鈴木賢二研究会

鈴木賢二研究会は1997年1月、栃木市主催の下に開催された『鈴木賢二』展での、その作品群に感動したものたちの集まりからスタートした。 

それは、顕彰を目的とした会ではなく、版画、彫刻、陶芸、漫画、社会評論、民話研究などの作品を生み出した作家の営みを、その時代背景とともに析出、研究しようとする団体である。
現在までの研究過程で、賢二の全体像に近づきつつある。

賢二はその芸術を通じて、自分と社会をギリギリ摺りあわせてきた人といえようか。そうした賢二に内在した鈍痛は膨大な作品群となり、その作品からは昭和史の優れた観察者としての姿が浮かび上がってくる。

研究会がまとめた「賢二の仕事一覧」によれば、賢二は昭和初期に雑誌『戦旗』や『ナップ』や『アトリエ』などに掲載された芸術論文、政治漫画、表紙絵、挿絵、カットなど新興美術運動のあらゆるジャンルでリーダーシップを発揮した。また栃木に帰省した1933年以降は、漫画雑誌『東京パック』に田原満というペンネームで「彗星のようにデビュー」し、社会的には新進彫刻家として地歩を固めた。やがて、彫刻団体「第三部会」の有力メンバーとなり、中央紙、地方紙にたびたび顔をだす名士となった。

しかし、賢二はそれに飽きたらずひそかに戦後をにらんでいたのではないかと考える。それは農民版画家、・飯野農夫也、切り絵作家・滝平二郎らとともに農民や勤労者のための芸術の可能性を追求し、民話、わらべうたなどを収集する一方、戦後の活動の中心となる版画の研究に着手していたことが最近分かってきた。
「もし、彫刻家として生きていたら」仮説は意味のないことだろう。鈴木賢二は、民衆版画としてのメデイア性に着目し、それが平和運動家としての使命と合致するという信念で戦後の20年余を駆け抜けたからである。
その代表作『世界を平和に』(1958年)は世界的な評価を受けた。
しかし、その後も“民衆版画”を芸術に高めるために苦悩した。芸術を「政治の僕」にとどまらせることを恐れた。政治と芸術にどう折り合いをつけようとしたのか。私たちに残されている膨大な作品が語るものを聞き分けていくことが、わたしたち研究会の使命である。



鈴木賢二研究会の仕事


★ けんじ研究・月例報告40号を発行
★ 1999年 鈴木徹遺作展開催
★ 2000年 栃木県立美術館企画展『北関東の戦後版画運動』に協力

★ 2002年 鈴木賢二小版画集『物売りの声が聞こえる』責任編集・創風社より出版

  






  



   
   
