人取橋合戦・弐 >> 月下の涙 第七章 | ||
「殿!」 「…!」 声とともに、傍にいた小十郎は政宗の腕を突然強く引っ張った。 痛みに顔を顰めて前によろける彼の背後に橙の光が一筋流れ、今さっき彼がいた場所を通過して本陣の後ろ幕を貫き、消えた。それが鉄砲の鉛玉であると分かった直後、政宗は抱き留めた小十郎から振り向き様に今弾が飛んできた方…。本陣前方の連合軍が進軍してきている方へ目を向けた。 いつの間にか連合軍の先頭が観音堂目前まで迫ってきていた。本陣前に設置した部隊が対応に当たっている。小十郎の言伝によって集結された伊達軍は既にその目的を攻撃から守りに変更していた。守りながら攻めようとするのと最初から守りを徹底するのとでは、守備力に天と地ほどの差が出る。 成実隊も鬼庭隊をも抜けてきた連合軍の精鋭達はここにきて一枚岩のように凝固する伊達軍に足を止めざるを得なかった。必死に抜け出ようとするが、なかなかできないらしい。 今の鉛玉は政宗を狙ったわけではなく、流れ弾のようだった。 だが、危険がすぐそこまで迫っていることに変わりはない。 「もうここまで来たか!」 漆の鎧に身を包まれた政宗が、今度こそ黒馬に跨る。 その顔には徹底的に連合軍に足掻こうとする意思が表れていた。手綱を握って刀を抜く。自らの隊を突撃を支持しようとしたその時、傍で今だ地に足をつけていた小十郎が白い衣を血生臭い風にそよがせて、行く手を塞ぐように佇んだ。 小十郎が自分を塞ぐという考えは頭になかったのだろう。政宗は最初何事かと思って彼を見据えたが、それが自分を前線に行かせまいとする行動と分かると刀を振って怒鳴った。 「何の真似だ小十郎、退け!」 憤る政宗を落ち着かせるようないつもより低い声で口を開く。 「この戦、今だ勝敗が決まったわけではありません。自軍の有利を向こうは承知でしょうが、連合軍主力の佐竹が最後尾にいるという報が入っております。我ら伊達を相手に向こうは今だ小手調べの様子。ですが敵の先鋒に早々に殿が姿を見せたとなれば、敵はこちらの限界を知りなおも勢いを増しましょう。もうしばらくその身、ご自重下さい」 政宗が姿を現せば、追い詰められていることを敵に悟られる。 小十郎の意見は分からなくもない。しかし政宗は撤退など考えになかった。家臣達は今も彼を守ろうとすぐそこで死力を尽くしている。その背後でただいるだけというのは、彼自身が許せなかった。 しかも彼はこの戦、敗北を確信してしまっている。駄目元での自分の意地と我が儘に家臣達が死傷するのが耐えられない。だが。 「死守を思い、殿を守る我らの意思を無駄になさるおつもりですか」 小十郎の正反対の一声が彼を黙らせた。 政宗は自分が出ていくことによって家臣達の犠牲を少しでも少なくと考えているようだが、既に彼らは死を覚悟でその政宗を守ろうとしている。今政宗が現れ、討たれでもしたら折角の彼らの今の努力も犠牲も一瞬にして泡と化す。 「足掻くのなら最期まで。今はお退き下さい。本宮城ならばまだ安全でしょう。成実殿が残していかれた守備隊もおります」 「殿、それが良い。片倉殿の言う通り」 今まで二人の遣り取りを本陣の隅で聞いていた老人が、一歩前に出た。 「鬼庭殿…」 政宗が視線をそちらに向ける。 茂庭良直。綿の帽子を被り、老けた男は輝宗の頃から続けて政宗に仕えている老将だ。閉じているかのように見える細い目の周囲には過ごした年と同じ分だけ皺が寄っている。鬼庭の父親である彼は家臣の中でも古株に属していて、他の家臣もそうであるように彼の言動を政宗も重く見ていた。息子の鬼庭に対し、こちらは政宗ですら敬意を表する。 