崩壊後編 >> 月下の涙 第三章 | ||
一同が一斉に振り返ると、視線の先には遅れてきた虎哉の姿があった。彼は一度対岸を見ただけで、政宗の方へ馬を進めながら冷静に続ける。 「銃口を先代へ向けなされ」 「何を言うんですか先生!先生の目には大殿の姿がご覧になれないのか!?」 政宗の前に出て、成実が怒鳴る。 直情型の彼は誰かの死を越えてその先にある最善手など、欠片も思い立たない。しかもそれが輝宗となれば尚更だ。彼には背後に広がる輝宗の家臣達や今来た虎哉の発言が信じられなかった。 憤る彼とは対称的に、冷ややかに虎哉は言う。 「お気を静めなさい、成実殿。殿もです。そのみっともない言動は人の上に立つ者として如何なものか」 「…」 このような状況下でそのようなことを言われても、政宗の耳には届かない。 彼の胸の内にあるのは、この人物なら何か父親を救い出す策を持っているのではないかという微かな希望だった。それ故、さっきの虎哉の発言を聞かなかったことにして尋ねてみる。 「先生、父上が…。何とかなりませんか。何とか…」 「なりませんな」 だが虎哉の返事は無情なものだった。 「片倉殿が何もせず動かん時点で殿も分かっておるはずだ。何か策が成せれば一番に動く男が無言で貴殿の傍にいる。これはもう四方八方手塞がり」 「…」 遠慮や気遣いなどない虎哉の言葉に、小十郎が敵意を含んだ目を彼に向けた。 だが軽く受け流し、虎哉はまた政宗を見る。 「かくなる上は大殿の死を越えた最善の手を。人もいつか死ぬものだと拙僧がお教えしたはず。まして今の世には親の死に目に会えぬ例が増える中、これは好例である」 「何てことを言うんですか!」 成実が今にも刃を向けそうな勢いで虎哉に詰め寄り、罵声を浴びさせる。 その背後で、政宗は自分が何処かこことは違う遠くの場所にいるような錯覚すら覚えていた。ぐるぐると視界が廻る。対岸では輝宗が尚も何かを叫んでおり、それを義継が遮っていた。目の前では虎哉と成実がほとんど一方的な言い争いをしている。 畠山は絶対に逃がしてはならない。 だが父上は何が何でも助けなければ。 畠山討伐と輝宗、優先すべき順位は一目瞭然だが、このまま手を出さないで自国へ戻らせてしまえば、やはり輝宗は殺される。 追い詰められていた。 「殿」 政宗に小十郎が近づいて、その肩に手を置く。 耳を塞ぐように頭を抱えていた彼の片手をやんわり解くと、そこに顔を寄せ小さく囁いた。 「…鉄砲、脅しとして撃たれては如何でしょうか」 「おどし…」 「はい。大殿の傍にいる畠山や刃を持っている者ではなく、まずは周囲の取り巻きを射殺してしまえばよろしいかと」 「しかしそれでは父上が…」 「臆病で卑劣な畠山のこと。殿が大殿を気にせず攻撃される様子を見れば人質としての大殿に価値はなくなり、打って変わってただの重荷。すぐにでも置き去り、逃亡を謀るのではないかと思われます。可能性は低いですが…、あるいは」 「しかし…」 可能性は極めて低い。博打だった。 だがこれ以上こうしていても、輝宗の体内から徐々に血は流れ出し、体力も減っていく。 対岸から輝宗が首から血を流しながら声を張る。 「政宗!!さあ、何をしている!私に構って伊達の名に泥をぬるか!私を失望させるな!そのような子を息子に持った覚えはないぞ!」 「しかし…!」 「私の梵天丸は何よりも穢れなく誇り高いはず!!」 「…!」 その言葉に政宗の肩が震える。 輝宗が続けてきた伊達の名が今自分にあることをこの時ばかりほど認識したことはなかった。同時にここまでその名が重荷になったことも、後悔したこともなかった。 小十郎が政宗の肩から離れ、彼に冷静を与える口調で促す。 「殿。ご決断を」 「…。…っ、ぜ…全軍…!か…」 喉が怯えて声が出ない。 「くそ…!」 自らの情けなさを疎ましく思いながら、それを振り切るように政宗は馬上で腰から刀を勢いよく音を発てて抜いた。 そのまま振り上げた切っ先を、対岸の輝宗と義継へと向けた。 「全軍!構え――ッ!」 掠れる彼の声に、その場にある全ての銃口が対岸を向く。 前列は屈み、二列目は膝を立て…。対岸に広がるその光景は義継を震えさせた。 「あ、あいつ…!まさか父親もろとも撃つ気か!?」 「ははははは!どうですか、畠山殿。私が自慢するのも頷けましょう!」 輝宗は心底嬉しそうに声を上げて笑げ、勝ち誇ったように義継を振り返った。 「あれこそが我が愛しい子。貴様などに屈する政宗ではないのですよ」 「鬼があ…!!」 「梵天!」 虎哉と言い争っていた成実が彼の名を呼んで驚きに振り返ったが、遅かった。 