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カラマツの林

 北原白秋の詩に「落葉松」があります。確か中学校の教科書にあった詩なので覚えている方もおられると思います。「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。・・・」と「からまつ」という語がいくども繰り返されていたのは覚えています。当時、「落葉松」を「からまつ」と読むことを覚えて、少し得意になったこともありました。しかし、このときどれほど落葉松という木を知っていたかは定かではありません。落葉松の林を実際に知ったのは栃木県日光の女峰山の中腹を歩いたときでした。そこは植林であり、夏の間は気にもかけないで落葉松の林を歩いていました。しかし、秋、そこは一面黄色の山腹に変わったのでした。針葉樹なので葉の一本一本は太い針のように見えますが、落葉した地面は黄色い絨毯へと変わっていました。針葉樹でありながら我が国では唯一落葉樹なのです。落葉松という名の由来が理解できます。しかし、それだけではありません。芳しい匂いがその林だけでなく山や谷全体に漂うのでした。その匂いはわけもなく切なく胸が締め付けられる思いになります。ちょうどシカたちが交尾する時期であり、雄シカが谷のあちらこちらで啼きあい、谷間に響いて聞こえてきます。若い人たちのことばをかりれば「胸キュン」ということになるのです。「奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」(古今集 猿丸太夫)という歌を現代に至っても変わらないものだと感じる時間でした。ぜひ、秋のこの時期に落葉松の林を歩いていただきたいと思います。

2017年10月19日

ポプラの木

 ポプラというと北大のポプラ並木を思い出します。竹箒の先がすっと立てられたような木の形を誰もが思い浮かべると思います。モネのポプラ並木の連作も箒状の背の高いポプラです。しかし、私が知ることになったポプラの木はそのイメージとは全く異なるものでした。私が日ごろ歩いている公園のほとりにある木が、ゆめゆめポプラの木であるとは思いもしま せんでした。根元近くから4本ほどの太い枝が出て、さらに枝分かれし大きな樹冠を広げているのですからとてもポプラを想像できませんでした。他の木の多くがドンと1本の幹を出しているのに比べたら何本もの幹があるように見えるのですから注目してもよさそうでした。しかし、その近くにある柳の木が大きく、風が吹けば気持ちよさそうに揺らぐので、ついつい大きな柳へ目が行っていたのかもしれません。

 それが五月の末のある日のことでした。いつものように歩いていると遊歩道に白い綿毛のようなものが落ちているのが目に留まりました。目が慣れるにつれ、いくつもあちこちに落ちているのがわかりました。中には折れた小枝に絡みついているものもありました。その小枝を見た限りでは蜘蛛の巣か、あるいは昆虫がつくりだした糸が塊のようになったようにも見えました。折から池の方から風が吹き、そのたびに白い綿毛が飛んでくるのでその木を通り越して池の畔へと向かいました。しかし、池の先から綿毛がやってくるわけではありませんでした。振り返って通り越した木に目をやると、枝々に綿毛があるのを発見したのです。綿毛は小枝に絡みついているだけで、その木から生まれたようには一見わかりませんでした。しかし、綿毛が多く落ちているその木の下でした。この木にしかない、他の木には絡みついてはいない。綿毛はこの木のものに違いない。いったい何の木なのだろう。そんな思いを抱いて家に帰って調べたら、なんとその木はポプラでした。ポプラにはいろいろな種類があることもわかりました。驚いたことにポプラはヤナギ科でした。ポプラのイメージとしてある北大のポプラはセイヨウハコヤナギであることがわかりました。そして池の畔の木は品種改良したポプラで、カイリョウポプラ(改良ポプラ)とよばれるそうです。改良ポプラにはユーラメリカポプラやカロラインポプラなどがあるそうです。カイリョウポプラではかわいそうなので正確性に欠けますがカロラインポプラと呼んであげたいと思います。そういえば、中国の長春から来ていた留学生が初夏には街路樹から雪のように綿毛が降るヤナギのあることを話していました。あまりに多く綿毛が道路に舞うので、迷惑だとも言っていましたが、私には素敵な光景だと思ったことを思い出しました(写真左側の木がポプラ、右側の池のそばの木はヤナギ)。