2000年 栃木県立美術館 『北関東の戦後版画運動展』 図録 掲載論文
       

鈴木賢二の人的ネットワーク

                  飯田晶夫
                  
 國學院栃木短期大学 教授
                                鈴木賢二研究会事務局長



    
 政治が芸術にもたれかかったような現象もしばしば見られたが、
    本当は芸術が政治へもたれかかったのである。       岡本唐貴

  
1. 戦前の人的ネットワーク
 鈴木賢二にとっての戦後版画運動は、戦前の前衛芸術運動の人的ネットワークを最大限に活かしたものであった。また、鈴木賢二をめぐる人々は、彼の戦前の華々しい経歴に敬意を表し、一目置くことが多かったため、鈴木賢二も組織のリーダーとして行動した。
 鈴木賢二(1906−1987)を理解するキーワードは、この行動という言葉ではなかろうか。鈴木賢二(以下、賢二とする)は、戦前、左にふれ、右にふれたが、何れのときも気がつけば端っこまで走り抜けていた。
 賢二は、男が生まれたら「行動第一という意味を込めて」行一と名づけるといっていたという。しかし、その長男の名を徹(テツ)とした。「徹して生きよ」という意味である。行一か徹か、で逡巡した賢二に私は賢二の人生を重ねる。なぜなら徹の生まれた1935年(昭和10年)こそ賢二にとって「あるべき自分」(行一、政治的人間)と「本来の内省的な自分」(徹、芸術的人間)との分岐店にあったからである。
 賢二の戦前の活動に簡単に触れよう。賢二は、1906年(明治39年)に栃木市に生まれた。父は栃木商業銀行の支配人であった。もともと社会的関心が強かったのか中学(旧制)の2年生のとき関東大震災直後の東京に出て、ニコライ堂をスケッチしている。1924年(大正13年)に栃木中学を卒業、川端画学校をへて、1925年(大正14年)に東京美術学校彫刻科木彫部に入学した。同期に須山計一、
小松益喜らがいた。
 美校時代の賢二は、『戦記』や『ナップ』に絵(表紙、挿絵、カット)を描き、政治漫画や論文をかなり書いている。この時代について太田慶太郎の回想「ナップ創立前後」があるが、これを読むと賢二は太田夫妻の新宿・淀橋合宿所にいた一人である。ここには中野重治、鹿地亘、西沢隆二、大月源二、佐藤武夫(『戦記』初代編集長)もおり、同じ釜の飯を食っていたことになる。したがって、この仲間が戦後の賢二の版画運動にとって有形無形の財産となり、ネットワークとなったことは間違いないところである。 
 飯野農夫也(1913−)は、プロレタリア美術研究所の第5回生だったころ賢二に会っている

  
 
私は昭和6年(1931年)に上京し、プロレタリア美術研究所に入るが、そのころの鈴木さんは、久留米絣の着流しで教室に現れ、教室の後ろから景気のいいことを大声でしゃべっていた。うるさいので教師から注意され場面もあったが、鈴木さんのヒロイックな態度は、研究生に支持されていた。所長の矢部友衛や岡本唐貴らの幹部より人気があり、研究生は鈴木さんにつくか岩松淳さんにつくか、の二派にわかれるほどであった。

 
このときの飯野の同期生は、新居広治(1911−1974)、大田耕士、(1909−1998)、芳賀侭、山代巴、松尾隆夫、松尾ミネ子、杉浦茂、らであった。したがって、戦後、賢二と版画運動で行動をともにする新居広治、大田耕士らに対して賢二が兄貴分として振舞ったとしても許されたことであろう。
 賢二の版画運動の前史として栃木で開かれた市民向けのエッチング講習会を記録しておきたい。賢二は、1937年(昭和12年)11月、自宅に西田武雄、大田耕士、小野沢亘、内田進久らを招き、飯野にも参加を呼びかけている。

 
 待っている。エッチングをやるとデッサンが確実になる。緻密になる。いい仕事だと思ふ。他方に油彩、水彩、或ひは彫刻で大きなものをこなしつつ並行的にやって行って最も効果ある仕事だと考える。(1937年11月10日
 
 
一年遅れで滝平二郎(1921−)も賢二宅をほうもんするようになる。検事の指導は、飯野に対して厳しく、かつ、丁寧である。その頃の往復書簡のなかからひとつだけあげよう。
 
 今度送ってくれた版画はオリジナリテイもあるし、地方色も濃厚に出ているし、私等と違ったリアルな雰囲気がかもしださてきている。
 版画は雨降り仕事と君は言ったが、はたしてそうでありうか。私の見るところでは君の態度は総てに対して雨降り仕事である。私は君と話しをすることが何かしらばからしく思えてならぬ。版画を深めてはどうか。(1940年3月1日)

  

