裏切 >> 月下の涙 第三章 | ||
天道が南の空に昇りかけ、霧もすっかり晴れた頃。 宮森城に住まう輝宗は一人部屋で書を読んでいた。 彼もまた息子である政宗と同じく、朝晩の読書を欠かさなかった。これは現役時代から絶えず続けているが、隠居してからは戦がなくなり茶道や書道と言った前々から真剣に手を付けてみたかったものまで学ぶことができるようになった。知識人の彼にしてみればとても嬉しいことで、日々は常に充実していた。 誰もいない室内はしんとしており、時折ページの捲る音だけが妙に部屋に響く。 『殿。失礼致します』 襖で繋がっている隣の部屋から側近の男が声をかけた。 「どうぞ」 書から目を外して襖の方を向くと、若い男が両手を前について一礼しているところが見えた。身の回りの世話をしている男だ。 元々輝宗の抱えていた側近や部下のほとんどは政宗に家督を譲ると同時に主を自分から彼に変えるよう言ってきた。それなりの領地や財力を作りだしてきた彼だが、自分の持っている中で一番高い価値を持つのは今まで支えてきてくれた家臣たちだと思っている。 何人かは輝宗が隠居する旨を伝えた折、是非お供にと言ってきた者がいた。だが敢えて彼らに政宗の力になってくれるのが嬉しいと言って、ほとんど単身で小浜城へ居座っていた。 よってこの城で彼の周りにいる者と出逢ったのは一,二年前という短期間だが、それでも温厚で優しい輝宗にすぐについてくるようになっていた。城内は常にのんびりとした主を頭に、緩やかな時間が流れている。 「おはよう、柚家。何かあったかな?」 「はい。昨晩お泊まりになられました畠山殿がお帰りになるとのことで」 柚家と呼ばれた男は少し鼻にかかった声で言った。 「おや。早いお帰りだな。午後までゆっくりしていけばいいものを」 読んでいた書に栞を挟み、輝宗は立ち上がった。 「では別れのご挨拶でも」 「畠山殿を呼んでまいりましょう。殿ご自身が参る必要は…」 「ははは。そんな小さなことはいいではないか」 「…はい」 少し躊躇った後、柚家は頷いて少しだけ開けていた襖を輝宗が通りやすそうに左右に開くと脇に控えた。 「ありがとう」 短く礼を言って輝宗がその襖から隣の部屋へ移動し、廊下へ出る。部屋と部屋とを繋ぐ襖と廊下の障子を閉めると、柚家もそれに従って廊下に出た。 外廊へ出ると、丁度向こうから数人の団体がこちらに向かって歩いてきていた。 その先頭は輝宗より一回り若い畠山城主の義継だ。どちらかと言うと輝宗とは違い、武勇に優れていそうな体付きをしている。年上の輝宗から見れば若輩者と言っていい。隠居してのんびりと暮らしている自分と比較すると、まだまだ若さ溢れる歳に見えた。 政宗に脅しをかけられて危機に瀕していた彼は、輝宗を間に挟むことで何とか首が繋がっているといった状態だった。もし輝宗が政宗に対しての進言を拒んだとしたら、今頃は丁度戦の終わり頃で首どころか、上半身と下半身も繋がっているかどうか怪しいものだ。まさに命の恩人。 まだ三十と少しを過ぎたばかりの彼は向かう方からやってくる輝宗に気付くと、足を止めて腰を折った。 「おはようございます、輝宗殿。昨晩はお言葉に甘え寝床をお借りしまして、誠に有難うございます」 礼儀正しく挨拶をする義継に、輝宗は和やかに微笑みかける。 「いえいえ。こちらこそ、滅多な歓迎もできませんで。何分引退した身でしてな。もうお帰りになられるのですか?お茶でも如何です?」 「いえ、あまり城を空けるのもどうかと思いまして…。家中の者と相談しまして、失礼ながら自城へ戻らせて頂きたく思います。今から挨拶に向かおうとしていたところです」 「それはそれは。そのようなことでしたらこちらから出向きますよ」 妙なほどに輝宗は威厳というものをつくろうとはしなかった。 