月の影 >> 月下の涙 第九章 | ||
本宮城の庭には、既に立派な酒席が用意されていた。 集まった家臣達は城内の一室に腰を据えている若い総大将へ挨拶してから、鎧を脱ぎに一度その場を離れて庭へ出ると杯を傾ける。漆の鎧を着込んだ政宗は堂々と中央に座り、次々と各配置場所から戻って面会を願う彼らにもう長いこと労いの言葉をかけていた。 さっきまでは庭に出て他の家臣達と一緒に酒を飲んでいたのだが、酔いが回ったと言って抜け出ると本宮城の一室に一人で座っていた。最近変えたばかりなのか、藺草のいい香りが部屋を満たしている。 屏風を背にして上座に設置された紫色の座布団の上に座る政宗は、室内にいると言うのに漆の鎧で武装をしたままでいた。座りにくく重いだろうに、汗一つかいてはいない。 その部屋の襖が、突如として音を発てて開かれた。 「…なるほどな」 今岩倉城から戻ったばかりの、何一つ武装をしていない“本物の”政宗が不機嫌顔で現れる。 彼は室内にいる漆鎧の自分の姿をした者を見ると腕を組んだ。ここに来る間に家臣からでも受け取ったのか、紫色の美しい大布を肩に羽織らせていた。逆に、今までずっとここに居座っていた政宗の方は、入室してきた政宗の姿を見ると両手を前に添えてその場に跪いて頭を下げた。 その様子を見て、政宗は疲れたような声でげんなりと呻く。彼は、彼の不在中に鎧をまとって当人のように変装し振る舞っていた人物が誰だか一目で分かった。 「消えた俺の変わりはお前と言う訳か、鬼庭」 「恐れ多くも」 酒席に座っていた人物が兜を脱ぐ。 その下にあるのは政宗と全く同じ顔をした鬼庭だった。あのがっしりとした身体をどう変えているのかは知らないが、それ以外にも髪の色や目つきや肌など全てが瓜二つだ。 「身代わりになって俺のプライドを守りつつ、その首を連合軍に差し出すつもりだったのか。…どいつもこいつも」 彼の知らない所で色々な人物が自分を犠牲にして動いている。 それが途轍もなく政宗を不快にさせた。腕を振って鬼庭を払う。 「もういい。分かっているだろうが小十郎の策は俺が許さん。不許可だ。その不快な変装をさっさと解いてお前も身体を休めろ。戻ってきた連中は南の庭で飲んでいるのだろう?酒がなくなるぞ」 「御意」 鬼庭は思ったよりも抵抗なく、鎧と兜を残してその場から消えようといした。 「鬼庭、待て」 それを、一度払ったはずの政宗が声を立てて止める。 「お前の父はどうした。鬼庭殿は何処にいる」 観音堂から脱出する際に壁になって政宗を逃がした茂庭良直に、政宗は礼が言いたかった。 だが。 「申二つ時に肩に深手を負い、死亡しました」 さらりと、政宗が想像していた嫌な結果を彼は口にした。 重々しい何かが政宗の胸にのし掛かる。 「…そうか。……。亡骸はどうした」 「拙者がとある場所に隠してあります。…殿」 自然と視線が落ちていた政宗へ身体を向けると、鬼庭は冷静に彼の姿のまま続けた。 右目に刀鍔、澄んだ切れ長の左目だけで真っ直ぐ政宗を見つめる。 「親父殿は老いで死ぬことを何よりも恐れておりました。戦で死ぬこと、まして殿の身を守るための死がどれほど親父殿にとって光栄であったか、拙者には想像もつきません。親父殿を一人の武士としてお考え下さるのなら、どうか哀しむよりも素晴らしい家臣を持ったと誇りになさって下さいますよう願います」 鬼庭は姿だけではなく、声すら政宗のものだった。 彼の声には微塵の哀しさもなく、きっぱりと言い切る。その姿は自分。まるで目の前に鏡があり、それが喋っているように錯覚さえした。もう一人の自分は家臣の死を、慈愛と尊敬を持って受け入れていた。 正直まだ鬼庭のように全てを上手くは受け入れられない。だが、それでも瞳を閉じ、二度ほど深く呼吸して再び目を開けると随分と落ち着けた。 目の前のもう一人の自分に、珍しく彼は柔らかく微笑んだ。 「…ああ。俺には過ぎたくらいの立派な家臣だ。だが鬼庭殿だけではない、その息子であるお前もだ。…今日は足止めご苦労。