人取橋合戦・参 >> 月下の涙 第八章 | ||
日は暮れ、いつしか賑わっていた一本橋から観音堂へのルートの間からも一人二人と次第に数が減ってきた。どうやら連合軍は一時本陣に戻るらしい。 辺りが暗くなっては戦などお互いろくにできなかった。空に一番星が輝き出す頃は既に一時的にしろ、伊達軍の安全は確保されていた。あの大連合相手に手堅く守備を固め、観音堂をとうとう夜まで守りきった彼らの守備は鉄壁で、自分たちでさえ半ば信じられないような功績を立てて夜を迎えた。 だが、当然ながら死者も多かった。おそらくは自軍よりも連合軍の方の死者の方が多いだろうが、辺り一面、死体が横たわっていた。各部が切断されたものもあれば単に腹に槍や矢が刺さっているものもある。馬も相当数が死に絶え、死んだ生き物がする凝固した眼球が真っ直ぐ虚空を見つめていた。 右を向いても左を向いても死体ばかり。周囲にはこれでもかというほど血の臭いが充満し、戦半ばに同じくらい漂っていた火薬の臭いを押しのけて嘔吐を誘う鉄の臭いしかなかった。 「…疲れたよなぁ」 ぼんやりと地面に座り込んだ成実が呟く。 馬は傍に放ち、槍を抱えて胡座をかいていた。空を眺めると、地上でこんな醜い戦など全く知らない星達がまた一つ二つと濃くなっていく紺色に現れている。 「でもさ、今日だけでも耐えられたって所で相当すごいよな。…なあ?そう思うだろ?」 そう言って、空から視線を下ろしてすぐ横を向く。 そこには仰向けに倒れて口から血を流している死体があった。戦が始まった当時からずっと成実を庇いながら戦っていた広昌が、敵陣から一斉に放たれた矢に対して成実を突き飛ばし、全てをその身に受けて眠っていた。 そう。今は矢を全て抜き、瞼を閉ざしている。動かないその胸が上下していれば、ただ眠っているだけに見えなくもないはずだ。 広昌だけではなかった。成実の座る周りには、彼の部下達が何十と散って眠っている。生き残った部隊は後ろに下がらせた。もう連合軍も退いて安全なこの時を、成実は以後も永遠に眠り続けるだろう彼らの中央で座っている。 彼の身体は体力的に限界に近かった。油断するとこの場で寝入ってしまいそうなくらいだ。だがそんなことは勿論許されることではなく、瞼を擦って睡魔に耐えた。もし寝るのなら効率良く、瀬戸川館に戻ってきちんとした場所で眠り、明日に備えるべきだ。 だがなかなかこの場から離れられない。 「成実様。殿から御文が届きましてございます」 「…梵天?」 衰弱した顔で成実が顔を上げ、やがてその表情をへにゃりと緩めた。 「よかったぁ。あいつまだ無事かぁ」 今まで珍しく顔から表情が消えていた成実の双眸に普段通りの光が宿る。 届いた手紙を受け取ると、音を発てて開いた。中身は彼のよく知る細かく細く綺麗な文字が、測ったように一定間隔で並んでいる。 彼は政宗の文字を見るのが好きだった。元々文字を読み書きするのは嫌いではない。日記を書く習慣をつけているせいもあり、綺麗な書体が好きだ。だが上手いかと言われると決して下手なわけではないのだが、逆立ちしても主のような美しい書体は書けなかった。 政宗が時折ひょいと日記を書いている成実を後ろから覗いては馬鹿にし、これ見よがしに「見習え」と成実を罵倒する文字を書いた紙をそれこそ顔面に叩き付けてくるので、成実が怒ってそのままやはり乱闘になることが多い。 もっとも、それすらすぐに小十郎に止められてしまうのだが、その時密かに二人が舌打ちするのはその乱闘を楽しんでいる証拠だった。 そんなことを思い出しながら読み始める。つい数日前にもあった出来事だったはずなのに、はるか昔の記憶のように遠い印象があった。あんなに楽しく戯れていたことを思えば、今このような鉄の臭いしかない場所にいることなど悪い夢のように思えてくる。 「撤退ですか?」 手紙の内容が気になるらしい部下が聞いてくる。 読み終わると、成実は紙を畳みながらため息をついた。 「今日中に観音堂から本宮城に本陣を移すとよ。