政宗はもう一度僅かに刀を振り上げ、力の限り叫ぶ。 「撃て――――ッ!!」 次の瞬間、大地を震わせる無数の発砲音が河原に響いた。 輝宗の家臣と政宗の連れていた従者は確かな命を受けずとも、輝宗のことを狙わずに義継の連れていた取り巻き達を各々狙った。橋の上で砂利の上で、義継のすぐ隣で次々と人が鉛に貫かれて倒れていく。 続けて発せられた成実の制止の声は銃声に混じって消え、虎哉は一歩離れた所で客観的に河を渡るいくつもの閃光を眺めた。 小十郎は橋上にいた義継の部下が倒れたと同時にいち早くその場から馬を走らせ、まだ閃光が止まらぬ中を、我が身を省みず飛び込む。そして半ば放心していた政宗もそれに気づき、後に続いて橋を渡ろうと黒馬の手綱を握って走り出した。あっさりと小十郎を抜き、先頭を駆けて橋を渡る。 一変した状況についていけない義継は狼狽しており、彼の元へ駆け出した政宗はこの博打に勝ったと思った。輝宗を救い出せる。 だが。 「ただで殺されて堪るかあ…ッ!」 政宗達が橋を渡り終える頃。 ぐしょ――と、肉を裂く独特の音が銃声の収まりかけた河原に、奇妙なほど鮮明に響いた。 義継が手にしていた刀で、背中から輝宗を貫いたのだ。 輝宗の胸からは血で濡れた朱銀の刃が生え、遅れて鮮血が文字通り噴き出す。 「ち…、父上――ッ!!」 政宗は有らん限りの声で悲鳴を上げた。 主の動揺を察して黒馬が思わず足を止める。その横を小十郎が抜いた。 手綱から手を離し、移動を馬に任せて両手を一度袖の中に入れ、次に出した時にはその両手にクナイが片手に三本ずつ、指の間に挟むように握られていた。 「覚悟!」 着物の袖と髪を揺らし、両手を広げて刀の柄から手を離した義継に飛び込む。 だが、義継と輝宗の元へ達する前に、彼の行く手をずっと輝宗を捕らえていた男が阻んだ。その手には輝宗の喉を傷つけた脇差が構えられている。小十郎は舌打ちし、しかし瞬時に狙いを変えると、その男へ右手のクナイ三本を同時に投げやる。 小さな刃で、男はそれを見事に払い落とした。義継の元にいるのが勿体無いほど流れるような動きの男だ。クナイを投げたと同時に、小十郎は左手に残った三本のうち一本を右手に持ち替えると、払い落とした男の首を狙おうと足をかけていた鐙を蹴りつけるようにして馬上から飛んだ。 「…!」 男が気付いて空かさず脇差を顔の前に構え、それを迎え撃つ。 クナイと脇差が嫌な音と火花を散らして打ち合った。 「く…!」 男の腹を右足の裏で蹴り、その反動を利用して間合いを取るため背後に一度飛ぶ。 男から離れた小十郎の視界の隅に、生き残った僅か二名の部下と逃げまどう義継の姿が見えた。 逃げられる。 そう思った小十郎の横から、ザッと遅れて馬に乗った成実が飛び出して来た。 「…! 成実殿!」 「任せろ!ぶっ殺す!」 彼も小十郎達には遅れたものの、早々に橋を渡って来ていた。 彼らと違って今まで鉄砲を構えていた者たちはその後処理に手間取り、なかなかすぐには動け出せずにいるが、成実が追ってくれれば十分だと思われた。問題はあの部下二人が今小十郎の目の前にいるようにこちらが思っている以上にできる者ならば、成実が足止めされてしまい逃げられる可能性もでてくる、が。恐らくそうなっても心配はない。あと一人、動いている者が恐らくこの戦地の何処かにいる。 小十郎は再び目の前の男に意識を集中させた。 あっという間にこの場は戦場へ変わる。 いや、戦場と言うには些か一方的すぎた。義継はもう逃げるのに必死で、攻めは伊達軍のものになっていた。 だが、それを取りまとめるべき若い主は喜びなど欠片もなく、足を止めた黒馬から飛び降り、血塗れの父親の元へ駆け寄った。 彼が駆け寄るのを待っていたかのように、その時ゆっくり輝宗の身体が前に倒れ込む。 「父上!」 政宗は血を浴びるのも気にせず、それを片手で抱き留めると背中から貫いている刀を輝宗の身体を気遣いながらゆっくり引き抜いた。その振動でまた血が溢れ出し、彼の着物を紅く染める。それを見て彼は視界を涙で滲ませた。 もう彼が助からないであろうことは遠巻きに見ている輝宗の家臣ですらも分かったのだから、目の前に溢れた血の量を突きつけられた政宗にとっては疑う余地などなかった。大いに混乱していても、そのことだけははっきりと分かる。 輝宗の後ろ肩に両手を回し、十八になる伊達家当主はそれこそ臆面も恥もなく泣きついた。残された左目から止めどなく涙が溢れる。 「父上、父上…!」 差し貫かれても、輝宗にはまだ微笑むほどの余裕はあった。 