合戦前夜 >> 月下の涙 第五章 | ||
今まで無言だった小十郎がそれくらいでと言い出したのは、彼が一度その場を離れて政宗の愛馬である月雀を連れて再び戻ってきた時だった。 すっかり血を吸ってどす黒くなった刀が周囲に散る中、肉片を跨いでいた政宗は小十郎によって立ち上がらされた。地に足を着かないふわふわとした感覚が彼の全身を包んでいたが、疲れ切った心身はそれでもなんとか促されることによって動いた。 いつもは政宗が先頭を歩きその斜め後ろを小十郎がついて回るが、今日ばかりは小十郎が前を歩き、政宗がその後を人形のようにふらりふらりと追って歩いた。玉砂利を歩むたびに、紅い足跡が点々と残る。黒い漆の靴は一見その美しさに劣化を見せないが、実際には多分な血液がそこに張り付いているようで、少しずつ足元に滴り落ちていく。 月雀の傍に政宗が寄ると、血の匂いに黒馬は興奮して鼻を鳴らしたが大人しくしている。馬の頭を撫でてから、小十郎は政宗に黒馬に跨るよう促した後、自分も愛馬に跨る。こちらの馬は血の匂いに何の反応もなかった。 「川へ参りましょう」 政宗を先導する小十郎は城門を出ると南の川へと向かった。 一時主の元を離れ、彼はそちらへ移動するための準備をしてきたのだ。 夜ではあるが川の水は清らかで美しく、薄暗いが紅葉が月明かりの下僅かに見えた。政宗は馬上から降りると川の側に立って溢れている水を素足で踏む。冷たい水に浸る自分の足元を呆けて見つめていた。その背後で小十郎が手際よく衣類を脱がせていく。 腕を覆っていた網と手覆いを取ると彼の両手は綺麗なものの、二の腕あたりには血が染み込んでしまっていた。あまり厚い生地でなかった胸元もそうだった。想像以上に人の血というのは粘りがあり、時間が経つごとに黒に近い色へ変化していく。 政宗がその血をよく見る前に、小十郎は半ば彼を突き下ろすように背中を押して水中へ促した。水音を発てて政宗がバランスを失い、身体を川に沈める。そのような態度に怒っている余裕もなく、彼はそのまま川の中に座り込んだ。 白い薄手の着物に着替えて髪をまとめてから、小十郎も水の中に足をつけて入り込む。静かに断ってから持ってきた桶で水を汲むと、頭から政宗の顔にかけた。彼の顔は酷いものだった。真紅で染められた頬だけではなく、髪の間にも血飛沫が飛んだらしく所々に紅が見え隠れする。 突然水をかけられて反射的に目は閉じたが、やはり政宗は何も言わなかった。 二の腕あたりまである透明な清水は彼の身体から瞬時に血を流してくれた。流れた血が一時川を染めるが、すぐに霧散して再び透明に戻る。あまりにあっけなく紅は失せた。 二度三度水をかけられ、顔を布で拭われればもう先ほどまで彼が血塗れであったことなど誰も分からない。いつも通りの雪の色を吸ったような白い肌に戻った。 「…」 周囲を覆っていた鉄の臭いも随分夜気に薄れていったが、変わらず水面を見つめる政宗は言葉一つ吐かない。 水の流れる一定の音だけが包んでいた。時折紅葉や木々の葉が流れてきては彼らを通過していく。 しばらく待ったが彼の状態に回復はなく、血は洗い流せたし清めも終わり、香の焚いた部屋で横になっていた方が気が休まるだろうと小十郎は判断した。政宗を先ほど庭でそうしたように立たせようと思い右手を肩に、左手で彼の手を引こうとした。 その伸ばされた手首を、政宗の力無い右手が不意に捕らえた。しばし沈黙。 「内の熱はまだ収まりませんか」 「…ああ」 ようやく声が聞けた。 口が利けたとなれば今までより少しは気持ちが落ち着いてきたということだろう。未だその視線は水面を見つめていて定まらないが、声ははっきりしていた。 「憎々しい畠山…。あいつ一人を血祭りにしても一向に気は晴れない。…。父上…」 目の前で果てた輝宗の映像が瞬時に瞼に現れる。 空いた左手で自分の右肩を抱き、縮こまって政宗は続けた。 