「しかし鬼庭殿、そうは言うが俺がこの場から去るのは主としての誇りが許せない。俺はこの場にいて皆を取りまとめる義務がある」 「逆でございます。御身に宿る義務はこの場にただおることではござらん。討たれぬことにございます。今は何卒、本宮城へ。本陣は何としても我らが食い止めましょう」 「殿、城へ」 良直とともに小十郎も畳みかけてくる。 二人に反対され、それでも政宗は首を振って拒んだ。 「冗談じゃない!元々これは戦力差も考えない私情での戦だ。お前らを置いて俺一人逃れるなど…!」 「何と!」 彼がそう言った途端、良直が血相を変えた。 「私情!?私情と申されるか!」 その声に政宗は驚いて馬上で声を止める。 彼の正面で槍を片手にする老将は一歩前に詰め寄った。 その全身から滲み出る気迫に黒馬は政宗を乗せたまま尾を揺らして数歩後ろに下がった。よほど心外だったのだろう。ドンッと槍の下を地面に音を発てて置き、しわがれた声を張る。 「殿!先代輝宗様の死、まさか御身だけ哀しみに暮れておるとお思いか!この戦、先代に仕えた儂ら老いぼれ皆にとっての仇討ち。遠藤殿を始め、自ら後を追った者の願いをも矛に込め、我らはこの場におるのです。私情などとは我らの先代への忠誠に対する侮辱もいいところ!お考え、改め下され!!」 良直の言葉は政宗にとって衝撃的だった。 今まで、彼は輝宗への情が強いあまり、奈落の底を彷徨うような心境でいるのは自分一人だと早くから感じてしまっていた。しかし考えてもみれば如何に親子以上の絆があろうとも、輝宗と繋がっているのは政宗だけではなく、彼の生まれるずっと前から何十年も傍にいる男達が五万といる。 彼らを代表する良直の言葉は、今更になって政宗にそのことを気付かせた。 ずらりと平伏して彼らが忠誠を誓っていた輝宗の姿を幼い頃から見て、彼らに対しても自分に対しても変わらぬ優しい物腰と政宗は心から尊敬したことを思い出した。今の発言こそが、私情に背中を押されての戦に家臣を巻き込むよりも、何倍も罪深い言葉だった。 「すまん、鬼庭殿。俺は何て身勝手な…」 「…!」 政宗が良直を通して家臣全てに謝罪をしようとしたその時、小十郎がぴくりと顔を上げた。 長い袖を広げ、ザッと砂を蹴って政宗の正面を塞ぐように飛び出す。 「小十…!」 政宗の視界が彼の束ねた黒髪と白い衣によって覆われるその一瞬の間に、小十郎は右腕を一度引いて、何かを払うように振った。 キンッと乾いた音が一つして、地面に何かが叩き付けられた。政宗も良直も地面に落ちたそれへ目を向けると、一本の折れた矢が視界に入った。 先ほどは鉄砲だったが、今度は矢。その射程距離は大きな差があり、鉄砲での流れ弾はまだ分からなくはないが、矢が飛んでくるとなると本当に連合軍は目と鼻の先に来ているようだ。 「小十郎!」 衣をまとった腕一つでスピードにのった矢を弾いた側近を心配し、政宗が声をかける。 だが小十郎は動揺など微塵も見せず、彼を振り返った。 「私は大丈夫です。それより殿、お早く本宮城へ。お着きになりましたら装備を調え、そちらで迎え撃つ準備をなさって下さい。我らは後ほど…」 「来ますぞ!」 「!」 良直の声に、小十郎も政宗も会話を止めて正面を向いた。 そこに、まるでタイミングを計ったように数本の矢が一斉に彼らの上に降り注ぐ。 「く…っ」 前足を上げて驚く黒馬の上で何とかバランスを取りながらも、反射的に政宗は腰から刀を抜いてそれで矢を二本、連続して叩き落とした。 前にいた二人もそれぞれ槍と脇差でもってその他の矢を一つずつ払っていた。残りは彼らの所から僅かに狙いがずれていて、周囲の地面へ飛んできた角度をつけて射し込んだ。 