今から来いってさ、本宮城に」 「観音堂は持ちこたえましたが、被害は大きいと聞きました」 「んー…でもなぁ。行ってもなぁ…」 成実は気まずそうに後ろ頭を掻いた。 その様子に手紙を運んだ部下は不安を覚える。今日は何とか持ちこたえたが、明日は最期でおそらく勝てはしないだろう。そう予感させた。 だが、次に成実の口から出たのは。 「無断で部隊分けちまったからなー…。あいつ絶対怒ってんだよなー…」 という言葉と、ため息だった。 少し間をおいてから笑い出した部下に、成実は驚いて振り返り、首を傾げた。 支度を調え、今は埋葬できない多くの横たわった部下達に手を振る。 「少し待っててくれ。今は行ってくる。後で戻ってくるからな」 その言動は飄々としており、生者も死者も、彼の部下は皆それを見て安堵した。 残った一団を取りまとめて、川沿いの瀬戸川館から離れてそれこそ戦場の中心的場所となった一橋から観音堂の方へ向かう。 昼と比べて静まりかえっていた。風が吹いて木々の葉を揺らし、耳が痛くなる静寂というわけではなかったが、それでも昼間の戦を見ていれば恐ろしい静けさだ。 それに、地面を覆う死体。…いや、死体ならまだいい。観音堂に近づく途中の道には死体ですらなく、肉片としか言えないようなもので地面が紅く染まっていた。生臭い臭いが鼻を突く。別世界に迷い込んだとしか思えなかった。 本宮城へ行くのに、わざわざ死体で地面が覆われ歩きにくい観音堂への道を通ることもない。ぐるりと観音堂を遠巻きに回るようにしてその南に成実達は移動していたが、かなり距離が離れているというのに月下の下、血の紅と刃の銀はよく見えた。 「もう本陣にいた味方軍は移動を開始したようです。観音堂には誰もおりません」 「そうか」 様子を見に行かせた部下の一人が戻ってきて、成実に報告した。 「本陣の守りは小十郎と鬼庭殿のお父上だったな。かなりの高齢だったが、持ちこたえただろうか」 一本橋をかけた瀬戸川から、一時連合軍は退いた。 しかしそれは夜だからということを理由にしただけで、また明日も必ずこちらに攻め入るつもりだろう。有余はない。 小十郎は両目を瞑り、幕のかかった陣営から離れて一人城の隅に佇んでいた。着物は既に新しいものに着替え、いつものように白い衣が彼の身と、それを覆う鎧を内に秘めて風に揺れている。 だが、遠目からは一人佇んでいるだけに見えても、その声は小十郎ともう一つある。ただその声はあまりにも小さくて風に溶け込んでいるため、よほど聞き慣れた者か、最初からその声の存在を知る者でなければ声を聞き取ることは困難だ。 小十郎にはそれができた。 「…そうですか。月宮殿は私の策を聞き入れてくださいましたか」 政宗が岩角城へ移動したという報告なのだろう。 報告を聞くと彼は満足そうに一度頷いたが、すぐに表情を引き締めた。 「もう一策の方も遂行して頂けるとは思うのですが。…我が部隊は如何ですか」 ……。 「そうですか。…だとしたら、もう間もなくです。あのお二方は以前から佐竹を疎んでおりました。彼らにしてみれば佐竹が国元を開けている今が絶好の機。丑時が終わり虎時に変わったら一斉に動きましょう。一人でも多くの影が必要になります。用意を」 …。 風は止んだ。 何者かが立ち去ると、小十郎は顔を顰めて周囲を見回した。血生臭い臭いは流石に川から離れたここには届かないが、それでも何十何百句という普通の人には聞こえない哀しみと痛みと怨念の声が彼の耳元を通ってはまた戻ってくる。 彼は無言で懐から塩を取りだし、ぱっと撒いた。耳元でざわついていた声ならざる声が逃げるように失せていく。誰もいないこの場所で、彼は初めて疲労からくるため息をついた。 そして、それに自分自身で驚く。 「…」 口元に片手を添え、足元を見つめた。 やがて、顔を背けるようにして向きを変えると、そのまま本宮城へと戻っていった。 |
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