 5月の半ば、郊外のショッピングモールへ出かけました。広大な駐車場の一角に貯水池があり池の畔は葦と低木で占められていました。ずいぶんとヨシキリが池の畔のあちこちで囀っているので、池に近づいたところ綿毛が1つ2つと飛んできました。タンポポではありません。もしやと思い池の畔の低木に目をやると、たくさんの綿毛がちょうど風に吹かれて舞っているのが見えました。今まさにその盛りのように初夏の陽に当たり眩しく乱れ飛んでいたのです。こんな身近なところにもカロラインポプラは植えられていたのでした。訪れるヒトがいないのが残念です。

 2019年のいつだったでしょうか。久しぶりに公園へ行って愕然としてしまいました。このポプラの木が伐採されてしまっていたのでした。根元だけが痛々しく残され、理解できませんでした。私は大切な人を失ったような気持になりました。こんな素敵な枝ぶりのポプラの木はこの辺りにはありません。この花がどんなにおもしろい花をつけるのかを、公園を訪れる人に伝えることもできなくなりました。何の邪魔になるのでしょうか。もう、写真のようなカロラインポプラはいません。

2017年10月30日

辛夷の木

 八月の末、厳しい暑さが和らいだので久しぶりに夕方の公園を散歩しました。ひととおり歩き終えたころにはうす暗くなり始めていました。この時期、公園には咲く花はなく、草木の緑だけが目に映っていたのですが、公園の片隅に目がいったとき、何か赤い花のようなものをつけている木が目に入りました。それは遠目では木の全体に咲いているように見えました。近づいてみると花ではなく実のようなものでした。その実のようなものは、一粒一粒が枝に実をつけているのではなく、実がブドウのように集まっているものでした。人体の肺の構造を知っているものならば、肺を作る肺胞が集まった肺胞嚢とよばれるものと似ているようにもみえました。あとで家内にそのことを話したら、気持ち悪いと一蹴されました。この実のようなものが赤みを帯びていて遠目には赤い花のように見えたのでした。その時期には遠いですがクリスマスツリーのオーナメントのようにも見えました。


 家に帰って調べてみたところ辛夷の木であることがすぐに判りました。白い花をつけた春先の辛夷の木からは想像ができないものでした。不思議な木の実は集合果とよばれる果実でした。これが熟すると房のような袋果から種が垂れるそうです。そこで辛夷の名の由来が、コブ状の果実から垂れ下がる種子(シュシ)ということでコブシと名づけられたそうです。しかし、もっぱら集合果の形が拳のようだからというのがその名の由来ともされています。桜の開花のあとに咲く辛夷の花は、温かな春の証であり、北国では田仕事を始める目安でもありました。そんなことから田植桜ともよばれているそうです。


 辛夷の花というと堀辰夫の大和路・信濃路を思い出さずにはいられません。堀辰夫は奈良からの帰りの列車で、ずっと車窓の外、木曽川の風景を眺めていたにもかかわらず、妻や他の乗客が見たという辛夷の花を見逃してしまいました。それはもしかしたら季節外れに降っていた雪のせいかもしれないと堀辰夫は思いました。「とうとうこの目で見られなかった。雪国の春にまっさきに咲くというその辛夷の花が、いま、どこぞの山の端にくっきりと立っている姿を、ただ、心のうちに浮かべてみていた。そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫のようにぽたぽたと落ちているにちがいなかった。・・・」堀辰夫はそう書いてその短編を閉じました。


 私は高校卒業の春にその信濃路の列車の旅を逆に辿っていました。新宿から夜行列車に乗り、翌日の早朝、南木曽に降りてそこから妻籠、馬篭とめぐりその日のうちに名古屋を回って横浜へ帰りました。友人との短い思い出の旅でした。車窓を眺めながら、辛夷の花のことを友人に話したと思います。それはその白い花が白く可憐であるがゆえに、ロマンチックにとらえていたからかもしれません。だから、辛夷の木の名の由来が、握りこぶしであることがどうしても好きになれません。先人が、拳(コブシ)ではなく、モクレン(木蓮)を辛夷の字をあてたというのも、同じような気持であったかもしれません。