遠くから敵将と思しき太い男の声がする。 「観音堂におわす伊達政宗!無意味な抵抗など続けても意味などない!潔くその姿、我らの前に晒されよ!」 政宗はその声に舌打ちして眉を寄せた。 無礼極まりない誘いだったが、ここで反論しても意味がない。実際に伊達軍は連合軍の前に手も足も出ていないのだから。ここまで押し寄せてこられては、流石に政宗も言い返せなかった。 それに、ここまで敵が迫っていては撤退もできない。本宮城はここより背後の南にあるとは言っても、一度観音堂の門を出なければならない。おそらく今声を発した敵将や味方の軍はその辺りで戦っているだろうが、そこを通過しなければ本宮城はおろかここ本陣からも出られない。袋の鼠だ。 「突っ込むしか…」 そう言い出した政宗の隣で、良直が近くに繋げてあった自分の馬に飛び乗った。 槍をくるりと回し、天高くその矛先を突き上げてもう片方の手で手綱を操り馬の脇腹を蹴った。馬が乱暴な命令に地を蹴って疾走しだす。 「拙者が退路を確保しましょう!」 当たり前のように兜も被らぬ老人は部隊を引き連れて先走っていった。 この状況での退路確保は至難の業だ。ごちゃごちゃと敵味方入り乱れるその中を、政宗が通る道を確保するため人の壁となって戦わなければならない。成実のような若武者で鎧兜をまとっている者ならばともかく、彼のように軽装備の隊にそれは向かなかった。 「皆の者―ッ!大役じゃ!何としても御道を確保せい!」 「鬼庭殿!待てそれは…!」 「今です、殿!お駆け下さい!」 政宗の言葉を遮って馬に跨った小十郎が右手を振るい、彼を強引に促した。 危機的この状況の中、撤退は一瞬一瞬の隙を見つけられるかどうかが勝負だ。他のことに気を回している暇などない。それに、制止の声も戦の喚声に飲まれて既に良直には聞こえない。元より聞くつもりなどないだろう。厳格な老人は躊躇うことなく敵陣の前に駆けていった。 「…っ」 その隊の背を見て、政宗も唇を噛んで黒馬の腹を足で蹴る。 「走れ月雀!一気に駆け抜けろ!止まるな!!」 黒馬は前足を上げて声高々に嘶いた。 さっきの矢に臆しての動作とは全く違う、きちんとした自分の指命を理解した動作だった。手綱は片手にし、抜き身の刀を右手にしたまま政宗は疾走する。その背後を茶色の馬に乗った小十郎も付いて回った。 先に出た良直は勢いづいており、たった数秒で退路を確保していた。 だがそれは今一瞬だけだろう。最初の勢いに敵が僅かに動じてしまっただけで、すぐにまた逆転される。しかし、この一瞬でいいのだ。たった数秒、政宗が通れればそれでいい。 観音堂の門を、政宗が自らも寄ってくる敵を払いながら風の早さで数人の部隊に囲まれて敵の目の前を通過する。 「感謝する!鬼庭殿、感謝を…!」 観音堂を出た政宗が精一杯声を張って良直に伝えようとするが、それもやはり喚声に消された。 だが声は伝わらずとも、長年輝宗という先代の元で政宗を見てきた老人は彼がこのような時に何を思っているのか、もう言葉などを媒体にしなくても理解していた。 通常、家臣相手に感謝するなどと言わないものだ。良くやった、が打倒だろう。しかし、輝宗を傍で見てきた政宗にはその言葉に抵抗がない。真っ直ぐな…。そう、まだ少年だ。 彼が病気にかかり闇に閉ざされた一室で現実から逃げるように勉学だけを貪っていたその時、幼いその傍にいたのは輝宗、虎哉、小十郎の、本当にたった三人だった。母親にすら見捨てられた政宗に多くの家臣は手を差しのばしたかったが、結局は傍観者に留まってしまった。 それを、今だ良直は悔いている。だから政宗が家督を継ぐ時、老人は嬉しかった。