にかかった橋を渡り、家臣一人を橋の中央に置いて追ってくる連中を足止めさせるとようやく自分と一団の切り離しを成功させていたところだった。 「そこで大人しくしとれ!は、はは…。ははははは!!」 「この畜生が…!」 日頼が唇を噛んで吐き捨てるが、虚しいだけだった。 彼らと義継とを挟んで流れている河は今や夕日に赤く照らされ、不吉にも血の色に見えた。嫌な苛立ちだけが積もりに積もっていく。このまま義継を主とする畠山の領地にまで輝宗を連れて行かれたら、間違いなく彼は殺されるだろう。伊達の領地にいる今のうちに何とか救い出さねばと思っていても、手も足もでない。 苛立つ日頼の末陣にいる部下の一人が、遠くから聞こえてくる蹄の音に顔を上げた。 その音はあっという間に大きくなると、周囲はざわめき始めた。 「な、何じゃ…?」 「誰だ。畠山の援軍か?」 義継も日頼達も両者ともに覚えはなく、戸惑う。 音は今彼らがやってきた高田ヶ原の小山の麓から聞こえてきた。遠目に見えるのは黒い馬ということだけ。その乗っている人物の姿までは見ることができない。 だが声を聞けば誰もが彼を理解した。 「父上―!!」 「その声!若様か!?」 「何…!?」 一同の視界の先から、黒馬に跨った政宗が颯爽と飛び出した。 河を挟んで睨み合っていた日頼よりも前に出ると、馬が前足を上げて嘶き、止まった。 足元を整えるように僅かに動く黒馬の鼻先を対岸の畠山に向け、まさに鬼の形相を必要最小限の鎧しかない無防備な姿で睨んだ。駆けてきた際に乱れた髪と上がった息を整え、何とか怒声を発する。 「畠山あっ!貴様これはどういう……!!」 相手を睨んで初めて、殺気立っていた政宗の目に遅れて現状が飛び込んできた。 対岸にいる輝宗の首に、鋭利な刀が添えられている。小十郎から捕らえられたとは聞いたが、このような状況は彼の頭の中に想定されていなかった。 それに気付くやいなや、人には分からぬほど僅かに政宗は震えた。 「ち、父上…!」 苦しそうに政宗が顔を歪めて輝宗を見る。 まるで自分の首元に刃を突きつけられているような錯覚すら覚え、喉元を押さえたくなる。…いや、もし輝宗が助かるというのなら代わりに自分の首すら差し出しても構わないとさえ、瞬時に政宗の頭の中で交換条件を提示する案が浮かぶ。 背後にいる輝宗の家臣達はその表情の変化は分からなかったが、正面にいる義継を始め彼の部下達は今手元にある輝宗という駒がどれほど偉大な武器であるかを再認識した。 この若者は鬼だ畜生だと呼ばれているが、流石に父親は見捨てられない様子だった。 一瞬彼の登場にひやりとしたが、どうやら心配はなさそうだ。彼もまた輝宗の家臣同様、手が出せないだろう。 「これはうら若い伊達当主殿。今回のお許し誠にありがとうございます」 馬鹿にした口調で義継は深く頭を下げて見せた。 「ですが、生憎我々畠山は佐竹殿達の元へ着くことを決めさせて頂きました。つきましては貴殿の父、輝宗殿の首を本日の土産にさせていただきたく思います」 「首!?馬鹿を言うな!その汚らわしい手を父上から離さんか!!」 「それは無理というもの。はははは!」 高らかに笑う義継を睨んでいる政宗の背後から日頼が進み出て、状況を説明した。 「お帰りになる際に突然殿の首に刃を突きつけ、逃亡を謀ったのです。殿は喋ることも許されず、手出しもできず、しかし諦めもできずここまで…。我らが不甲斐ないばかりにみすみすこのようなことに…!」 心底悔しそうに言い、日頼は俯いて手にする鉄砲を握りしめた。 彼の報告を聞いて政宗は愕然とする。 「小浜の城からここまであのような扱いで…」 その事実は衝撃的だった。 彼の中の輝宗は本当に気高く高い場所にいる人物だ。時折息子である自分すら近づくのも恐れ多いほどだった。将軍である秀吉や天皇、それらと並ぶほど彼の中では尊ぶべき人物。