親しい客を相手にしたなら自分から足を向けてもいいだろうが、つい先日まで敵であった義継相手にまで彼は始終穏やかだった。鬼と呼ばれる政宗の父親だ。一体どんな先代だったのだろうと想像を膨らませる者にとってその振る舞いは驚くもので、昼行灯という言葉が見る者の頭の中に浮かぶ。 もっとも、やはり今政宗が指揮している伊達家同様、輝宗が主として隣国と戦っていた頃も彼自身が危機に曝されることはあまりなかった。知将との噂は義継の元まで流れていたが、ここまで私生活が穏やかな男だとは思ってもいなかった。 「ご子息殿への口添え、本当に有難うございました。いくら感謝してもしたりません。もっと何かできればいいのですが…」 「ははは。そのようなことお気になさらず。あやつも好き好んで殺生はしない質ですから」 笑顔で言うが、義継にその言葉は信じられなかった。 一歩外に出れば虚勢を張り凛々しく振る舞う政宗が実際にそうだったとしても、彼にそれを知る術はない。諸将の目には血肉を好む鬼畜生として映っている。タチの悪い冗談に聞こえ、軽く目眩を覚えながら義継は更に深く頭を下げた。 「それで輝宗殿。失礼ながら、門兵の者が…」 宮森城の、特に門兵は警戒心が高く、今だ義継のことを信用していない。 来る時もそうだったが、先ほど部下を一人正門へ向かわせ、義継が帰るから開けて欲しいと伝えると槍の矛先を向けられて「我らが従うのは輝宗殿お一人。御方の許可なしにそのようなことはできない」と牽制された。 この緩やかな時を刻む城の中でああも殺気立った兵が少数派だということは、たった一晩泊まるだけで義継にも分かった。輝宗も彼を牽制した兵に覚えがあるのか、顎に片手を添えて困ったように言った。 「あぁ、これは失礼した。あの者率いる槍陣は生真面目でしてね。それでは、私が門までお送りするとしましょう」 「かたじけない」 「何のこれしき」 輝宗の横にいた柚家が怪しむように義継を見たが、本人はいたって気にした様子もなく義継の隣に並ぶと外廊から見える庭を説明付きで示しながらのんびりと歩き始めた。 その説明の合間を縫って、何ともなしに義継は隣を歩く輝宗に尋ねる。 「時に輝宗殿。失礼ながら、御身は一体齢幾つになられますか。随分お若いように見えますが…」 「はっはっは。若いですかな?貴殿に言われると嫌味にしか聞こえませんね〜」 「いえ。そう言う意味ではなく…。ご隠居には早いのではないかと思いましてな」 四十と少しの輝宗の隠居は早すぎるものだ。 普通息子が元服して若者になったとしても、父親が健全なかぎりその一歩前に立って取り仕切る方が多い。年老いてきて戦地に立つのが苦しくなった頃、ようやく当主の座を息子へという者が多い。十四歳に初陣を飾ってから四年も経たぬ政宗への相続はこの辺では少し有名な噂となっていて、義継の耳にも届いていた。 「噂に寄ればご子息のことを大変可愛がられておられるとか」 微かな嫌味を込めて義継が言ってみるが。 「ええ、そうですな。目に入れても痛くありませんね」 「…」 さらりと笑顔で肯定された。 一体何なのだろうこの男は。義継は内心ため息を付いた。 掴み所のない、のらりくらりとした態度。まるでしなやかな柳を相手にしているような心境だ。少し接しただけで、器の違いを意識せざるを得ない輝宗の態度に、彼は苛立ちを募らせていった。 「そんなに可愛がられているのに、若いうちからの大役は大変ではないですか。しかも父親である貴方はこのような片田舎に隠居などしてしまって」 「あぁ、戦のいろはでしたら心配はありません。あの子は幼い頃から一生分くらいの学を得ていますからね。剣技はここ数年からですが、いやぁ見事なものですよ。畠山殿の所のご子息もそうなのでは?あっという間に私など抜かされてしまいましたよ。