月の影 >> 月下の涙 第九章 | ||
「巫山戯るな!!口が過ぎるぞ小十…!」 襖に手をかけ、怒鳴りながら乱暴に襖を開いた政宗は驚愕に目を見張った。 殴り込んだ隣の部屋には誰もいなかった。戸を開けてすぐの場所にいると思っていた側近の姿もなく、政宗のために小姓が用意したらしい酒だけが部屋の隅の方へぽつんと置いてあるだけだ。 「…!」 無人の部屋を見て、瞬時に彼は状況を把握する。 青い顔で今さっき自分がいた部屋の方を振り返ろうとした。だが彼が身体を捻ったその瞬間、ダンッ!という畳を思い切り踏み締める音とともに、正面から伸びてきた二本の腕が強い力で政宗の両手首を捕らえた。 今さっき政宗の傷を清めていた小袖の男が双眸と表情を一変させ、真剣な眼差しで真っ直ぐ政宗を見据えていた。 「小十郎…!」 「…」 顔も姿も違うが、男は間違いなく小十郎だった。 彼は襖の外にいると見せかけて変装し、本来彼がそうするように仮想の部下を創りあげてそれになりすまして政宗の傍にいたのだ。 政宗が男の正体に気づいた直後、扮していた小十郎は僅かに腰を落とすと左から右へ素早く政宗の左足を払った。 「…!?」 がくんとバランスが崩れ、政宗の重心が下に下がる。 小十郎が握っている彼の手首を向こう側に押し出すようにすれば、あっけなく背中から畳に向かって落ちていく。それだけではなく、落下の瞬間に右手を政宗から離すと親指と人差し指と小指の三本を立て、流れるように政宗の腰横から腹の中心へと指先で順に突いた。 「…ッ!」 それらが終わった直後、政宗は畳に背中を打って倒れた。 彼が倒れる際大きな音がしたが、薄いとはいえ大布がクッション代わりになり僅かに衝撃を防いだし、幸い音の割に痛みはない。無意識のうちに目を閉じていた政宗が視界を開くと、倒れた彼に覆い被さるようにして小十郎が上にいた。 深夜の室内は元々薄暗く、僅かな灯りと窓から射し込む月光しかない。明暗のはっきりとした室内で組み敷かれ、政宗は小十郎を激怒の目で睨み上げた。これほどこの側近へ怒りを向けたことは今までなかった。 政宗を捕らえているのは片方だけで、小十郎の右手は畳を背にしている彼の顔横に立てられていた。自由の利く左の手を利用して空かさず立ち上がろうとする畳に着くが、不思議なことに両足を含めた腰から下に全く力がはいらず、それも叶わなかった。 「何のつもりだ!」 動けないと分かると、彼は目の前の小十郎を払おうと左腕で拳を作って彼に向けた。 しかし、掌で包むようにそれは受け止められてしまう。離そうとしても、今度はその拳ごと押さえ込まれ、押しても引いてもびくともしなかった。 政宗は奥歯を噛んで敵意に満ちた目で小十郎を睨み上げた。チリチリと迸る殺気で身体が熱い。 「貴様自分が何をしているか分かっているのか!主人の足を払うなど言語道断!」 「殿の死に場所に、この場は些か品がなさすぎます。その身は今後この奥州をまとめ上げ、世に平安をもたらすもの。この場で安易に散ってはなりません」 憤る政宗を、小十郎は冷ややかな声で諭した。 諭したとは言うものの、彼の双眸は敵を竦み上がらせるような脅迫のものに近かった。有無を言わさぬような暗く冷たい光を湛えている。 「安易…?安易だと!?」 他の者であればこの時点で彼に対して反抗などできなくなるだろうが、政宗はもう何年も彼を傍に置いてきた。この男の冷たい視線には慣れている。 噛みつくように臆することなく怒鳴った。 「喧しい!!貴様に俺の何が分かる!敬愛していた父上を失い、幼い頃から傍にいた友を鉛で貫かれ、もう彼らはこの世にいない!目の前でだぞ!!二人のいないこの世にもはや何の価値もない!」 「やはり、それで無理を承知で国を動かし、良ければ一人後追いをなさるおつもりですか」 「何が悪い!」 