人取橋合戦 >> 月下の涙 第六章 | ||
一五八五年、十一月十七日。 戦の幕は夜明けと同時に上がった。 三方から北へと上ってくる連合軍の勢いは凄まじく、何百メートルと離れていると言うのにその声は本陣にいる政宗達の元まで地鳴りのように響いてきていた。まだ始まったばかりだというのに、戦独特の周囲の空気が絶え間なく踊るようなざわついた感覚がその場にいる全ての人々へ苛立ちと焦りを与え、無意識に各々が武器を持つ手に力を込め始め、恐ろしく思うはずの戦を心待ちにするような心境に陥る。 全身漆の鎧に身を包んだ政宗は月にも似た飾りが付く鎧を被り、それらの空気によって掻き立てられる感情を抑えるかのように本陣中央の腰掛けに座ったまま目を閉じていた。 彼の目の前にある木造の大きな机の上にここ一帯の地図が広げられ、先日自室で彼がそうしたように青と赤二色の置き石を広げて戦の状況をそこに再現していた。紙上に広げられるその置き石だけを見ても、圧倒的な兵差が分かる。白い和紙の上、連合軍を示す赤が伊達軍を示す青を取り囲み、目に痛かった。 それなりに距離を置いている連合軍は、川の向こうに三方から凄まじい勢いで突っ込んでくる。数に任せての策も何もない猪突猛進だが、その威力は絶大だった。 政宗がいる本陣、観音堂まではまだ距離がある。しかし、あの三つの大軍が橋を渡り終えられてしまったが最後。その時点でもう自分たちの負けであると政宗は覚悟していた。 そして敗北の時は徐々に徐々に彼らに迫ってくる。 既に地図の上では川の向こうの最前線、高倉城が佐竹の主軍を示す大きめの赤い置き石五つに囲まれていた。その前には城の元に置かれている青い置き石二つはあまりに無力だった。 「高倉城、落城!連合軍主軍、前田沢を進み一橋へ進軍!」 政宗のすぐ背後で、いつもと変わらぬ白い戦に似合わぬ神服で小十郎が声を張る。 恐らく忍からどういう方法かは知らぬが報告を得ているのだろう。政宗の後ろに控えたまま、戦が始まると同時に時折彼は沈黙を破って遠く離れた戦地の状勢を、声を上げて報告する。地図を囲んでいた部下達はそれを聞いて、無感情に青の置き石二つを取り除き、赤い置き石を川の近くへと動かした。 「富塚、伊藤…。破れたか」 政宗の呟きは小十郎にしか聞こえなかったが、その顔は動かなかった。 迫ってくる恐怖など素知らぬ風に、彼の内心は冷えていた。両翼に構えた陣は連合軍の大軍を止められぬことなく近いうちにここへ来るだろう。 連合軍が川を渡れば、死はもうすぐそこだ。 「…小十郎」 「は」 不意に名前を呼ばれ、小十郎は一歩前に出て背を丸めて耳を近づけた。 政宗は前を向いたまま恐れることなく彼に頼む。刀鍔で隠れた右目を残し、細く真っ直ぐ正面を見つめる左目には妙に澄んでいた。 「討ち死にすればそれでいい。だが、もし俺が生きたまま捕らえられそうになった時は、背後からでも毒薬でもいい。一思いに殺してくれ」 槍や鉄砲で討たれるのはともかくとして、捕らえられて拷問見せしめなど彼のプライドが許せなかった。どんなに若くても自分は誉れ高き伊達家当主であり、何と言っても尊敬する父親、輝宗の息子。自分が敵に捕らえられることで、父親の名にまで泥を塗りたくなかった。 車に町中を引かれ、槍で左右から刺され続けて絶命すれば、死後の姿はそれこそ幼少の頃より何倍も醜く血と砂で薄汚れているだろう。それならば胸を一つ貫かれたり、毒で眠りについた方が姿形は汚れない。天で輝宗に逢う際にまだいいだろうと考えた。 戦で主に刃を向け、毒をしこんだ小十郎はさぞ敵味方を問わず非難の嵐に遭うだろう。周囲には忠臣として通っている小十郎だが、この政宗の頼みを聞き入れれば一気にその名声は地に落ちる。しかし彼は頭を下げて肯定した。 「畏まりました。しかし、それは最期の手段。そうならぬよう、我らはお守りするのみでございます。どうかそのようなことを仰らず、何としてもその命お留め下さい」 「そうできればな」 そんな彼らの周囲の空気が、突如緊迫感を増した。 政宗を始め周囲の者たちも一瞬でその変化に気付き、それと同時に今まで遠かった声が近くなってくる。 「殿。三方軍、前田沢を過ぎ瀬戸川、一本橋へ進軍!」 「来たか」 小十郎の声に、政宗はゆっくり立ち上がった。 先ほども述べた通り、橋を渡りきればそれで終わりだ。