 
 2. 押仁太から全国的版画運動へ
 戦後の北関東造型版画運動を象徴するものに「押仁太(オスニタ)」という奇妙な名の版画グループがあった。その名の由来は、大山茂雄、鈴木賢二、新居広治、、滝平二郎というメンバーの頭文字を並べたものであった。
 この4人のなかでいち早く動いたのは新居広治であった。新居は、1946年(昭和21年)1月、本郷新(「きけわだつみの声」像の制作者)宅に集まった7人Oなかの一人で、46年4月、日本美術会の創立にかかわり、創立委員(賢二を含む47人)となって検事や飯野、滝平らに働きかけて同年7月には日本美術会北関東支部を結成した。
 北関東支部(略称 北関美術)の最初の活動は、1947年(昭和22年)5月の真岡における中国木版画展であった。これは、中日文化研究所(所長 菊池三郎の呼びかけによる移動展で日中版画展(三越、朝日新聞社後援)を新居らが芳賀美術会という受け皿を作って誘致したものであろう。翌年後半には着た関美術家名の美術かは30人以上となり、新居、滝平、牧大介らの北関美術は水戸国鉄機関区や日立各工場、高萩各炭鉱の職場美術サークルを指導し、茨城県職場美術協議会の結成を支援し、茨城民主主義文化連盟に団体加盟したのである。
 北関美術の到達点を示すものは、1947年(昭和22年)10月の全日本新木刻運動会議(茨城県大子町)であった。参加団体は、中日文化研究所、日本美術会、職場美術協議会、造型版画協会、刻画会、内山書店、大子町教育委員会、奥久慈版画会であったが、ここでも受け皿は奥久慈版画会(機関紙『版画通信』の編集者は飯野)であった。大会祝辞はゲストの李平凡(1922−)が行った。
 片寄みつぐ(漫画史研究家)からの聞き取り(1977年7月27日)によれば、賢二は1946年(昭和21年)10月から産別会議の美術顧問をしており、機関紙『労働戦線』に漫画やカットを描き、職場美術サークルを指導し、漫画の選者などをし、片寄はその助手のような立場であった。したがって、賢二の職場美術サークルとのかかわりは新居より早く、職場美術サークルを京浜地区労働組合美術部として組織し、職場美術協議会を結成させ(1947年3月)、第1回職場美術展(1947年6月、東京都美術館)を実現させる立場にあった。
日本版画運動協会の機関紙『版画運動』は1949年12月に発刊された。発行人は大山茂雄であった。このころの賢二は、産別会議の仕事に忙殺されていたが、1950年(昭和25年)5月に「はるかぜくらぶ」をつくり、『赤山椒』(木版)を編集発行した。同人は、新居、滝平、賢二の3人であった。滝洞も故郷の玉里村に刻画晴耕会をつくり、機関紙『刻画晴耕』を発刊した。これが契機となり、小口一郎が小山市で『4B』を発刊し油井正次が南佐久で「朴の会」を結成するなど協会は、大田耕士(日本教育版画協会)や小野忠重(版画懇話会)の協力もあり、全国的組織となった。また、菊池三郎(中日文化研究所)をメンバーに迎えたことで神戸華僑の新集体版画協会(代表 李平凡)や新中国との結びつきを強める結果となった。尾崎清次(神戸の医師)は、魯迅の信奉者であり、李平凡の帰国後は(1950年5月)李平凡と版画運動協会とのパイプ役となって中国での日本版画展の成功に寄与した。益子で賢二と共同生活していた糸井哲夫や糸井の学友でもある徹の版画作品が中国に送られたのは尾崎と賢二との絆である。
 日本版画運動協会の事務局長は、滝平二郎、上野誠、三井寿雄、中山正の順であったが、上野誠(1909−1980)の功績が大であった。上野は、戦時下においても反戦的な作品を11点も制作した芯の強い作家であったが、協会運営にあたっては周辺の意向をを徹底的に聴くタイプであった。このことは、益子にいた賢二に1954年(昭和29年)4月から57年(昭和32年)12月までの約4年間にわたり50通余の手紙を書いたという事実によって頷けることであろう。紙幅の関係から一通しか紹介できないが、賢二と上野の人柄のよく出た葉書がある。

 自分ながら歯痒く思い、何故か突き破りえない疑問について終結的な批評を下されたのは大兄でした。こちらの諸氏とも語り合ってきたこともそのような方向でしたが、大きく総括され、的確な結論を下されたわけです。これは私にとって大きな歓びです。なぜなら創作の態度がおのずから明らかになるからです。
 