若いとはいいものですね」 「私はまだ現役ですからな。息子に抜かされたくなどありませんで、日々鍛錬は欠かしておりませんぞ」 「それは素晴らしい」 和気藹々と語っているうちに、二の丸の城門が見えてきた。 まだあちらの門兵達は気付いていないようだ。 「…」 義継が背後に控える兵と目くばせしようとした時。 「そうそう、畠山殿」 突然、輝宗が話を変えるような言葉を発した。 「な、何ですかな?」 びくりと内心これ以上ないくらいの動揺をしつつ、義継は冷や汗を流しながら輝宗に顔を向ける。 振り返った彼は、相変わらず優しそうに微笑んでいた。 「先ほど私が隠居してしまって大丈夫かということを仰いましたがね。逆なのですよ」 「逆…?」 「あの子は甘えん坊でしてね。私がいると成長しないので、困っているのですよ。私の存在が足枷になっているのです。…日頼、おはよう」 輝宗は門の傍で部下と話していた家臣の名を呼んだ。 背中に鉄砲を備え、槍を片手に振り返った日頼はこちらへくる主の顔を見るとばっと正面へ向き直り、踵を揃えて直立した。彼は右手を一振りして部下に何か言うと、わいわいと門の中から彼の部隊の三分の一ほどの人数が飛び出して来て、輝宗が門へ来るのを待つ。 義継が来た時とは天と地ほどの差だった。 「門番ご苦労。今日はいい天気だね」 片手を上げて輝宗は一団から先に出る。 「お早うございます、殿。本日は本当に良き日和で」 輝宗たちが近づくと、日吉は膝を折って跪いた。 「…」 その瞬間、先ほどは叶わなかった背後の部下との目くばせを、義継は行った。 二つの視線が合うと部下は無言で軽く会釈し、懐に手を滑り込ませる。他の部下も一様に何かを手にし、僅かに足を開いて腰を落とした。 家臣を労う言葉をかけていた輝宗には、背後にある一団の凍えきった気配に気づかなかった。彼らのただならぬ空気に一番に気づいたのは、日頼の部下の一人だった。 だが彼が口を開ける前に、義継の隣に付き添っていた彼の家臣の一人が、風のような早さで後ろ向きに立つ輝宗に地を蹴って駆け出す。 日頼が跪いて頭を垂れず立っていたのならば、恐らくは阻止できただろう。日々輝宗を敬い頭を垂れる彼の忠義の深さが、この一瞬は仇となる。 無様にも気付かぬ輝宗と家臣達を見据え、義継はにやりと笑った。 「油断が過ぎますな、輝宗殿!」 「…!」 義継の家臣は義継の横を抜いて前に出ると、背後を向けている輝宗の後ろ襟を勢いよく掴むと容赦なく引っ張った。それと同時に、右手に持っていた小刀を、ひたっと首元へ後ろから突きつける。 本当に一瞬だった。 輝宗を捉えた義継家臣の抜き足と速さは凄まじく、恐らく忍の心得がある者だったのだろう。屈んでいた日頼が義継の声にはっとして立ち上がった頃は、既に尊ぶ主の首元に銀色の刃が添えられていた。 「貴様何を…!」 反射的に槍を構えようとする日頼と部下達だが。 「動くな!!」 一歩後に立っている義継が声を上げて、その動作を遮った。 「動けば輝宗殿の首、今この場で切り落とすぞ!」 「く…っ」 「はー…やれやれ。ようやく肩の荷が下りたわ」 義継は懐から扇を取りだし、自らを扇いだ。 「簡単に人を城内に入れおって。阿呆か」 その声は今までのものと違い、もっと低いものだった。 昨日今日聞いたものが彼の声だと思っていたが、今の声を聞くと今まで如何に猫を被っていたかが分かる。肩を下ろして、笑っていた。 「隠居したとは言え、もう少し警戒心を持っておいた方がよろしかったですな、輝宗殿」 義継は勝ち誇った笑みで輝宗へ笑いかけた。 ところが輝宗は首元に刃があると言うのに思ったほど動じず、青ざめもしなかった。そのかわり、先ほどのような優しい笑顔ではなく、氷の目をした冷ややかな表情と空気が漂っていた。 