それが刃物を突きつけられ、人質に取られている。 畠山の愚行は許せる範囲を果てしなく逸脱し、もう対応の仕方が分からない。頭の中は雪原のような純白に染まっていた。考えが全くまとまらない。 「そんな…。そんなことがあっていいはずが…。父上、そんな…」 じわじわと外面が削り取られていく。 許されるのなら今すぐにでも頭を抱えて泣き喚き、畠山に縋ってでも父親の開放を願いたい。佐竹へでも蘆名へでも勝手に寝返ればいい、だから輝宗だけは。そういう心境に陥っていた。 油断すると、手綱を持つ手で自分の両耳を覆って俯きたくなる。しかしそんなことをしては余計になめられるだけだ。分かってはいても、衝動的に縮こまりたい。 何としても父上だけは。 何よりも大切な父上だけは。 彼の頭の中に広がる雪原は理性や思考や損得全てを覆い、もはやその美しさに混乱していた。 冗談抜きで考える。自分の首を差し出そう。だから父上だけは助けてくれ。 「…畠山。待ってくれ。頼む…待ってくれ」 ふっと政宗の顔に部屋にいる時に見せる弱々しい悲哀の表情が浮かぶ。 彼のその声は小さすぎて一番傍にいる日頼すら聞こえなかった。熱く早く脈打つ心臓で声すら出ない。ひゅぅひゅぅと乾いた息が喉の奥から漏れる程度だった。呼吸も心臓に遊ばれ制御できずにままならない。 「は、畠山…!」 縋るような表情で、政宗は顔を上げた。 飛び込んできた時とは打って変わって汐らしい表情に、義継は違和感を覚えつつ耳を傾ける。また何の罵声が飛んでくるだろうと余裕を持って聞こうとしているが、政宗の口から出ようとしている言葉は有り得ない交換条件の提示だった。 「どうか…、どうか父上を離してくれ。もし父上を離してくれるのならば、代わりに俺のく…」 禁忌の一言を言おうとした時。 「なりませんッ!!」 周囲を揺るがすような際立った大声だった。 その声に対象である政宗どころか、日頼や義継、その他その場にいる全ての者たちが身を震わせて驚く。 声の主は、後を追って来た小十郎だった。 「梵天!」 小十郎よりも先にこちらに走ってきていた成実が空かさず政宗の傍に駆け寄るが、その間に視界に入ってきた輝宗の姿に彼もまた驚愕した。そしてそれが如何に目の前の政宗の精神を追いやっているかすぐに察する。刃物を添えられている輝宗の姿を見れば、今の政宗がとんでもないことを言い出しそうになってしまったのも頷けた。 「落ち着け。大殿は大丈夫だ、絶対助ける」 「…」 「あの野郎、大殿に刃なんか添えやがって。許せねェ!」 まるで怒りを成実が継いでくれたように政宗の中から感情が一つ落ち着いた。 残ったのは哀しみと不安。今にも崩れそうな表情で政宗はようやく側に来た成実に安心して素直に俯けた。 小十郎も遅れて政宗の傍に来る。彼は顔を上げた政宗をきつく睨みつけた。 「今のお言葉はなりません。今の伊達家当主は殿、貴方様です。お父上ではありません」 「小十郎…」 今度は小十郎が傍に来ることによって理性が戻ってくる。 一瞬前発しようとした言葉が、如何に危険で馬鹿げた発言なのか今自覚する。小十郎の言う通り、今の当主は政宗自身。順位を付けるのならば決して輝宗よりも軽視してはならない存在だ。 「しかし、この状況は痛い」 今の状況を冷静に見回し、小十郎は呟いた。 隣で成実も同意する。 「何で手を出さないんだって思ったが、こりゃ確かに無理だ。迂闊に手なんか出せないな」 「かと言って時間が経てば逃げられるのは目に見えております。早期の解決を何とか…。…殿」 馬上で額に手を添える政宗に、小十郎は無感情な声を掛けた。 ここまで全速力で駆けてきた彼は軽い貧血を覚えていた。軟弱な身体と笑う者もいるだろうが、乗馬で駆けるのは相当な体力を消費する。加えて刃物を添えられている輝宗を目の当たりにした。 たった数分でも、彼にとってはここまでの乗馬よりも一気に疲労を与える光景だった。