留守や原田といった家臣が観音堂前に張り巡らされてはいるが、恐らく通用しないだろう。あっという間にここに来る。 「月雀!」 本陣前に繋げてあった黒馬の名を呼ぶと、黒馬は主の声に過敏に反応して周囲を囲っている布を擦り抜けて政宗の傍へ駆け寄ってきた。 馬の鼻先を撫で、政宗は額を寄せる。 この黒馬には随分世話になった。ここで命を終えてしまうにはあまりに惜しいように思うが、彼はこの黒馬でなければ跨ろうという気にならない。跨り、駆けると自分が風になったように錯覚するほどの駿馬だった。見た目も漆黒の艶やかな毛並みが揃い、漆の鎧をまとった政宗が乗るとその姿は漆黒で、兜の飾りだけがまるで深い夜に浮かぶ月のようだった。 黒馬は甘えるように政宗の額に二度ほど擦り寄る。 それが共に散ることへの同意のような気がして、彼は額を離すともう一度その鼻先を撫でた。 「…行こう」 跨ろうと足をかけたその時…。 「殿!」 小十郎の一際大きい声が彼の動きを止めた。 手綱を手にしたまま振り返るのは政宗だけではない。その場にいた全ての者が小十郎の声に動きを止めて注目した。視線の中、彼は政宗の方を向きながら卓上の地図を片手で示しながら言った。 「成実殿、一橋付近の瀬戸川館にて在陣。只今進軍して参ります連合軍に向かって進み出ております」 「成実だと!?」 地図の元へ歩みを進める小十郎について、信じられない報告に政宗も黒馬から離れると歩調を強めて戦場の縮小図である地図上の置き石へ目を向ける。 「どういう事だ!成実は畠山の所へ回したはずだぞ!」 成実を示す置き石は、彼らのいる本陣より後ろに今も設置していた。 だが、その畠山対策へと回しているはずの成実がいつの間にか本陣の察知しない所で動き、何と一橋へと侵入して渡りきろうとしていた連合軍に横から押し進んでいると言う。予想外の伏兵が突如として現れる。 畠山対策としてはもう一人、国分という者が待機しているので成実が移動したところで十分と言えば十分だが、政宗の考えではそこに成実を置くことで彼の安全を重視したはずなのだ。それが突然、正面ではないにしても、全く正反対の前線近い場所に現れた。 慌てて部下たちが瀬戸川館へ成実の軍全ての駒を移動させようとしたが、それを小十郎が制した。 「待て!…殿。どうやら成実殿の隊、全てそちらへというわけではない様子」 「何だと…?」 「部隊を分けられたようです。国分殿の傍、本来待機命令が出ていた場所に三十を残し、そのまま今いる瀬戸川館へ進む途中、岩角城、本宮城へと部隊の過半を残していかれたようでござます。お陰で城の守りは上がりましたが、しかしそうすると今の成実殿は…」 「…ばっ…!」 それを聞いて、政宗は顔色を変えて絶句した。 本宮城、岩角城は政宗の本陣背後にある城二つだ。もし観音堂が落ちたとして、政宗が撤退するとならば必ず本宮城か岩角城へ戻るだろうと考えた成実は、兵力の過半数をその二つに分けてその二城へと置き、本来の半分以下の隊数で瀬戸川館へと走ったらしい。 元々軍数は多い方だったと言っても、それは伊達軍の中で比較した場合だ。連合軍の前ではあまりに少人数。更に隊を分裂したのなら、その数はあっという間に蹴散らされるに決まっている。 「馬鹿かあいつはッ!」 激怒を押し隠せず、彼は力任せに両手で机を叩いた。 置き石達がその振動で跳ね上がる。 「何て勝手な真似を…!」 政宗は前屈みになると机の上に肘を立て、奥歯を噛みしめて片手で顔を覆った。 頭の中が白く染まりつつある。混乱し始めているのが自分で分かり、政宗は首を振ってそれを自ら制した。予想外の成実の行動にさっきまではあまりなかった絶望感が脹れあがる。自分が殺されるよりも、幼い頃からの友人が討たれる方が彼には恐ろしかった。 しかしそれも一瞬。こんなことをしている場合ではなく、彼はすぐに顔を上げると右手を振って伝令を呼んだ。輝宗が殺され、宗里が撃たれ、これ以上成実まで失うのは耐えられない。 「すぐに撤退させろ!無理に決まってる!!」 「はっ!」 「くそ…っ。くそ…!退かせろ、何としても!あいつを討たせるな!」 「…」 伝令が走ってその場から駆けていくが、成実は恐らく今いる場所から退かないだろうと小十郎も、そして命令を出して身勝手な行動を取る彼を罵る政宗自身も考えていた。 とにかくあの成実という男は頑固だ。