あの時の自分が手を差し伸べられなかった分を、取り戻せることができるのだから。過去は輝宗を主に持つことが自分の誇りだったが、今は父親と同じく心優しい政宗が主であることにそれと同等の想いを胸に抱えていた。 そして、今がその償いを示せる絶頂の時だった。 彼を守るために身を捧げるなど、彼にとっては当たり前。何の躊躇いもなかった。寧ろ光栄なくらいだ。 例え何本という矢が胸に腕に射られようとも、何十という矛先が自分に向こうとも。 「元より先の知れた老いぼれ。戦で散るのが拙者の望みよ」 口から胸から腕から血を流し、良直はなおも咆哮した。 「さあ来い、童共!貴様らなどに殿を討たせて堪るか!!」 空気を振動させるような巨大な声が観音堂前に響いた。 その声は、その場を去っている政宗の耳にまで届いた。 「殿、今は前だけを」 振り返ろうとする彼を、小十郎が咎める。 「…っ」 政宗は悔しそうに俯き、それでも黒馬を走らせた。 良直は奮闘し無事に政宗を観音堂の外へ出したが、だからといって敵の目に留まらなかったというわけではなかった。あの良直の奮闘の背後で駆ける黒馬と漆の鎧を見、後を追ってきた数十人が彼らのすぐ背後に迫っていた。 「伊達政宗―!覚悟―!!」 空気に飲まれ、狂える戦人が矛を向けて馬で追ってくる。 その中の一人が叫んだ声に一度だけ背後を振り返ると、小十郎は駆ける政宗の傍に馬を近づけて、言った。 「殿、このまま本宮城へ。…どうかご無事で」 「…!小十郎!?」 それだけ言うと、小十郎は政宗から離れた。 そしてあろうことか、大きく馬を迂回させて向かってくる六十ほどの敵隊へと一人突っ込んでいった。馬上は体勢を整えるのが難しく、刀はあまり使えない。長い槍でも持っていれば別だが、小十郎にある武器と言えば腰の脇差と刀、そしてその中間ほどの忍刀と呼ばれる三本だけだった。 くわえて防具。小十郎は他の武将と圧倒的にその装備が違った。兜だけはかろうじて被ってはいるが、胸や腕を覆うものは必要最小限。戦地にでは信じられないくらいの薄手で、神職に似通った衣は白く、裾も袖も広がっていた。圧倒的に不利だ。 一緒に本宮城まで戻ると思っていた彼が離れ、政宗は目を見開いて驚愕した。しかし追われる政宗は馬を止めることは許されない。 「…!!」 一言二言、政宗が何かを叫んだ。 「仰せのままに」 戦風に飛ばされやはり全く聞こえないはずだが、小十郎はまるで目の前に主がいるかのごとく恭しく会釈をした。それが終わると、目の前の敵へと目を向ける。 無感情だった双眸には瞬時に冷酷さが宿っていた。 まるでその場の空気が下がったと思えるほど、彼の目を見た敵兵は寒気を覚えた。向かい合った小十郎は正面から走ってきていたが、途中くるりと向きを変え、右方向へと真横に駆け出した。首元にかけてあった布で口を覆う。 「伊達軍参謀、片倉小十郎影綱だ!討ち取れー!!」 逃げるものと思い、向かってくる一団の背後の方にいた弓騎馬が弓を構えて矢を横に走る小十郎に向ける。狙いを定めて走る彼に射ったが、肩に当たったはずなのにまるで矢が彼を拒むように当たってすぐに地面に落ちた。 「何!?」 味方軍から放ったその矢を、追ってくる一団全員は見ていた。 敵兵達の間に動揺が走る。 「…」 その瞬間を見逃さず、小十郎は横に走りながら衣の右袖を大きく彼らに向けて振った。 途端に、その袖の中から飛び出した灰のような細かい粉末が、音を発てて彼らの周囲の空気を染める。ただでさえ砂埃が上がる戦地に、ここ一帯にだけ灰色が相まった。灰色に染まった空気を吸った途端、先頭にいた敵兵の一人の視界が急に涙で滲む。 