明日も頼むぞ。ゆっくり休め」 言うと、鬼庭は口の端を緩めて窓から飛び出すと夜風に消えた。 自分の笑った顔をあまり見たことのない政宗はその笑みに微妙な心境だったが、気を取り直すと今まで鬼庭が座っていた座布団の上に腰を下ろした。どっと疲労が両肩にのし掛かってくるようだった。 もう一度深くため息をついて体内に溜まった疲労を外に吐き出す。本来ならまだ本宮城周辺にいるであろう月宮を呼んで咎めたいが、今はもうそれすら疎ましく思うほどに疲れていた。 庭に置かれた酒席の様々な声や音が窓から室内に入ってくる。日中に生死の境目を必死で生き抜いた彼らは羽目を外し、笑い声と互いの武勇を褒め合っているのだろう。冗談抜きで城の酒全てをあの場に集めさせたので、酔い潰れる者が出てくるかもしれない。 だが、それもいい。本来なら許されないだろうが、酒を飲むのも戦友と語らうのもきっと今日が最期だ。 政宗自身も彼らと共にあるべきなのだろうが、あの賑やかな席は前々から静を好む政宗は実を言うとあまり好きではない。政宗がこの場に来るまでに、彼を振る舞っていた鬼庭がある程度酒席の方に顔を出して一同を労い鼓舞していたようなので、もういいだろうと考えた。 それに、誰が欠けているかを知りたくなかった。 彼らとの付き合いは短いが、深い。今更顔を見なくとも、全ての家臣を思い描ける。彼ら全てが今あの庭の酒席にいることを当たり前のように彼は想像した。勿論都合のいい想像だと分かってはいる上で。 離れて小さく聞こえる酒席の音を聞きながら、政宗はそのまま室内に居座った。 月宮は今頃慌てているだろう。もう一度政宗を岩角城へ連れ戻そうと策を練っているかもしれない。だが何をされても、何度連れ戻されても、絶対にまた抜け出してここへ戻ってくるつもりだ。ついでに言えば、明日は自らが先頭を切って戦うつもりでもある。 最期の夜長。 何をして過ごすべきかと考え、一番に頭の中に出て来たのはいつも彼の傍にいた白鷹だった。宗里を肩に乗せたまま書を読むいつもの習慣が思い出されるが、それはもう叶わない。愛しい父親ももういない。それを理由にして今回の戦があり、当たり前のことのはずだが、それを改めて認識した。 手元には大切なものなど、何一つ残っていない。 「…」 政宗は自分の両手をしばらく見つめていたが、足を崩して横にある肘賭けに片腕をかけて重心をそこへのせると、頭を垂らして項垂れた。 鬼庭と話していた時までは保てていた思考がぐらりと急に大きく揺れ始める。一体何故自分がこんな場所にいてこんなに無謀な戦をしているのか、分からなくなってきた。輝宗の仇討ちだと理解はしているが、“解らない”。 政宗が持つ特殊で不安定な思考だ。 『殿、失礼致…』 「開けるな」 襖で繋がっている隣の部屋からの声に、政宗は瞬時に目を細めて鋭く言った。 身体を崩したまま顔を上げて閉じたままの襖に目をやる。反対側では気配もなくやってきた小十郎が片手を添え、断りを言いながら今まさに開けようとしている所だった。 「今はお前の顔など見たくもない。そこでいい」 『…畏まりました』 即答で返事が返ってくる。 姿は見えぬが素知らぬ態度に腹が立ち、政宗は前髪を荒っぽくかき上げると舌打ちしてもう片方の手も右にある肘掛けに乗せた。 『ですがその前にどうか傷の処置をさせて頂きたく思います』 「傷?…あぁ、臑にあるこれか。誰かの策とどこぞの忍のお陰で気付けば靴が脱がされていたからな、ここに来るまでの間素足だったというだけだ。数は多いが、このような擦り傷大したことは…」 『いえ。一番深い傷はおそらく左足の裏』 政宗の嫌味を含んだ言葉を遮って、小十郎は鋭く言った。 「足の裏?」 予想外の指摘に、政宗は眉を寄せながらも伸ばしていた左足を引くと、今まで気にしていなかった足の裏を見た。 いつ傷つけたのか、爪先よりも少し手前の肉厚の部分がぱっくりと横に口を開くように切れていた。そう言えば岩倉城を出る時から左足で地を踏みしめる際などに痛みが走っていたが、切れているとは思わなかった。 