「まだ復讐は終わらない。あんな下郎一匹切り刻んだところで、父上と釣り合う価値などあるはずがない。もっと多くの犠牲を払わせてやる」 「義継には国王丸という嫡子がおります。よって畠山家は今だ健在」 「根絶やしだ」 怒りを噛み絞めた一言だった。 手首を掴む彼の手に力が入り骨が軋むが、小十郎は気にした素振りの欠片さえ見せない。 「しかし義継の物言いからすると…。目的を果たせたことにより、畠山のバックには佐竹蘆名がついているものと考えるべきです」 輝宗の首を討ち取ったため…という言葉を省いて、目的と置き換える。 感情を隠そうともしない政宗を小十郎はそれとなく諭した。 「両者が援軍に駆けつける可能性を考慮しなければなりません。あちら内部の事情は計りかねますが、もし協定が形だけでないのなら佐竹蘆名からも相当な数が参りましょう」 「知るか。俺の狙いは畠山家の絶滅」 「殿、それはあまりに…」 「頼む小十郎。今は何も言うな」 現実的なことなど聞きたくなかった。 彼の胸の内にあるのはただの凍り付いて動かない喪失感と燃え上がる復讐心の二つ。対称的な二つの感情に具体的な数値の計算などが入っては頭の中が今以上に掻き回されて自我が保てそうにない。 自らの肩を抱いていた左手を開放すると、政宗は指先を引っかけるようにして小十郎の水で透ける着物へ伸ばした。苦しそうに顔を顰める。 「もう少し…。もう少し俺に力を貸してくれ。私情で動くのはこれきりにする。以後はお前の助言も聞くし家名を第一と考える。だがこの一戦は譲れない。父上の弔い、この俺の手で…!」 「…。…分かりました」 小十郎は淡々と頷くと、両腕の袖で政宗を上から包んだ。 まるで親鳥が雛を守るようにと言うよりは、追い詰められた主を現実から遮断して囲うような仕草だった。袖の先が水を吸う。 やがて、政宗が縋ったまま小さく尋ねる。 「狂っていると思うか…?」 小十郎は声にも表情にも何の変化もなく、当たり前のように否定した。 「いえ。私は殿が幼少の頃から傍におります。周囲がどうであれ大殿へのお心も当然のこと。また畠山の愚行、許し難きものでございます。お怒りもごもっとも。何の不思議もございません」 「…」 その言葉を聞いて政宗は胸を撫で下ろし、瞼を閉じた。 「殿。その身は心身共にお疲れです。早々に御休を」 「ああ…。流石に今日は身体も思考も鈍いのが分かる。…だがもう少しここにいたい」 「畏まりました」 「父上…」 水で濡れた政宗が涙を流したかどうか。 小十郎は離れた水面を見つめていたので分からなかった。 翌日、城内の者が起床する前に義継の無惨な死体は藤の蔓でいくつかの肉片にまとめられ、城下の一角に何の感情もない説明文と一緒に無造作に晒された。 政宗にも小十郎にも命令した覚えはないが、鬼庭が夜に人気のなくなった庭に城の瓦から飛び降りるのを小十郎は障子の向こうから見た。彼は普段の気楽な言動の内に深い情と熱を持っている。それをしたのが鬼庭であっても不思議はない。 どちらにせよ、あの醜い肉片を皆が起き出す前の城外へ出したのは正解だった。 城内にいるのは武士だけではなく、女や戦地に赴いたこともないただの奉公人も多い。白い玉砂利が紅く染まった庭と、宙に漂う鉄の臭いだけで悲鳴を上げ、気を失う者もいるくらいだ。あんなバラバラ死体など見たらどうなることやらと思うと、鬼庭の行動は推奨すべきものだ。 政宗の母親はあからさまな非難をわざと声高々に嘆きながら泣いていたらしい。お前が殺したと政宗を攻めるストレートな言葉も文も送られたが、それらを全て小十郎が遮断する。 義継が殺された噂はあっという間に外へ外へと広がっていく。だが、それと入れ違うようにして外から中へ入ってきた噂もあった。勿論、噂などより何倍も早く優秀な側近はその情報を得ていたため、城下の人々が知る三日前ほどにそれを政宗に報告した。 