いや、まだ男と言うよりは彼もまた少年。ついこの間生誕日が過ぎ、政宗と同じ十八だった。心に影を持つ政宗はその影と幼い頃からの教養の積み重ねでそれなりに大人びた判断が可能だ。そしてそれが長所でもあり短所でもある。一人を犠牲にして十人が助かるのなら、苦しみ悩んだのち一人を見捨てる。だが、成実の場合は違う。何としても十一人が助かる方法を探そうとする少年だ。 彼の中にあるのは政宗に対しての友情と家臣としての忠義のみ。たったそれだけで無謀ができる年相応の若さに溢れていた。だからこそ、今回のような信じられない行動すらも何の躊躇いもなく取れたのだろう。 「成実…っ」 机に両手を載せ、再び政宗は俯いて唇を噛んだ。 一際強い風が吹き、周囲の旗や本陣を囲んでいる布が揺れる。その風に反応するように、ぴくりと小十郎が顔を上げて再び声を張る。 「連合軍の足、一橋で停止!」 「停止?…馬鹿な。何があっても足が止まるような兵数ではないはずだぞ。真っ直ぐここに来るはず…」 背後にいる小十郎を肩越しに振り返り、政宗が独り言のような声とともに眉を寄せる。 耳のいい側近はそれを聞き逃しはしなかった。 「殿…」 「…!」 その発言を聞いて、小十郎が僅かに顔を険しくして政宗を見据えた。 まるでここに敵軍が来るのが当たり前という考えが元にある今の言葉に、小十郎は目の前の主の内心を一瞬で読み取った。彼の双眸が変わったのに気付き、政宗ははっと自分の失態に気付いて机の上に載せていた片手を口の前に添えようとしたが、それすら動揺を見せる行為なので途中で止めて固まる。 「何をお考えか私には分かりかねますが…。今はこの戦を凌ぐことだけをお考え下さい」 「…」 言葉少ない彼の双眸にあまりに責められ、政宗は顔を反らした。 だがその瞬間、がらりと小十郎の中で今までの思考が一変する。今の政宗は戦に勝つ気も凌ぐ気もあまりないようだ。それどころか、家臣を残して自分だけが早く討たれるようこの場所に真っ直ぐ連合軍が突っ込んでくるのを望んでいるかのようだ。 軍の頭であるはずの政宗にそのような考えがあるのであれば、その政宗を守るため、小十郎は全軍の指揮を自分に集める。 苦虫を噛み潰したような表情で俯く政宗に断ってから一度離れると、彼は本陣幕の外に出て自らの忍を呼んだ。 「ここに全軍を集中させます。畠山対策に回る者と成実殿以外の両翼体勢になっている全ての隊が本陣前に集まるよう伝令を送りなさい。何としても観音堂は守り抜きます」 「承知」 忍は深く頭を下げると瞬時にその場から消えた。 今小十郎の前に出て来た男は一人だが、彼から抱えている全ての忍へと言伝は広がり、それは今左右を守っている全隊へと通達される。時が経てば広がっている各隊が一斉に本陣があるここ、観音堂前に集結されるだろう。全軍が固まっているとなれば、いかに大軍とは言え破るのは骨が折れるはずだ。 橋は横幅に限界がある。つまり、一定量ずつしかこちら側に送り込めないのだ。少しずつ送られてくる兵ならば、全軍を集結すればそれなりに対抗できる計算になる。 成実を除いたのは、彼が守りよりも攻めに長けているからだ。一本橋を渡った連合軍は真っ直ぐ今政宗がいる観音堂へ進みたいはず。だが、川沿いにいる成実の隊はその進軍矢印に真横から入るような形になっている。これは非常に敵の陣を崩すのにも混乱を招くにも効果的なやり方だった。そこを本陣に集結させた全軍をもって叩けば、微かな勝機が見えてくる。 ふと橋の方へ目を向ける。まだ遠く肉眼で戦の状況は確認できないが、砂煙が上がっているのは分かった。風と人の志気と狂気とが砂埃と一緒に空に舞い上がっている。血の匂いがふわりと香のように仄かに漂ってきていた。それに寄り添うように火薬の臭いも。 荒れているらしい前線を小十郎は睨んだ。日頃の無表情とは打って変わってはっきりとした敵意を込めた眼差しは、氷のようなと表現するよりも火のようなと表現をするよりも、寧ろ先日主を守って撃たれた宗里に似ていた。鷹や鷲というような獰猛な鳥類に近かい。 澄んでいるが、それ故に遠慮も容赦もない双眸。 「何としても守り抜く」 一人噛みしめるように呟き、小十郎は再び別の忍を呼んだ。 |
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