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名監督必ずしも名解説者ならず

2001.6.29

ちょっと内輪の話をします。
まる三って?に載せている肖像画の作者はあやかチャンでした。みつひろ君、そしてあやかチャン、ごめんなさいm(__)m。
そのうえ、ATTENTIONの綴りがATTENSIONになってました。あー恥ずかしい(^^ゞ。

 さてさて、本題。

ボールが止まって見えた。

――というのは川上哲治さんの名言であるが、「いや迷言である」と異議を申し立てたのが堀井憲一郎さんだ。28日のTBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』でのこと。そもそも川上御大がこれに類する発言を初めてしたのは30歳のときらしい。このときは「ボールが止まったように見えた」のだが、だんだんと「ボールが止まって見えた」に変わってしまったらしい。堀井氏が言うには――

「ボールが止まったように見えた」と「ボールが止まって見えた」は全然違う。
「河童のような人と一緒に呑んだ」と「河童と一緒に呑んだ」は違うでしょ。

 確かに。

 

 夜になってNHK第1ラジオを聞いてみたら、野球(読売vs中日)中継の解説が川上御大だった。代打が初球を凡打したら、川上御大が以下のようにのたまわった。

「せっかくチャンスで代打に出てきたんですから、初球から手を出して凡打してしまうんではなくて、粘ってでも出塁しないといけませんねぇ」

 ちょっと待って欲しい。これで“解説”と言えるのか? これは結果論による“感想”ではないだろうか。粘ろうが初球だろうが出塁するに越したことはないのだから、この発言は無意味だ。

 解説というのは例えば以下のようのものじゃないかと僕は思っている。

  1. 今日の○○投手は制球に苦しんでいるようです。確かにあまいコースでしたが、じっくり見て、球数を投げさせたほうが良かったかもしれませんね。
  2. 今日の○○投手のコントロールは抜群です。今の初球はあまいコースだったので手を出したんでしょうね。判断は良かったんですが、打ち損じてしまいました。

 選手がどうしてそういう行動に出たのかを説明して欲しいのだ。それが“解説”だと思うんだけど……。みなさんはどう思いますか?