「殿。遠藤殿が自害との報が」 自室の障子の傍にある太い柱背中を預けて座り込んでいた政宗は、見ていた城外の風景から室内の隅に控える小十郎へと視線を向けた。 輝宗が死んでからというもの、戦の準備を整えている僅かな間を政宗は喪服で過ごしていた。輝宗の部屋から出たがらず、彼の布団で寝起きする。家中の者が見たらその器を疑われるほど女々しい。 泣くことはもうないが、以前よりもより一層周囲に物悲しさが漂っている。それが外で鬼と呼ばれている彼の威圧感を増幅させていた。近寄るだけで今は誰もがその哀しみで脹れあがった気迫に怯える。 輝宗の位牌の前で毎日朝晩一時間近く手を合わせ、宗里へは花を部屋から宙へ放って贈る。風に乗った花は政宗が思っていたほどすぐには落ちず、風に乗って飛んでいく。 それ以外部屋から外には滅多に出ないが、それでも情報は最新のものが小十郎を通じて流れてきていた。 「遠藤が?」 遠藤基信。伊達家家臣の一人だ。 政治に長けた男で、外交なども上手いやり手の遠藤は今年に入って隠居した。家督を継いだ政宗にも仕えていたが、彼は輝宗に現在の地位を与えられたと言ってもいい。輝宗の死が彼の耳に届くやいなや、腹を切ったという。 「は。城門の前に座してとのことで」 「…あいつもか」 話を聞いて政宗は目線を下げたが、口元は僅かに緩んでいた。 遠藤のように輝宗の死を聞いて腹を切るものは、他にも数名いた。隠居したものもいれば現役のものもいる。みな政宗に仕えてくれた男達で逝ってしまうのは哀しいが、彼らが切腹をすればするほどその心意気と忠義心に惹かれる。 それに敬愛する輝宗が如何に人を惹き付け、家臣に慕われていたかと言うことが目に見えて嬉しかった。 「戦の準備はどうなっている。問題はあるのか?」 「万事滞りなく」 「そうか。畠山の事実上動く兵数は今となっては微弱だろう。俺たちの方が多勢だが…」 「我が軍は選りすぐりの兵が八千。しかしその差は問題ではございません。佐竹、蘆名を始め連合軍は一つ一つが我らと同等の数を用意する可能性もございます。援軍を合わせればその数は間違いなく我が軍の上をいくものと思います。どちらにせよ油断ならぬ方が宜しいかと」 「そうだな。陣の予定はできあがっているのか?」 「は」 短く答えたが、小十郎は軍の配置を記した紙を政宗の前には出さなかった。 いつもなら懐から折り畳んだものを今の一言で見せるはずだ。政宗は訝しんで首を傾げ、右手を出した。 「見せろ」 「…」 仕方ないという雰囲気はなかったが、渋るように間をおいてから小十郎は紙を取り出し、畳の上に広げた。 だがその後すぐ、政宗は顔を顰める。広げた紙は横四十センチ程度のものであり、墨で戦場になるだろう観音堂を中心に描かれていた。そこに陣を張ろうと言い出したのは政宗と成実が同時で、本陣をそこに置くことに既に決定していた。が…。 「…何だこの配置は」 本陣の周囲に露骨に張り巡らされた配置は、扇に似た円状。 それは攻めるには適さず、露骨に本陣の守りを固めるものだった。 「どうして俺の周りにこんなにごちゃごちゃと各隊があるんだ。これじゃ一向に攻める気が感じられない。左右に隊を広げろ。俺の守りは最小限でいい」 「しかし…」 「無駄に気を遣うな。観音堂を中心に翼をつくれ。置き石」 柱から身を起こし、広げられた紙に寄りながら片手をまた出す。 小十郎は腰元に下げていた小袋から綺麗な平べったい陶器の石を紙の端にいくつか置いた。それを政宗が取って並べていく。 中心にある観音堂に一番大きな石を置く。政宗が居座る本陣だ。観音堂の正面に瀬戸川の上にかかる橋、その向こうが前田沢という場所になっていた。政宗は左右斜め上に五つずつ小さな石を置く。ちょうど緩やかな「V」のような形だ。 「守りつつ敵を討て。