あの日、本郷新氏から中国での日本版画展の資料を貰ってきました。人民日報、光明日報、工人日報等の記事です。工人日報では大兄の5.1の対策を大きく中心に置いて、ほかの作者10名近くのものを回りに置いています。人民日報も大兄の仕事を大きく扱い、展覧会場では9点の作品の先頭に飾っています。(賢二宛 1955年9月2日)
     
  
3. 国際交流のトップランナーに
 鈴木賢二が美術界だけでなく世間にその名を知られるようになったのは、1958年(昭和33年)8月、東京で開かれた第4回原水爆禁止世界大会においてである。賢二の版画絵巻『平和を世界に』(30尺)が大会会場に飾られ、そのレプリカが外国代表に土産として寄贈されたことがマスコミで報道され、脚光を浴びたのである。このレプリカは、戦前の友人も贈られたらしく詩人の壺井繁治からも礼状が来ている。


 
今日版画集頂きました。大変好い仕事をされたことをお喜び申し上げます。版画というものは普通の絵とちがったまた別の魅力があるもので、あのカッチとした、無駄のない、清潔なところが好きです。深刻な主題の貴兄の版画集がなおひとつの美しさをもってせまってくるところを考えています。(賢二宛 1958年7月21日)
 
このころから賢二の作品発表の場は、集団・版となる。ここに集団・版賢二宛の手紙が23通ある。これらを詳細に検討すると、この会は運動団体ではなく創作団体であり、展覧会を中心に「版が各ジャンルの交流」を目指したものであった。「木版・銅版・石版 版画6人展」(1959年3月 養清堂画廊)に集まった稲田三郎、中山正、小野忠重、曽我と志江、穂積肇、森村惟一の6人が中核として集団をリードした。滝平は1963年(昭和38年)1月には退会し、堅持は962年(昭和37年)ごろから中山正のSOSを受けて運営にまでかかわってくる。
 この時代の賢二作品について片寄みつぐが賢二宛に送ってきた評論が面白い。

 東横の作品、一時のアジプロ的なものより、好きでした。フォルムのいかめしさが、もっと観る側に素直に共感できたら?と感じた次第です。(1960年5月22日)

 
賢二の人生最後の賭けは、1961年(昭和36年)3月のソ連現代日本版画展であった。この企画は、益子にいた賢二と日ソ協会とのあいだで959年(昭和34年)8月頃から密かに進められ、賢二が1960年9月ごろ滝平と徹のいる異人館に住むようになって本格化した。賢二上京の報を受けた岡本唐貴は「とうとう出てきましたね。27年とは長いものだ」(賢二宛 1960年10月2日)と永い労苦をねぎらっているが、賢二は小野忠重をかつぎだして1961年3月から45日間、ソ連各地で文化交流を果たしたのである。滝平賀益子時代の賢二に「ソ連行きはみんなと相談したほうがよい」と忠告した通り、この版画展は1962年(昭和37年)の日本美術会大会を2度も流産させるほどの大論争を巻き起こしたのである。
 しかし、賢二はこれを乗り越えた。その後、日本ブルガリア友好協会、インドネシア文化協会、キューバ友好協会の理事に就任し、国際文化交流のトップランナーとなったが、ルーマニアとキューバでの日本版画展の準備に忙殺され、1964年(昭39年)秋に病に倒れたのである。
 以上は、健二宛の膨大な手紙を整理しつつ描いたクロッキーである。であh、もし途中で倒れなかったら賢二はどんなライフワークを残しただろうか。それを暗示する一文は、賢二の「版画によせて」(劇団文化座の公演『土』のパンフレット 1964年2月)である。

 今日まで幾たびか、『土』を版画にしようと心がけたかしれない。その度に『土』を読みかえし、場割りまで決め、岡田村を歩き回った。でも未だにはじめられないでいる。
 その最大の原因は農民を知らないからである。私は陶器の町、益子に5年間一人暮らしし、床に入るまで農村を見、農民をスケッチし、版画を作った。
 しかし、『土』を版画にする段になると、手はにぶるのである。
小説『土』の勘次が、生きた人物として、私の腹の中で、生活をはじめないからである。小説の勘次は理解される気がするのだが、生きてこないのである。          
      

     


「家族」1959年頃
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