 10月の夕暮れ、あの辛夷の果実はどうなったかと思い散歩に出かけました。木の下に果実が相当数落ちていました。そのひとつを拾ってみると確かにあの房から赤い種が出ていました。10個ほどの房から出たそれぞれの種は細い紐のようなものとつながっていました。ちょうどへその緒のようでもありました。それはまだ果実を落としていない枝にもみられました。袋果から種が垂れるというのはこのことだろうと思いました。数えきれない種子をその木は生んだことになります。落ちた種はその場所に生えるのでしょうか。しかし、毎年このあたりで辛夷の木が増えた様子はありません。鳥がついばんでどこかで子孫を残すものもあるかもしれません。子孫を残すのは並大抵のことではないようです。それゆえに、毎年毎年種を生むという営みを繰り返しているのでしょう。そして、12月、辛夷の果実の姿はどこにも見当たらなくなりました。それにかわって枝には大きな芽が付いていました。それは冬芽と呼ばれ、春に咲く花と葉が白い毛をまとって冬の寒さをしのぐものでした。もう、春の準備をしているのです。

 しばらく辛夷の木のことを忘れていました。忘れていたというよりは、毎年変わらずにあることに大きな関心を持たなかったということでしょう。それが或る年の3月のはじめ、辛夷の木の芽がだいぶ大きくなってきたことに気が付きました。いったい花が開くのはいつ頃かと思いながら辛夷の木の周りを巡っていたら、周辺のツツジの木の傍らで小さな辛夷の木を1本見つけたのです。辛夷の木だと分かったのは真上の辛夷の木と同じ木の芽を2つ付けていたからです。辛夷の木の子供に違いありません。あれだけの数の辛夷の果実の種があっても子孫を残すのは大変なことだと述べましたが、それがとうとう実を結んだのです。これは私なりに大発見でした。この子供は成長できるのでしょうか。あまりに親に近いところに出てきてしまったので、不安が残る発見でした。公園管理者が伐採してしまうかもしれません。せめて別の場所に移してくれればいいのですが、心配です。ある公園のポプラの木も伐採されてしまいました。川べりに植樹された三春の滝桜の子孫も伐採されてしまいました。伐採される理由が見当たらないことにただ一人憤慨するだけでした。

 3月下旬20度超える温かい日のことでした。暖かさに誘われて公園を歩いていたら、遠目に白い花をいっぱいにつけた木が目に飛び込んできました。あの辛夷の木です。それは見事に咲いていました。まさに真っ盛りでした。もしかしたら、満開のそして最も美しい時期に見るのは初めてかもしれません。青空を背にした白い辛夷の花は幾重にも重なり花の迷宮にいるようでした。それに惑わされたのでしょうか、かすかな甘い匂いがしてくるのです。嗅いだことのある香りです。辛夷の花の匂いでしょうか、花に顔を近づけると、やはり花から匂いが漂ってきました。匂いに関心のある方なら記憶にある匂いだと思います。ある樹木の花の匂い、もう少し言ってしまえばその花のお茶の香りです。はたして辛夷の花の匂いは何に似ているのか。関心がある方は満開の辛夷の花に出逢ってきいてください。

 2020年の春先から世界は新型コロナウイルスでパンデミックに陥り、2021年のこの春も世界では第2次世界大戦時よりも多くの死者を出してまだ続いています。しかし、自然はそれにお構いなく営みを続けています。あたふたと生きている人間にしばし、立ち止まって考えよ。自然をよく見よと言っているかのようでした(3月24日)。

2017年11月20日

木の涙

 閉じこもりがちな寒い日々、さすがに体が要求してきたのでしょうか、川べりのいつもの散歩道を歩いてきました。もちろん冬の寒さとしてはそれほど寒いという日ではありません。そうでなければ散歩をする気にはなれません。相変わらず土手の木々は殺風景で春の遠さを感じるばかりでした。まだまだ木の芽は堅いだろうと思って春には桜並木となる桜の枝目を見たときでした。木の目の先に雫がついているのを見つけました。雨が降って雫が木の芽の先まで垂れてきたのでしょうか。そのときはそう思いました。何本かの枝先の木の芽にはそのような雫が見られたからです。ただ不思議だったのは垂れ落ちるようではなく上を向いた木の芽の先にもあるからでした。まるで吹き出てきたようでもありました。それはその桜並木だけではなく、川べりの公園の枝垂桜の木の芽もそうでした。少し考えを進めて、木の水分が漏れ出てくるようなことがあるのかもしれない、これは木の芽の涙かな、と思ったりもして家へ戻りました。夕暮れまじかだったからです。

