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◆ガイア・ギアミニコラム

「紅の豚」とのフシギな関係

ガイア・ギアのラジオドラマが放送中だった1992年7月18日に公開されたジブリ製作の映画「紅の豚」。この作品と「ガイア・ギア」には共通して出演している声優が準主役フィオ・ピッコロ役の岡村明美を初め7人(岡村明美、稲垣雅之、古本新之輔、松岡章夫、田中信夫、新井一典、森山祐嗣)もいる。これはガイア・ギアの音響監督の浅梨なお子氏が「紅の豚」の音響監督もつとめていることが関係していると思われる。おそらく「紅の豚」で起用した声優を「ガイア・ギア」にも連れてきたのであろう。ちなみに浅梨氏は他にも「おもいでぽろぽろ」「耳をすませば」でも音響監督を務めている。

幻のPHASE-3

ガイア・ギアαには人型形態のPHASE-1と戦闘機形態のPHASE-2とが存在するが、実はメカデザイナーの伊東守氏はその中間形態であるPHASE-3も構想していた。このPHASE-3見た目ははっきり言ってマク○スのガウォークで、初出となる資料はサウンド版CD3巻ライナーに掲載された「伊東守 アート・ワークス」(尚この資料は他にも貴重な準備稿段階の設定画がいくつか掲載されている)。伊東氏によると、実際このスタイルへの変形は可能であり、たまたま劇中での使用がなかっただけとのこと(伊東氏インタビューより)。実際劇中で使用されていたらどのような活躍をしていたのであろうか?想像(妄想)してみるのも一興かもしれない。

AMステレオ放送について

「ガイア・ギア」のラジオドラマが放送された1992年にTBS・文化放送・ニッポン放送の在京キー局3局でAMステレオ放送が開始された。このAMステレオ放送によって「ガイア・ギア」のようなAM放送のラジオドラマでもステレオで楽しめるようになったのだが、実はAMステレオ放送は海外ではすでにアメリカ・カナダ・中国など12カ国600以上の放送局で放送されており(1991年当時。正確には612局)、日本が13カ国目の国とやや遅い開始となった。このAMステレオ放送方式にはハリス方式,マグナボックス方式,カーン方式などいくつかの方式があり、日本ではモトローラ社が開発した「左chの信号と右chの信号を足した『和信号』と左右の信号の差である『差信号』でステレオ化する」C-QUAM方式(モトローラ方式、位相多重方式とも)が採用された。実際の放送は1992年3月15日に開始され、管理人のおぼろげな記憶によると文化放送ではその日は菊池桃子がナビゲータとなり、音当てクイズや「現代版うさぎとかめ」の朗読などが放送されたのを記憶している(補足:文化放送ホームページの「特別番組史」によると「ステレオ文化放送今日まで…そして今日からWelcome to stereo」というタイトルであったらしいが、この番組が管理人の記憶している番組かどうかは不明である)。余談になるが、1950年代には二波を使用した擬似的ステレオ放送が考案され、1952年にはNHKが第一放送と第二放送を使用した実験立体放送を行っている。なお、IT辞典等で1990年放送開始とあるのは真っ赤な嘘なので信用しないように。