「窓から抜け出た時か…」 寝かされていた場所から飛び出して瓦の屋根に降り立った際が、足の裏に痛みを最初だったような気がする。 目に見える臑などの部分の傷には気付いていたが、足の裏の傷には気付かなかった。普通ここまで裂けていれば十中八九気付くだろうに、気が張っていたせいか感情が焦りと怒りで支配されていたせいか、今指摘されて初めて気付いた。 よく見れば、部屋の中にも政宗が歩いた畳の上に紅い染みがちらほらと見える。筋肉が収縮した場所だったので出血は比較的少なくて済んだようだが、傷口の表面は気付かなかったとはいえ砂利やバイ菌が着いてしまったらしく酷い有様になっていた。 化膿して黄白色の粘液が傷口を覆っている。 『私の姿がお嫌でしたら、下の者に処置をさせます。岩角城で傷付けたならば相当な時間が経過しているでしょう。悪化させてはなりません』 彼がそう言い終わると同時に天井から一人の男が無音で降りてきて、政宗の前に片膝を折って頭を下げた。 小十郎の部下であろうその男は政宗よりも少し年長らしいが、別に忍装束に身を包んでいるというわけではなかった。簡素な小袖を着ており、手には桶と布を持っている。救護班か何かだろう。 「御身足を」 恭しく頭を垂れ、男は言った。 しぶしぶ政宗は右腕を肘掛けに乗せたまま左足を前に伸ばし、桶の中に置く。男は傷口をしばらく眺め、確認したあと懐から竹筒を取りだし、栓を抜いた。中に入っている清水を布に染み込ませる。 「少々沁み入ると思いますが」 断ってから、男は傷口に布を着けた。 「…」 ぴくっと政宗の眉が僅かに最初だけ動き、肩に羽織っていた大布の隅を無意味に羽織りなおしたが、特に痛がる様子もなく軽く叩くようにして傷口の汚れを拭う男に身を任せる。 ついさっきまで気付かなかったような傷のはずなのに、意識した今ではずきずきと波のように一定のリズムで刺すように痛んだ。汚れを取るためとは言え、清水もその痛みを更に刺激する。粗方汚れが落ちると残った竹筒の水を桶に薄く張り、そこに政宗の足を浸す。 引き続き傷口の汚れを洗い流している処置をしている男から視線を上げると、政宗は再び小十郎のいる襖の方へと視線を向けた。 「策が成らず残念だったな。黒脛巾を唆して俺を戦地から離すつもりだったのだろうが、そんな策は俺には効かない。黒脛巾もそうだが、お前のしたことは重罪だ。まず先に言い訳でも何でも言え。聞いてやる」 とは言うものの、小十郎のことだ。 どうせ何も言わずに「申し訳ございません」の一言で全面的に自分が怒るのも当然と肯定する態度をみせて逃げるだろうと、政宗は考えていた。小十郎は彼に意見はするが、滅多に口答えはしない。元々口数の少ない人物だ。 だが。 『殿は此度の戦に何をお望みですか』 今日は違った。 謝罪するどころか、予想外の質問に政宗は顔を顰めて上げた。 「何…?」 『勝機のないこの戦に、殿は何をお望みですか』 「気でも触れたか、小十郎。愚問だな。父上の仇討ちに決まっているだろう」 『そうお応えでしたら、私は自分の行いが間違っていたとは思えません』 「何だと?」 『圧倒的なこの兵力差を考えた上での出兵であるのなら、殿がこの戦にお望みなのは仇討ちという名目の元の死に場所ではございませんか。死に場所を求めているのであれば、止めぬわけにはまいりません。大殿の仇討ちなど、そもそもお取りになるつもりはないのでしょう?』 「ッ!!」 涼しい声に、カッと全身だけではなく思考すらも熱くなる。 今のは禁忌の一言だった。確かに死に場所を求めてはいたが、政宗の中ではそれは輝宗への愛情を示す行動だ。それをそうまで言われて黙っていられるわけがなかった。 彼を包んでいた空気が一斉に黒く脹れあがり、処置途中の足を桶の水から抜いて跳ねるように立ち上がり、そのまま畳を蹴って襖に駆けた。 |
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