 植物についてよく学ばなかった私は、気になったことは図鑑などで調べることにしています。そこで発見したのは、木の芽の涙のような雫は、実は木の芽が冬の寒さをしのぐ防御機構でした。それはただの水ではなく、樹液が染み出てくるということでした。樹液は油分を含み、いわば不凍液の役割をするというのです。冬の寒さから木の芽(冬芽)を守る働きがあるということでした。トチノキなど北方系に起源がある木にはそのような仕組みが見られるそうです。温暖系の樹木にはそのように守る仕組みはなくアジサイがその例とされていました。しかし、本当に桜の木の芽の雫は樹液なのでしょうか。そして冬芽を守る働きがあるのでしょうか。その書物には桜の冬芽については書かれていませんでした。トチノキよりも目にする、気がかりな桜の冬芽です。

2018年02月25日

ヒカゲツツジ

 ツツジは日向の似合う木です。私の実家はお寺で、参道にはツツジが植えられていました。住職であった父親がツツジが好きだったようです。真っ赤な花びらを持つもの、紅紫色のもの、白いものと、それぞれの名前があるはずですが、すべてツツジで済ませていました。参道を掃くのが私の役目であり、学校へ行く前、法事のある朝には植木の下まで掃除をしなければならなかったので、観賞の余裕はありませんでした。特に湿った地面に落ちてこびりついた花弁は掃除には厄介でした。それでもやはりツツジは日向に咲くもので、眩しい陽光とツツジの記憶はいつも一緒にありました。実家のある横浜から仕事を得て栃木に移ったのは40年ほど前になります。栃木やその近辺にはツツジの名所はあちこちにありました。しかし、実家で見慣れたせいか、庭掃除という苦労をした思いからかどうかわかりませんがさほど興味はありませんでした。ただ、山の近い栃木では山に咲くアカヤシオやシロヤシオがその季節になると話題に上ります。山の好きな私はその季節になると山登りの楽しみの一つとしてきました。その群落の美しさはそこに自らを置かなければわからないものがあります。山歩きをして偶然出会うツツジの群落はその発見とある種の幸福感の起こすものでした。

 最近、足しげく通うようになった山が宇都宮市森林公園の主体をなす古賀志山です。最高峰の標高は古賀志山山頂の567mの低山ですが、この山の背後の北に控える日光連山とは異なる特色をもっています。日光連山は男体山をはじめ女峰山、大真名子山、日光白根山と火山でできた山ばかりですが、古賀志山はかっては深海底の地殻がプレートにのって遥か太平洋上から日本列島に衝突隆起してできた山だからです。岩石学ではチャートと呼ばれる岩層を見ることができます。山のいたるところにその衝突の凄まじさを想像させる突きあがった岩場がそそり立つます。突きあがった岩は板状節理を起こした自然の造形の不思議さをみせてくれます。

 4月の中旬に咲く花の一つにヒカゲツツジがあることを知ったのはこの春でした(2018年)。今年は例年よりも10日ほど早く桜が咲きました。これは桜だけでなくすべてが速く進んだようでした。この山に二枚岩と呼ばれる見晴らしのきくところがあります。岩が2つに割れたような大きな岩の峰です。ヒカゲツツジがこの岩の周辺にあることを知ったのは例年ならば、ちょうど開花の時期でした。ヒカゲツツジは少し大きめの白い花びらをつけます。葉や枝振りはシャクナゲのようにもみえます。ツツジは日向が似合うという偏見をもっていますから、ヒカゲと名のつく花がどんなふうに群生しているのか、その様子をを想像しながら二枚岩に向かいました。しかしちょうど良い時期であるはずだったのに、群落は目に入ってきませんでした。どうやら、その時期を終えてしまったようでした。足早にその季節は去ってしまったのです。それでもと岩の周囲を廻ったところ一輪の白い花を見つけました。それはまさしくヒカゲツツジでした。私を失望させないようにと1輪だけ花を残しておいてくれたような気がしました。もう明日にはしおれた花を落としてしまいそうにも思えました。しかし、それだけで十分でした。

 それにしてもヒカゲツツジとは可哀想な名前が付けられたものです。でも、岩陰に潜んで私を待っていてくれたのかと思うと愛おしく思えてきました。

2018年05月17日