そこに今度は側近の二人が追いついて急に心境が落ち着く。めまぐるしく変わる心持ちに疲れて貧血になるのも無理はない。 「大丈夫だ」 片手を軽く上げ、傍に寄ろうとした小十郎を制する。 今彼が自分を気遣うようなことをしてそれを義継に見られたら、こちらの疲労を察知される。あの様な卑劣な手を使い逃亡を謀る相手に目下に見られるのは許せなかった。 意図せずプライドが彼の中に戻ってくる。 何としても輝宗を救い出し、逃げられずに義継を殺す。 ちらりと背後に目をやると、輝宗の家臣達はその手に手に鉄砲を持っていた。これで狙えば一発。だが、義継は輝宗を盾にするように立っているためこの策は取れない。もし針の穴を通すように百発百中を誇る名手がいれば別だが。 輝宗は人質であり、それ自体が義継にとっては最強の盾。盾は自分の領地に戻るまで手元から離そうともしなければ、壊そうともしないだろう。変な話、刃物を突きつけられていようが義継自身が危ない状況にあればあるほど、輝宗の安全は確保される。 だとしたら馬で直に突っ込めばいい。それには橋を鎮圧している義継の部下をまず何とかする必要があるだろう。だが、果たして本当に橋にいる部下を斬り殺して進んだとして、義継は激怒し輝宗の首を斬らないだろうか。 そこが賭けだった。それに、自分がもうここまでだと分かれば最後にと殺すかもしれない。追い詰めすぎてもいけない。 しかし時間の経過は義継に味方する。こうして迷っている間にも、彼はじわりじわりと向こう岸を後退していた。 このような状況、政宗は想像すらしなかった。 「一体どうすれば…」 顔を苦め、彼は対岸で後退を続ける義継と無言の輝宗へ目をやった。 「ええい、次から次へと増えよって!」 頭将が出揃った対岸で、義継は忌々しそうに吐き捨てていた。 政宗、成実、小十郎はそこにいるだけで威圧感が違う。自分より随分若い面々だと言うのに、彼らの登場で一気に気圧されしていた。政宗を嘲笑ったのは最初の一度きりで、彼らが揃うと馬鹿にしようとすら思わない。こちらの優位が分かっていても恐ろしくて敵わなかった。 輝宗を手中に収めているからと言って、相手は鬼。いつ心変わりして襲ってくるかも分からない。焦りが募り、彼は一刻も早く自領へ戻るべく後ろ足に下がっていこうとした。 ところが、輝宗はさっきから歩調を変えぬため移動速度は変わらない。気ばかりが急いで、義継は怒鳴った。 「輝宗!貴様とっとと歩かんか!その首惜しくないとでも申すか!」 「ええ。別に惜しくなどありませんとも」 「な…」 その切り返しがあまりに自然であっさりしており、予想外の返事に顔色を青くした。 部下がぐっとその首に刃を今まで以上に付けるが、それでも彼は氷の表情と優しい声を崩さず真っ直ぐ義継を見ていた。 睨んでなどいない。ただ、見ていた。 「血迷ったか、輝宗!この刃が見えぬのか!?」 「今まで喋らなかったのはこちらの都合。こんな老いぼれの首でよければどうぞ」 「だ、黙れ黙れ!これ以上喋れば…!」 「ですから、どうぞ」 「くっ…」 たかが二言三言の言葉で、輝宗は義継を追い詰めた。 人質になって怯えもしなければ命乞いもしない。しないと言うより、寧ろ最初から頭にないようだった。 「貴様、言葉を慎め!」 部下が刃を輝宗の首に押しつける。 切っ先が僅かに皮膚を押し裂き、赤い鮮血がじわりと滲んだ。それでも輝宗の態度が変わることはなかった。 「さあ、どうされました。ご安心を。私は抵抗などしませんよ」 「…っ」 その態度に真っ青になり、彼の背後に立つ義継は腰から刀を抜いた。 切っ先を、ぴたりと輝宗の背中に付ける。 「狂ったか、輝宗。子が鬼なら親も鬼。貴様の真意は一体何処にある!」 「ははは。真意ですか」 この状況で笑える輝宗が、義継には信じられなかった。 今まで温厚で緩い奴だと思っていた人物が一変して空恐ろしくなる。