それを見て、一瞬ぞくりと義継の背中に悪寒が走る。戦場で名を馳せた知将・伊達輝宗の名を思い出すが、今この現状で彼が何もできないのは確か。悪寒も恐怖も顔に出さぬよう、眉を寄せて捕らえた彼を睨み返す。 「どうやらそのようですな」 表情が変わっても、輝宗の声は変わらなかった。 喉に刃を添えられると喋るだけで何とも言えぬ恐怖が襲うものだが、彼は淡々と喋り、口から出る声だけは先ほどと同じく優しげなままだった。 「このような罠を張られていたとは…。最初からこのおつもりで?」 「当たり前じゃ!誰があんな若鬼の軍などに入るか!あのような非道な倅を目に入れても痛くない?…はっ!流石は鬼の親だな。今回の訪問はな、輝宗殿。ここいらの地形の下調べよ。既に儂は付くのなら佐竹蘆名軍と決めとる。貴様の首を差し出せば、両名は儂を陣に迎えると言っておる。大内殿も既に両名の元で戦の準備を整えておるわ」 「なら今斬れば宜しいのではないですか」 「殿!」 さらりと言う輝宗の言葉に、日頼が悲鳴を上げた。 だが畠山は鼻で笑う。 「ふん。ここで貴様を斬れば、儂はそこの男に八つ裂きなのは目に見えておる。年老いた体に鞭を打って申し訳ないが、儂の領地までご同行願おうか。そこで改めてその首、切り落としてくれるわ。貴様が死ねば、次は儂らの大軍で貴様の大切な小倅よ!」 この騒動を聞きつけ、城内から次々と兵達が武器を構えて出てくる。 鉄砲や刀を手にして現れた兵達で、城門は義継たちを中心にして丸く人垣ができていた。 手が出せないと分かっていても、それでも日頼を始め多くの者は武器の矛先や鉄砲口を向ける。 その間も義継の部下は輝宗を捕らえて刃を添えたまま。 「殿!」 「輝宗様!」 「喧しいわッ!」 主を気遣い、声を上げる者達を一喝し、義継は自ら輝宗の傍に立つと脇差を抜いてその首に切っ先を向け、声を上げた。 「少しでも儂らに手を出してみろ!貴様らの主の首風通し良くしてくれる!退けぇ!門を開けんか!!」 日頼は奥歯を噛みしめ、額に血管を浮かび上がらせながら槍が折れるほど腕に力を入れた。 「…っ。二の丸門、開けろ!」 門兵頭の命に、他の部下達も同様悔しげに顔を歪めながら為す術もなく城門を開けた。 輝宗を連れながら、じりじりと後ずさり義継とその部下は牽制しながら城門を出ていく。輝宗の家臣達もそれと一定距離を開けながらじわりじわりと進んだ。 どうしようもなかった。 義継の武器は輝宗に刃を突きつけているということだけだ。もし仮に今義継に手を出したら間違いなく輝宗が殺される。輝宗殺された後には主を失い怒濤の如く憤る日頼達に義継自身が殺されるしかなくなるのだが、温厚な主を敬う彼の家臣達にはどうしようもなかった。輝宗を失ってまで義継の首は欲しくない。 「ええい、散らんか貴様ら!輝宗の首がなくなってもいいと申すか!」 そうは言っても、実際に義継は自分の安全が確保される自らの領地まで輝宗を殺すことはできない。 輝宗に刃を突きつけながら、義継達とそれを囲むように追う輝宗の家臣たち一行はゆっくりだが義継の領地である東方へと進んでいった。 「…」 移動する彼らの背後。 すっかり人気のなくなった宮森城の屋根から、美しい少年が双眸を細くしてその光景を見つめていた。 彼は身に纏っていた布を乱暴にはぎ取る。下から現れたのは三十後半の細身の男だった。忍装束ではないが、上から下まで黒い機能美を重視した着物を着ている。鼻頭の傷と右首に着いている刀傷が印象的な黒い短髪の男だ。 美しく彼の周囲を落ちていく若者向けの着物や帯の中、彼は東へ向かう一同とは違う方向へ瓦を蹴ると、風に乗って飛び去った。 |
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