「な、何だこれは!」 涙を流すのは彼一人ではなかった。 背後から着いてきた者たちも一定の場所に足を踏み入れるなり、途端に涙が溢れて視界がままならなくなる。涙だけではなく、身体がその粉に反応して決して体内に入れまいと激しく馬上で彼らを咳き込ませた。 手綱すら持っていられなくなり、命令を失った馬も同じように首を振るって痛みを伴う目を何度も瞬きしていた。数頭の馬は暴れだし、落馬する者も出てくる。 「薬学の心得か…!皆の者気をつけろ!ここに一人妖しげな薬を使…う、うわあ!」 灰色の粉にやられながらも雄々しく叫んでいた一人の声が途中で途切れる。 先頭にいたその男は馬上の上から真横に倒れてどさりと地面へ落ちた。落馬したところを混乱した馬に踏まれ、腕の骨が折れる音と絶叫が響く。 彼の正面に大きく迂回し、さっきとは真逆に彼らの正面を横切るように疾走する小十郎がいた。先ほどは右手を出していたが、今度は逆。隠れた左袖を大きく振る。 手から僅かな黄色の粉が飛び出した。先ほどの灰色の粉と比べると色は薄く量も少ない。あっという間に砂塵に溶け込み、見えなくなった。だが、その粉の影響は顕著だった。 一団の前方の馬が数馬、急に膝を崩して敵兵を背中に乗せたまま横に倒れた。兵達は慌ててバランスを崩し共に落ちる。 「な…。な…ぁ」 ぬかるんだ地面に崩れ落ちても、人も馬も立てなかった。ろれつすら回らない。 馬が何とか立とうと前足の裏を地面に着けるが、生まれたての子のように立てずに何度も崩れ藻掻いている。その横で人は急速に唇の色を桃色から紫へと変え、ぴくりとも動かなくなっていた。 猛毒だ。 「…」 風と共に流れていく毒にばたばたと前から後ろへ倒れていく人をまるで汚いものでも見るかのように小十郎は眺めていたが、一団の後方にいた敵兵達が一斉に馬を降りると、彼を目指して足で駆け出した。その口を全員何かしらの布で覆っている。 馬は既に使いものにならなくなっていたようだ。 「敵も馬鹿ではないか」 呟くと、彼もまた敵兵達に向かって駆け出した。 距離が近くなると途中でひらりと馬の背から地面へ飛び降りる。騎馬隊を相手に人の足では対抗は難しいはずなのに、自らに有利な状況を彼は自ら投げ出した。平等な勝負をするためではない。圧倒的な力を見せつけるためだった。 「片倉小十郎!覚悟!」 槍を構えた四人がそれぞれ間を空けながら順番に彼に向かって突っ込んでくる。一人は距離を取って弓を引いていた。 それらを瞬時に確認すると、小十郎は自分も腰から刀を抜く。リーチの長い槍と比べるといささか不利だが、彼は全く臆していなかった。冷ややかに双眸を細め、口元から布を首に落として刀を構える。 「いざ」 だが、彼らの矛よりも先に飛んできたのは矢の方だった。 地面を蹴って駆け出すとともに左腕で矢を叩き落とす。刀で払っていてはこちらに攻めてきている三人への対向が遅れたからだろう。 一人目が大声を上げながら槍を突き出し、小十郎の足を崩そうと左腿を狙う。だが刀でその矛先の向きを変え、残念ながら槍は誘導されて小十郎の横ぎりぎりを通過した。勢いよく振った槍だったらしく、敵兵の身体が遅れてその流れに持って行かれる。その隙に、彼の脇腹を刀で裂こうとしたが、二人目が大きく振りかぶって小十郎に飛びかかってきた。 「…!」 右手に持つ刀を頭の上で横にし、二本目の槍を防ぐ。 キィンッというどこか神々しく響く音がすぐ目の前で弾けた。だがその一方で小十郎の左手は腰から忍刀を抜き取り、最初に思った通りそれで一人目の脇腹を引き裂く。普段利き腕として使っているのは確かに右手だが、左手も同様、自由に動く。 「ぐ…!」 