大佐の愛したワーグナー

ダーゴル大佐が愛し、「聞くものに力を与える」と精神的支柱としていたのが「楽劇の創始者」として知られる19世紀の作曲家、リヒャルト・ワーグナーである。ワーグナーは1813年5月22日にライプツィヒに生まれ、20歳から指揮者としてヨーロッパ各地を転々としながら「婚礼」(途中で挫折)、「妖精」、「恋愛禁制」などの歌劇を作曲するも上演の機会すらないか、あったとしても惨憺たる結果に終わっていた。しかし1842年にドレスデンの宮廷劇場で上演されたローマの護民官を主人公にした「リエンツィ」が大成功を収め、それまでの窮乏生活とは打って変わり立て続けに「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」と彼の作品が同劇場で上演されることになった。また1850年にはワイマールで「ローエングリン」が上演され、この時指揮を執ったのが「ため息」「ラ・カンパネルラ」などのピアノ曲で知られ、後に彼の義父となるフランツ・リストであった。彼はその他にも「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルグのマイスタージンガー」「パルジファル」などの素晴らしい作品を残しているが、やはり彼を代表する作品といえば「指輪三部作」こと「ニーベルングの指輪」になるであろう。この「ニーベルングの指輪」は序夜の「ラインの黄金」、第1日の「ワルキューレ」、第2日目の「ジークフリート」、第3日の「神々の黄昏」で構成され、中世ドイツの英雄叙事詩「ニーベルングの歌」を下敷きに、その他北欧神話などさまざまな伝承や物語を織り交ぜられたストーリーとなっている。この作品を作り上げるのに彼は実に23年もの期間を費やしており、まさに心血を注いだ作品といえよう。この作品の4日間に渡る初演は1876年8月13~17日(15日は休み)にかけてバイロイト祝祭劇場にて行われたが、序夜の「ラインの黄金」だけは1869年9月22日に彼の意に反し、バイエルン国王ルートヴィヒ2世の命令によってミュンヘン宮廷劇場にて上演されている。ちなみにこの公演に激怒した彼はこの時タクトを執ったフランツ・ヴュルナーに対し「私のスコアから手を引かないと身の破滅になるぞ!」と過激な手紙を送っている。彼は1883年2月13日にベネチアにて69歳でこの世を去ったが、彼の残した楽曲の人気は今も衰えることなく、毎夏バイロイト祝祭劇場で行われるバイロイト音楽祭は5年先のチケットまで予約で埋まってしまうほどである。
さて、「ガイア・ギア」の中では彼の曲が3曲使われている。最も多く使われていたのが「ジークフリート牧歌」。3話のレストランでの食事シーン、9話のバルコニーで語らうシーン、22話の冒頭~ノイシュヴァン・シュタイン城のシーン、24話のヘリのシーンなどである。このジークフリート牧歌は彼が妻コージマ(リストの娘、元々は彼の弟子ハンス・フォン・ビューローの妻だった)のために作った曲であり、彼女の誕生日である1870年12月15日に彼の邸宅のコージマが使う寝室脇の階段において、彼女へのプレゼントとして演奏された曲である。また24話の演説シーンでは「神々の黄昏」の中で印象的に使われる「ジークフリート葬送行進曲」が、26話冒頭のシーンとラストのアフランシと対峙するシーンでは「神々の黄昏」のラストに流れる「神々のたそがれの動機」が使われている。

大佐の愛した城

ワーグナーと同じくダーゴル大佐が精神的支柱とし、サウンド版では地球逆移民計画のシンボルと考えてたのが「白鳥の城」と称されるノイシュヴァンシュタイン城である。このドイツロマン主義建築の代表ともいえる城はバイエルン国王ルートヴィヒ2世によって、王が幼少期を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城にほど近いペラート峡谷山頂の12世紀の城跡に建てられた。この城の設計計画を担当したのは舞台美術家のアンジェロ・クワッリヨ二世とクリスチャン・ヤンケ、彼らが提出した舞台装置などのラフスケッチを設計図に起こしたのが宮廷建築局長エドワード・フォン・リーデル(1874年以降はゲオルグ・ドルマン)。また王自身も「対称的な建築などいらない。ほしいのは絵画的な多様性を備えた建築だ」と内装など細かく注文し、そのたびにヤンケは下絵を描き直しをせざるを得なかった。王はこの城をワーグナー作品のひとつの舞台装置になぞらえ、この城でのワーグナー作品の上演を夢見ていた。実際アフランシがエヴァリーと再会する玉座の間は「パルジファル」の聖杯神殿の舞台装置に、歌人たちの間は「タンホイザー」の、寝室は「ローエングリン」の舞台装置になぞらえている。城は1868年に着工され、1892年に完成するがその時すでに国王ルートヴィヒ2世はこの世にいなかった。王の望みであった城でのワーグナー作品の上演が行われるのはナチスがドイツ全土を覆い始めた1933年2月13日のことであった。また、この城を最も美しく見ることが出来るといわれるペラート渓谷にかかるマリエン橋は王の母親マリーの命によって1866年に完成したものである。
ダーゴル大佐が「自然と調和しながら存在」「マハのやろうとしていることを象徴している」と絶賛したこの城は建設当時こそ王室の財政を逼迫させたものの、現在ではドイツを代表する観光地として大きな観光収入源となっているのは皮肉な話である。なお城内の写真撮影は一切禁止となっている。写真の代わりに絵葉書を買わせようとするバイエルン州観光局のいんb・・・