「…は、は…。すまんな…政宗…。私が迂闊な…ばかりに…、もう…」 必死に気遣いこの世に繋ぎ止めようとする政宗の横髪を撫でる。呼吸は細く力はない。口の端から血が流れていた。それでも優しい。 政宗は必死に輝宗の手に自分のを添え、縋った。 「嫌だ!嫌です父上!梵を置いていかないで下さい!ただいま止血剤を!小十郎がいい薬を…!!」 「もういいのだよ、梵天丸…。さあ…」 政宗の幼名を呼ぶと、輝宗は血で濡れた手で彼の頬を撫で、両目を伏せた。 眼球のない右目に愛おしそうに唇を寄せる。 「もうお飛び…」 囁くような穏やかなそれが、最期の言葉だった。 途端、糸が切れた巨大な人形のようにその全体重が政宗の身体にのし掛かってくる。それは明らかな死を意味していた。 「…!?父上!!」 重い身体を抱き留めながらも既に動かない輝宗の顔を上げようと彼の肩を持ち上げる。 その時。嘆き、必死に父親の名を呼ぶ彼の背後から、一つの銃口が真っ直ぐ政宗の背中を狙っていた。 橋の反対側。輝宗の家臣達が鉄砲を収めて武器を手にし、急いで橋を渡ろうとしているそちらの岸の草茂みの中に畠山の部下の一人が潜んでいた。彼は着火させた火縄を火ばさみに挟み込み、片目を閉じて政宗の背を狙う。 義継がいざ襲われた際に残しておいた、最後の布陣だった。 背後から一発で心臓を。勿論撃てばこの者もただでは済まない。恐らく今この場にいる伊達の軍勢に殺されるだろう。だが、彼一人の死と政宗の死は対等などでは決してなかった。たった一発の鉛玉で、どれ程損害が及ぶだろう。 彼は細心の注意を払い、今の奥州の勢力を激変させる力を持つ人差し指で、引き金を――引いた。 甲高い破裂音が一つ。 鉛玉は何の感情もなく、ただ一直線に対岸の政宗の背に飛ぶ。 ここで伊達の親子共々この世から失せたとなれば、一体どれ程ここいらの状勢が一変するか。あるいは、ひょっとしたらこの一発での死を政宗は望んだかもしれない。 だが、それを一つの影が遮った。 それは今まで木々の中に潜み、静かに傍観をしていた賢者だった。鉄砲を撃った男の存在にもとうに気付いていた。崇高な賢者は巨大な翼を広げ、躊躇うことなく鉛玉と政宗の間に一陣の風の如く飛び降りた。 パァンッ…! 「…!」 やがて響いた音に、一同は突然飛び込んできた一羽の鷹を見た。 雪のように白く、茶色い羽根を織り込んでいる巨大な鷹だった。 涙で濡れていた政宗も発砲音に反射的に振り返って顔を上げたが、丁度その瞬間、彼の目の前で向こう岸から音と同じ速度で発せられた鉛によって鷹の身体は空中で跳ね上がっていた。 ぱっとその身体から数枚の羽根が跳ね抜け、ひらひらと宙に舞う。 それが何なのか、何故ここにいるのか。 何をしているのか。 政宗に、瞬時にそれは理解できなかった。ただ呆然と、ゆっくり力無く目の前に落ちる鷹を見る。 その瞬間、彼の左目から絶え間なく零れていた涙が、何故かぴたりと止まった。 感情の限界が来たのかもしれない。一瞬とはいえ、世界が理解できなくなっていた。哀しみや怒りすら呑み込み、ただ意識が白く白く、雪が積もるように染まる。 「おのれえ…!」 対岸の日頼が高らかに叫び、今撃った男を見つけ出して直ぐさま槍で貫く。 それとほぼ同じ頃、小十郎もようやく脇差を武器とする男の心臓をクナイで貫いていた。 「…」 場を同じくするそれらの戦闘など意識もせず、政宗は輝宗を抱いたまま崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。河砂利が鳴って彼を迎える。 彼はもう動かない父親の背に片手を回して抱きながら、もう片方の手をその身体から離し、弱々しく足元に横たわる一羽の鷹へ伸ばした。 「…。宗…里…」 口の中に収まってしまうほど小さすぎる呟きに、律儀にも宗里は音にならない声で一声鳴く。 それだけだった。徐々に目を細め、やがて永久に閉じる。輝宗から浴びた血が政宗の腕を伝い、宗里の純白の翼も染めた。 「…。……。…ぁ…あ…。あ…」 もはや悲鳴も、涙すら出なかった。 乾いた左目で呆然と宗里から更に下の砂利を見下ろし、翼に載せていた手を地面に付いた。そうしないと身体を支えることすらできなくなっていた。 遅れて落ちてきた宗里の白い羽根が、ひらりひらりとその周囲へゆっくり舞い落ちる。 「…」 小十郎が音を立てずに背後へやって来て、いつもと変わらず、崩れ落ち絶望する主の斜め後ろに立った。 |
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