橋を渡ってきた奴らから両方の翼に挟んで叩けばいい」 「本陣の守りは譲れません」 あっさりと小十郎が翼型になった石のうち二つを抜き取って本陣の真正面に置いた。陣が「∀」になる。 「…」 政宗は何かを言いたそうに顔を上げたが、「よろしいですね」という小十郎の一声に不本意そうにしつつも目を反らしてため息をついた。 この陣の構えは橋の向こうからやってくる佐竹、蘆名を初めとする「南奥羽連合軍」と称する連合に対する援軍への構えだった。攻め落としたい二本松城は少し離れた場所にあるが、そちらよりも問題は援軍を凌げるかどうかなので本命の方が手薄になってしまうのは仕方がなかった。 「畠山はまだ俺に対しての恐怖やら動揺やらがあるだろうし、どうせ形勢が良くなってからしか動かないだろう。後ろからの守りと二本松城への対策として国分の隊を本陣前後に置く」 置き石をまた一つ、本陣の背後に置く。 「成実もここだ」 「∀」の下に、成実を示す緑の石が置かれる。 成実は武力に優れていて勇敢なのだが、危なっかしい所がある。戦力としては前線にいてくれた方がいいが、畠山対策に回して置いた方が無難だ。政宗が成実をここに置くのに対しては小十郎も納得できた。 いかに政宗が成実を大切に思っているかが一枚の紙の上で分かる。 「最前線の高倉城には…」 最前線は当然のことながら死亡率が高い。 特に今回は大軍相手だ。恐らく助かるまい。 「富塚殿と伊藤殿を置きましょう」 石を片手に持ったまま顎に手を添え考える政宗の代わりに、小十郎が淡々と続ける。 まるで死亡率やリスクなど気にかけないというようなその素振りに、政宗は頷くだけで済んだ。 「鬼庭は?」 「鬼庭殿は臨機応変な対応ができる方です。その動きは本人に任せましょう。取り敢えずは本陣へ」 「そうだな。…」 大方の配置が決まった後、政宗は石を置いて腕を組んだ。 しばらくして。 「月宮。いるか」 「ここに」 政宗が声を張るでもなくその名前を呼ぶと、声は背後から返ってきた。 先ほどまで彼が寄り掛かっていた柱の元に、黒装束に身を包んだ男が一人、片膝をついて頭を下げていた。顔は黒布で覆われていて、鋭い双眸だけが光っている。政宗は振り返ると膝をそちらに向けた。 「今回は少し厳しい戦になりそうだ。黒脛巾にも動いてもらう」 「黒脛巾」は政宗直属の忍集団。 一体何人で構成されているのかは政宗にも分からない。ただ、長はこの月宮という男だった。彼は小十郎や虎哉同様、もしくはひょっとしたら彼ら二人の以前から政宗の傍にいたのかもしれない。だが彼らの存在に気付いたのは、家督を相続した日だった。宴が終わって自室に戻るとこの男が今と同じように片膝を発てて跪いていた。 いつもは決して表に出てこない彼らまで狩り出すとなると、一見感情にまかせて無謀に見えた政宗でも大きな戦になるのも苦戦も覚悟はしているようだ。同時に、犠牲も覚悟しているだろう。 黒脛巾の存在は伊達軍の中でも知っているのは政宗と小十郎と鬼庭一族だけだ。 「激戦になればなるほど、お前達忍の果たす役割は大きくなる。厳しい戦になりそうだが、頼む。準備を整えて動けるようにしておいてくれ」 「仰せのままに」 月宮はそのままでいたが、政宗が瞬きした僅かな瞬間に消えた。 彼が目の前に現れるたびに去りゆく瞬間を見たいと思うのだが、常にそれを見逃す。ひょっとしたら今が最期の機会だったかもしれないなと、政宗は視線を紙の上に落とした。 「案ずることはございません」 小十郎の声に顔を上げる。 彼は細い指先で置き石を集め、紙を折り畳んだ。 「殿の御為、皆死力を尽くしましょう。今はゆるりと御休下さい。では、皆に新しい配置を広めて参りますのでしばし失礼致します」 懐にしまうと一礼して小十郎が立ち去ろうとする。 政宗は何故か今の言葉に引っかかりを覚え、立ち上がる小十郎を見上げた。 「小十郎」 「はい」 「あまり妙なことはするなよ」 彼は裏で回るのを得意とする。 