質実剛健の地、バイエルンとメルヘン王

さて、このダーゴル大佐が愛したワーグナーと城をつなぐのがバイエルン王国第4代国王ルートヴィヒ2世である。バイエルンはスイス・オーストリア国境に面した現在のドイツ南方のミュンヘンを中心とするドイツ最大の州である。このバイエルンという名前は5~6世紀にこの地方を占拠していたゲルマン民族の一部族、バヨゥアリ人からとられたものである。この地は早くからローマ化していたが6世紀に東フランク王国に服属、907年に一時独立するものの1180年にハインリヒ公が追放され神聖ローマ帝国に吸収され、その後20世紀初頭にいたるまでヴィッテルスバッハ家によって支配された。神聖ローマ帝国内では選帝侯となり14世紀には皇帝ルートヴィヒ4世を輩出している。神聖ローマ帝国が1806年に解体すると王国として独立、選帝侯マクシミリアン4世ヨゼフがバイエルン王マクシミリアン1世として即位した。彼の曾孫にあたり、1864年に第4代バイエルン国王として即位するのがルートヴィヒ2世である。彼は1845年8月25日ミュンヘン郊外のニンフェンブルグ城にて第3代バイエルン国王マクシミリアン2世(ルートヴィヒ誕生当時は王太子)の長男として誕生し、1864年3月に父マクシミリアン2世の死去に伴い第4代バイエルン国王として即位した。彼は少年期から内向的で夢見がちな傾向にあり、特に1861年2月2日にミュンヘン王室オペラ座で上演された「ローエングリン」を鑑賞してからはワーグナーと彼の作品の世界である中世の英雄たちの物語に深く傾倒していく。即位直後に彼は最初の命令として王室秘書官長プフィスターマイスター男爵にバイエルン国内に亡命していた「危険な革命家」ワーグナーの探索を命じている。5月4日にワーグナーに謁見した王は彼の借財の肩代わりと彼の作品の上演を約束し、1865年に「トリスタンとイゾルデ」をミュンヘン国立宮廷劇場で上演している。しかしこの時期から王室側近からはワーグナーの浪費癖とハンス・フォン・ビューローの妻コージマとの不倫問題からワーグナー排斥運動が起こり、1865年12月首相フォン・デア・プフォルテンから「国民をとるか、ワーグナーをとるか」と最後通牒を突きつけられた王はバイエルン王国退去命令をワーグナーに命ぜざるを得なかった。だがワーグナーと王との愛憎取り混ぜた関係はその後も続き、1868年には王の全面的援助の下「ニュルンベルグのマイスタージンガー」が上演された。翌69年にはミュンヘンで王の命令の下ワーグナーが同意しないまま「ラインの黄金」が上演されいったん関係は冷え切るが、王のワーグナーのひいては彼の作品世界への憧憬は止むことが無かった。それを如実に示しているのが、城の建設である。彼が新築した3つの城館のうち、最初に着工され唯一存命中に完成したリンダーホーフ城はヴェルサイユのトリアノン宮殿を模倣したもので、その庭園には「タンホイザー」に登場するヴェヌスブルグを模した「ヴィーナスの人造洞窟」を建造し、アーク灯に照らされる中、王は金の小船で物思いにふけっていたという。他にもノイシュヴァンシュタイン城、ヘレンキムゼー城を建設し、「トリスタン」と名づけた外輪船でスタルンベルク湖を散策するのを好むんでいた。しかし、バイエルン王国をとりまく環境はドイツ統一を目指し北ドイツ連邦を結成し、バイエルンを中心とする南ドイツ諸国も吸収せんとする鉄血宰相ビスマルク率いるプロイセンの圧力と、それに対してあくまで独立を守り抜こうとする保守派カトリックのバイエルン愛国党の突き上げに揺れて組閣・倒閣が相次いでいた。王自身はプロイセン、ひいてはビスマルクの鉄血政策に反感を抱いていたものの、結局普仏戦争末期の1871年に北ドイツ連邦に南部ドイツ諸国を加えた統一ドイツ連邦帝国が発足。バイエルン王国は連邦を構成する一国家にすぎなくなった。その後失意の王はますます倒錯的世界に没入し、城の建設により王室の国庫は破綻寸前にまで陥った。ついに1886年に6月11日王は「精神障害」と診断されベルク城に幽閉されることとなる。そして翌々日の6月13日にスタルンベルク湖畔にて、王を「精神異常」と認定したベルンハルト・フォン・グッデン博士とともに遺体で発見された。この二人の死にはいくつもの疑問点があり、今でもその真相は謎のままである。王はまだ41歳であった。その後王位はルートヴィヒの弟オットーが継いだが、彼も精神的に障害があり以前から監禁されていたため1913年に死亡するまで叔父のルイトポルトとその子ルートヴィヒが摂政をつとめ、1913年からは摂政ルートヴィヒがルートヴィヒ3世として最後の王位についた。ドイツ帝国は1918年に起こったドイツ革命により解体、ワイマール共和国建国に伴いバイエルン王国も姿を消すこととなった。
ダーゴル大佐はその演説の中でバイエルンについて「質実剛健な土地柄」「マハの本拠地を築くのにふさわしい場所」と語っていた。たしかにバイエルンの民衆についてはそうであったかもしれない。だが、この土地を治めていた支配者は、アイルランド生まれの踊り子ローラ・モンテスを寵愛して国政を乱したマクシミリアン一世、普墺戦争においおてオーストリア側につき敗北したマクシミリアン2世、遡れば神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と争い所領を失ったハインリヒ12世、公家内部で争いあっていた12世紀のヴィッテルスバッハ家といい、必ずしも質実剛健とはいえないのではいか?とも思ってしまう。
さて、ここからは余談になるが、バイエルンとワーグナーを結ぶもうひとつの糸、現代ドイツの暗部であるナチスとアドルフ・ヒトラーについて軽く触れておく。ナチスの正式名称は「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialisttische Deutsche Arbeiterpartei)」、1919年1月5日にミュンヘンで成立したドイツ労働者党が母体となっている。1921年にこの党の実権を握ったのがアドルフ・ヒトラーである。ヒトラーは12歳の時に「ローエングリン」を鑑賞して以来、自らの精神的先駆者としてワーグナー、そして彼の作品に登場する「ローエングリン」と「リエンツィ」への崇敬の念を持ち続け、ニュルンベルグで行われる党大会では開始の音楽として常に「リエンツィ」の序曲を演奏させていた。1923年に彼はバイロイトのワーグナー家へ赴きワーグナーの息子ジークフリードに、「リエンツィ」に憧れたこと、必ずや彼のような民衆の護民官になるという決意を語ったという。その年の11月にヒトラーはミュンヘンにおいてワイマール政府打倒を目指してクーデターを起こすが即日鎮圧、彼は裁判にかけられることになる。が、裁判官は彼に同情的であり、国家転覆という大罪にもかかわらず禁固5年の判決(実際には8ヶ月あまりで釈放)を受けている。この後ナチスは暴力による権力奪取から、選挙による合法的な権力奪取へ方向転換。1933年には首相にまでのぼりつめた。34年にヒンデンブルグ大統領が死亡すると総統(ヒューラー)に就任し全権を掌握した。その後は誰もが知るとおり第二次世界大戦への道を突き進むのことになる。最近までイスラエルでは彼が崇拝していたというだけの理由で、ワーグナーの楽曲は禁止されており、解禁後の演奏会でも騒音を出して妨害しようとした観客がいるほどだった。