血を流し横腹を押さえて一人目は地面に倒れた。 空かさず二人目に意識を戻し、相手の槍を抑えたまま続けて忍刀を逆手に持つと丸開きである二人目の腹部を貫いた。二人目もそれで終わる。 呻き声を上げてこちらに倒れてくる二人目の身体の脇を通過しながら、懐からクナイを取りだし指で挟むと慣れた動作で弓を構えている男の喉へ投げつけた。一寸の狂いもなくそれは喉に突き刺さり、男の体内から血の花を空中に咲かせる。 「…!!」 ごぼごぼと三人目の男が声にならない紅い泡を吹いて絶命する。 やはりクナイの方が楽だと思いながら、小十郎は優々と残り一人へと向き直った。残り一人は腰が引けており既に戦意喪失している感があったが、彼が見逃すはずはなかった。 「う…」 「…」 一歩前に進み出る。 男は二三歩下がったものの、逃げられないと分かると槍を捨てて腰から刀を抜いた。小十郎は忍刀を鞘にしまい、彼もまた刀一つになる。 硬直状態が数秒続いたが、心にある余裕に差があるため追い詰められた男の方が先に動いた。何も考えず小十郎だけを睨み据えて走り込んでくる。 小十郎は正面からそれを睨み返し動こうとはしなかったが、奇声を発して刀を振り上げる男を前に、一歩だけ飛ぶように後退した。と同時に、自分をまとっていた白い衣に左手をかける。 「哀れな」 ふ…と彼の頬が緩んだ。 鬼庭は小十郎が狂いきれないと思っていたが、そんなことはなかった。ただ他者がいれば無理にでも表情を押し隠すだけで、一人でいるのなら怒りもするし笑みも見せる。彼が嗤わないのは、それを政宗に見せたくないからという理由だけだった。 何者にも何事にも動じない冷静な思考。 小十郎は政宗のそれそのものに徹していた。彼は主の頭脳であり知識であり、そして客観的に物事を眺める失われた右目…。それが小十郎の義務。 だが政宗が離れた今、彼はもう主のために冷静を装う必要もない。寧ろここで好戦的に攻め入り、本陣を守ることが彼のためになる。この一太刀が政宗のためになるのなら喜んで狂い、人でも鬼でも斬るだろう。 暗く澄んだ決意に見合わない綺麗な微笑みであるのが、返って不気味に戦地に栄える。 だがその笑みもやはり一瞬。バッ――と衣を自分の肌から取り外し、刀を構えている男へと衣を投げつけた。 「!?」 ふわりと宙を躍り、衣は男に頭から被ると視界を覆う。 「疾!」 小十郎は混乱する男に容赦なく刀の切っ先を横にし、擦れ違うようにして彼の脇腹を切り裂いた。 水音を立てて血液が噴き出す。その血から逃れるようにして小十郎は男から離れたが、残された彼の白かった衣は鮮血でそれは見事に染まっていた。待ち望んでいたかのように白は紅を吸い、みるみる間に紅い衣になっていく。 「…」 残された小十郎の四肢には、肌にぴたりと張り付くような黒の鎧が彼の身を守っていた。 忍はよく服の上ではなく下に鎧をまとっているが、彼の白い衣の下にも戦地に相応しい装備が密かにされていた。 不必要な飾りはない。地味で効率のいい鎧は彼の肌に合わせてすっとその身に馴染む。日頃白い衣に覆われていた、無駄を省いて引き締まった細身が日光の元に表れる。血で濡れた刀を何事もなかったかのように静かに布で拭いた。 鉄の臭いが立ちこめる中、小十郎は四つの死体に囲まれて刀を収めると馬を呼ぶ。彼の馬は全く血の臭いに興奮した様子もなく、いつものように背に主を乗せた。 「もう少し。時間までは何としても耐えてご覧にいれましょう」 既に離れた政宗へ呟くと、今だ騒然としている観音堂の方へ走った。 |
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