ジャリ…と土の音を発てて数歩後退った彼を、輝宗は肩越しに振り返った。 前髪の間から覗けるその目が、あまりに細く、凍っていた。 「我が真意は我が消えた後に分かるもの…。汝などとは縁などないわッ!」 「…!?」 突然だった。 それまで大人しかった輝宗が、自分の首に添えられている刃を諸戸もせずバッと着物の裾を持つ両手を広げると、自らを標的にするように片足を一歩前に音を発てて踏み出した。 その行動は自虐的。義継の部下は刃を緩める暇さえなく、押し裂いていた銀色の光沢は前に出る彼の動作によって更に奥に食い込んだ。今度は血が滲むのではなく、完全に喉の肉数ミリを裂いて流れ出した。 喉を裂かれ、それでも声を上げる。 「政宗―ッ!!何をしている!私ともども撃ちなさい!!」 「な…!」 義継が彼の声を押さえることはできなかった。 声は空気を波打って対岸まで届く。 それを聞いた政宗は酷く狼狽し、耳を疑った。他の者もほぼ一様にそうだ。小十郎だけはその言葉に心からの尊敬が湧き出た。輝宗の性格上言い出すだろうとは頭の片隅で思ってはいたが、実際に聞くとなんとも心に痛い。 だが、政宗が彼のように受け入れられるわけがなかった。 先頭にいる彼と成実が馬上で身を乗り出す。 「何を仰いますか父上!」 「大殿!馬鹿なことを仰らないで下さい!そのような者、俺たちがすぐに片付けます!あと少しの辛抱ですから!」 「今…、今お助けします!今すぐに梵が…!!」 物騒なことを言い出す輝宗に二人はすぐ止める言葉を投げかけたが、彼の背後に広がる輝宗の家臣達は途端に静かになった。 彼らもまた、自らの主が何を言い出すのかおおよその見当はついていた。ただそれを実際に主の口から聞くまでは認めたくなかっただけだ。他者に殺されるなら自ら死を選ぶ。自分の命がここまでだと分かったら自分の死を越えた先にある最善の選択を指示する。それが伊達輝宗という将のやり方だった。どんな境地でも柳の心を持っている。 「このまま連れて行かれても私は殺される!分かっているだろう!?」 「だ、黙れ輝宗!黙らんか!!」 「お前ならできる!さあ、日頼、何をしている!銃口を向けなさい!!」 「黙れえッ!」 対岸から輝宗が続けて叫び、それを義継が背後から必死で押さえようとしている。 「…。全軍…、構えぇえい!」 気高い主の命に、日頼は槍を振って部下を指揮した。 苦しそうに発せられる彼の命令に、皆一様に銃口を対岸の輝宗へ向ける。 「…!」 「日頼殿!?」 政宗と成実が驚いて背後を振り返る。 「何をしてるんですか、止めて下さい!大殿がどうなってもいいんですか!?」 「成実殿、貴殿こそを何をなさっておりますか。我々は輝宗殿に絶対の忠義を持っている。その輝宗殿が命令を下された。我らはそれに従うのみ!」 「どうかしてる!」 「若様!」 成実を無視し、日頼は彼の隣で立ち尽くす政宗を見た。 「どうか輝宗殿のお気持ち、察して下され。我らに発砲の許可を!」 「だ…、だめだ…」 もはや政宗は彼らを見ていなかった。 俯き、さっきから子供のように首を僅かに振っている。だが日頼に言われると、終いには手綱から手を離して両手で世界を拒むように頭を抱えて悲鳴を上げた。 「駄目だ…。駄目だ駄目だ駄目だ…!巫山戯るなッ!父上に銃口を向けるなど俺にはできない!…小十郎!小十郎、何か策はないのか!?」 「…」 泣きつくように側近の名を呼ぶ政宗に、小十郎は何も返せなかった。 「嘘だ…。こんなことが…」 彼の無言は輝宗を救い出す策がないことを明白に語っている。政宗はいよいよ顔を歪め、泣きそうな表情で唇を噛む。 そんな時。 「迷うことなどございませんぞ、殿」 「…!」 小さいが、凛とした低い声が響いた。 |
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