もうこうなっては隠し事など無意味だった。 啖呵を切って心情を開いた政宗は、尚も声を張って続けた。 「俺は知っているぞ!随分と待遇のいい誘いを受けたようだな。佐竹義重は貴様を欲しているのだろう!?」 「…」 だいぶ前に月宮から報告を受けていて、その事実は知っていた。 他の家臣の引き抜きの話ならばわざわざ報告するようなことではないが、小十郎の件に関しては伊達家当主に忠誠を誓う忍は逐一報告をしてきた。それは彼がいなくなれば当主としての政宗の危機に繋がると月宮が解釈していたことになる。 それが政宗には不愉快だったが、同時に誘いの文が小十郎の元に届いたと言うことで動揺しなかったと言うと嘘になる。そんな自分に更に不快感を増し、表面に出ない程度に彼の内面は荒れていた。 小手森を早急に落とした辺りも、多少その感情の捌け口になっていた感もあった。勿論そのような些細な私情で何百という人を殺すような政宗ではないが、様々な政治的事情と女子供の命とを天秤にかけ、背中を押した最後の一押しが、あるいはこの嫉妬に近い感情だったのかもしれない。 「成実を始め他の者もそうだ、連中は俺が失せてもどこかしらの手が差し伸べられる!我が軍は強者揃いだ。奉公先に何の心配もない!だったら俺一人が早々に討たれた方が無駄な犠牲がなくていい!貴様も何処へなりとも行けばいいだろうが!!」 「…」 「…っ!」 痛々しい怒声を聞いた直後、急に彼を畳に押さえつけている小十郎の左手と拳を包んでいる手の平との力が増した。 骨が軋み、血管を流れる血液が止まったかと思う程の痛みに、政宗は顔を歪める。 「…これほど不快な思いは久方ぶりでございます」 その一言に政宗ははっと改めて小十郎の顔を見上げた。 目の前の男はいつも政宗がみている容姿とは違っていたが、それでも雰囲気は小十郎そのままだった。一見して察知できたほどに。だが、今見上げると、自分を押さえ込んでいる人物がまとう空気は今まで一度として触れたことのないものになっていた。刺すような冷気が政宗を襲う。 今まで政宗が知っていた小十郎の雰囲気を雪の冷たさだとするならば、今はその身を包んでいるのは氷の冷気だった。無駄な温かみなどない。その気になれば空気だけを刃にしてそのまま人を刺し殺せるような純粋な冷気だ。 「殿は以前私にこう仰った。私情で動くのはこれきり、以後は家名を第一と考えると。これは未来に渡る契約。つまりはこの契さえも守る気はなく、ここで終えようというわけですか」 「それは…!」 「貴方を失うと私が崩れるのが未だお解りになりませんか」 政宗の言葉を遮り、小十郎はきっぱりと言い切った。 当たり前のように発せられたその言葉に政宗は驚愕し、言葉を飲み込んで食い入るように顔を真上へ向けた。今の言葉は彼の中にあった片倉小十郎片景綱という男を百八十度回転させるような、それほどまでに不自然な言葉だ。 「何…?」 今彼が何を言ったか、まるで理解が出来ない。 抵抗も口論も止めて唖然とする政宗を抑える手を緩め、いつもは口数の少ない孤高の側近は真剣な表情のまま、主の片目を見つめた。その双眸が窓から射し込む月光を受けて暗く輝く。 「殿。お気づきではないかもしれませんが、貴方は決して私を頼らない。信頼などしていないのでしょう。私はそれが不安で堪らない。一体どこまでお側にいれば私を信用して下さるのか」 「そ…そんなことはない!何を言っているんだお前は!俺は誰よりも信頼しているし頼ってきたつもりだ!」 さすがにこれには今まで黙っていた政宗も反論した。 言葉に嘘はない。八歳の時に輝宗から今回の一件で切腹した遠藤を通じて紹介を受けた側近を、彼は今までもう十年と頼ってきた。