政宗の知らない所で小十郎の策が用意されていて、それに助けられたことが何度もあった。それどころか、政宗が最初から最後まで気付かないだけで、彼が一つ行動を起こそうとすれば周囲には常に幾重にも小十郎が策を作ってその身を囲っている。 だが、今回のような自軍が不利な状況は今まであまりなかった。そんな中彼の口から出て来た死力という言葉が何故か怖かった。まるで自分の身を挺してまで政宗を守るのが当たり前とでも言いたげな口調の気がしてならない。 主従という関係ならそれは当たり前とも言えるが、最初からそのような心持ちでいて欲しくない。 政宗の言葉に、小十郎はやはり表情を変えず目を伏せて会釈をした。 「失礼致します」 「…」 否定の言葉は聞けなかった。 小十郎が自分を第一として考えてくれているのも理解してくれているのも分かるが、逆に理解されるばかりで政宗には彼の心の動きがよく分からない。沈着冷静な素振りは横にいるだけで政宗を落ち着かせてくれるが、何故そこまで自分に忠義を尽くしてくれるのか。 気がついた頃から小十郎は異常なまでに政宗を守り、持ち上げようとする。何とも不思議な側近だった。 正直なところ、政宗は今度の一戦で勝っても負けてもどちらでもいいと思っている。 伊達家の当主として決して口にしてはいけない考えだが、連合軍を相手に勝てる可能性は低い。輝宗の仇はとりたいが、それが駄目なら駄目で一刻も早く天に向かった父親の後を追いたかった。 「…戦か」 畳の上に胡座をかき、政宗は離れた障子の向こうの城外へと目を向けた。 もう少しすれば雪が降り出してもいい頃だ。白く染まったこの地方は、それはもう例えようもなく美しい。人が空や海を見て心のゆとりを取り戻すのと同様、政宗は雪の白を見て人間の小ささを昔から何度も認識してきた。 「父上…」 今だ未練の残す川沿いの出来事を頭の中で思い出しながら、政宗は一人項垂れた。 城の木造廊下を小十郎は音もなく歩く。 今の時間、政宗の部屋の傍を歩くのは彼だけだった。 『月から影へ。ご意見があればどうぞ』 不意に誰もいない小十郎の周囲から姿の見えない曇った声がする。 影とは小十郎。月とは先ほどの男、月宮のことだった。黒脛巾の一人が言伝を伝えに来たらしい。 月宮率いる黒脛巾は間違いなく代々伊達家当主直属の軍隊だ。命令権は政宗だけが持っている。だが、月宮は個人的に片倉小十郎という男をとても信用していた。まだ若いが、何手も先を見る目を持っている。 彼の意見を聞くことは重要なことだった。だが聞くだけで、必ず動くとは限らない。あくまでも彼らの主は政宗只一人だ。意見を聞いて、動くかどうかは月宮自身が判断する。 小十郎はスピードを緩めず、何事もないような顔で歩きながら何処からともなく聞こえる声に返す。彼が歩いているにもかかわらず、声は常にその周囲から響いてきた。 「殿の仰る通り、当日は是非その力を振るっていただけばよろしいかと思います。ですが一つ、お願いがあります」 『…どうぞ』 「黒脛巾の所から一人、飛び出て優れた者を一人でいいので当日殿のお側に」 『一人で、よろしいのですか?』 「ええ。できれば機動力がある者が望ましいでしょう。そして小舟を一艘」 『言伝、承りました』 声が立ち去ろうとした矢先、小十郎がふと足を止めた。 「…すいません。それから、もう一つ」 穏やかな口調で、彼は二つの頼みを黒脛巾に託した。 全て聞き入れてくれるのか、一つのみなのか、それとも全て流されるか。 それは当日まで月宮を初めとする黒脛巾しか分からない。 そして十一月の半ば。 連合軍は北上を進めている。 時は、瀬戸川を挟んで起こるであろう勝率の低い戦開始へと、着実に秒針を進めていた。 |
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