頼り切っていたと自分で言ってもいいくらいに常に傍に置いてきたし、重鎮してきた。 だが小十郎は政宗のその言葉すら疎ましく思うように目を細める。 「果たしてそれは誠でしょうか。思い起こせばもう何年も命を直に受けたことなど数えるほど。お傍にはおりますが用があれば他の者をお呼びになる」 「それはお前が勝手に動くからだろうが!それが自然であって俺が命を出す必要もない。俺の意を取って動いてくれる、だから命ずる必要すらなかっただ…っ!」 不意に小十郎がその顔を政宗の首元に落とした。 長い横髪が喉元にあたり、背中が粟立つ。父親と背徳承知で身体を重ねている時に、よく首元に当たる髪をくすぐったく感じて身動ぎをしていた。一気に熱が走る。 捉える身体が緊張しているのを知ってか知らずか、小十郎は素知らぬ素振りでゆっくり政宗の左耳へと口元を持っていく。 「殿にとって私の存在は自然であり当たり前かもしれません…。ですが私にとって貴方の存在は特異極まりない」 「おい小十郎、冗談は…」 「いくら待遇が良かろうと金銀を並べられようと、私が他の者の下に着くことなどなどは決して有り得ない。此度の戦で万一そのお命を落とすようなことになれば、直ぐさま腹を切る覚悟。この身はこの腕から髪一本、心までもが全てが殿のもの。…私は長年そう思い傍におりました。その殿が失せて私の身が生きながらえるのは理に反する」 「…っ、や…止めてくれ!」 耐えかねたように、政宗は叫んだ。 左拳を払うようにして包まれていた小十郎の手から離れると、首を竦めてその手で左耳を塞いだ。今だ右手は畳の上に固定され、片耳を塞いだ所で何の意味もない。 今まで政宗にとって、小十郎は頼るべき存在だと思っていた。だがたった数分にも満たない今の会話で立場は逆転する。小十郎は自分自身の存在を、本気で政宗の一部と捉えているようだった。 だから本体である政宗から離れることはなく、また本体が死亡して自分だけが生き長らえるということも“有り得ない”。 自分が死ねばいいとだけ思っていた政宗は驚愕した。この場だけの冗談なのか説得の言葉として使っているのかどうかは彼の無表情からは察知できないが、言葉通り受け取れば政宗の生死や言動全てが小十郎の生死すら巻き込んでしまうことになる。 それはとても重いものだった。自分がいくら相手に生きて欲しいと願った所で、その願いなど全く届かず当たり前のように相手は腹に刀を刺して後を追うというのだ。政宗への忠義が深すぎる故に、政宗の意思は小十郎へは届かない。 これはもう単に忠義という二文字では収まりきれない感情だ。本当に忠義を持つ者であれば、政宗の生きろという言葉を命令として苦悩した上で受け取るはず。今のこの関係を言葉にするのなら、一番近い単語は「依存」だった。 依存する方はいい。寄りかかれる太い幹を見つけたのだから。 ただ、される方はどうだろう。相手の全てが重くその身に、容赦なくのしかかってくる。 今さっき小十郎の言葉とともに、まさにそれが政宗の肩に落ちてきた。こんな過ぎた重みなど、彼は真っ平ご免だった。今までどおりの忠義だと思い込んでいればよかったのに。 顔を横に背ける。髪先が大布を擦る音が耳元でした。 「…お、お前が俺の後を追う必要など全くない!俺がそんなことを望まないことくらい分かっているだろう!?」 「なら大殿の意も御理解できましょう」 「…!」 流れるような小十郎の声に、びくりと政宗の肩が跳ねた。 瞬時に彼が何を言いたいのか理解する。 「誰かが自分に縋る想いというのは、極めて重い。簡単に命を投げうれるほどの陶酔ならば尚更。殿、貴殿はもう十年以上も大殿にこの重みを与え続けてまいりました」 |
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