風の名前いろいろ

ダーゴル大佐が体全体で受け止めて地球への思慕を深め、地球逆移民計画の原点ともなった風、ミストラル。アルプスからローヌ川沿岸を吹き抜ける乾燥した冷たい風である。作品の中では「季節風」とされているが正確には局地風に分類される。そもそも風の種類には貿易風・偏西風のような一年を通して同じ方向に吹く「恒常風」、海と陸の温度差により季節により吹く方向が逆になる「季節風」、台風やハリケーンのように「熱帯低気圧による風」、そしてミストラルのように限られた特定の地域にだけ吹く「局地風」などの種類がある。局地風には古くからミストラルのようにその地域固有の名前がつけられることが多い。最も有名な局地風はその名前がその現象そのものの名前にもなっているフェーンであろう。フェーンは元々はアルプス山中に吹く熱い南風の名前だが、現在では湿った空気が山越えなどで下降気流となり、乾燥した熱風として吹き付ける現象一般を指す言葉になっている。日本でも日本海側にて春~初夏にかけて見られる現象であり、雪崩れや山火事の原因ともなる。1933年7月に山形で最高気温40.8℃を記録したのもフェーンが原因である。フェーンほど一般的ではないが、同じく現象の名前となっているのがディナルアルプスを越えてアドリア海のダルマチア海岸に冬季吹く寒冷なボラである。ボラはフェーンとは逆に寒気がそれほど断熱昇温せずに、渓谷部などで風速を増して寒冷な強風をもたらす現象であり、関東の空っ風などがボラ現象に分類される。ほかにも局地風には春にサハラ砂漠からイタリア南部に吹く蒸し暑いシロッコ、フェーンと同じくロッキー山脈東麓に吹きおりる高温で乾燥した風チヌーク、北米大陸や南極に吹く地吹雪を伴うブリザード、その他テワンテペサー、スハベイ、エテジア、コッシャバなどが局地風として有名である。もちろん日本にも局地風はある。最も有名なものが夏に東北地方太平洋沿岸に吹くやませであろう。他にも六甲颪、赤城颪など特定の山から吹き降りる颪(おろし)、最上川の清川だし、北海道の羅臼だしなど地峡地帯に吹くだし、岡山那岐山麓の広戸風、愛媛県の燧灘に面する平野部に法皇山脈から吹き下ろしてくるやまじなどがある。局地風以外にも、特に台風の季節に吹く南よりの暴風の引佐(いなさ)や伊豆半島から瀬戸内海地方にかけて使われる春から夏に吹く真風(まじ)、沖縄で寒露の頃吹く北方よりの季節風ミーニシ、東北・北陸で冬の季節風を指す玉風、西日本で冬の季節風をさす乾風(あなじ)など様々な名前が風につけられている。

同人誌におけるガイア・ギア

私は同人誌という世界には非常に疎く、コミケなるものにも一度だけオフ会の集合場所ということで行ったきりであり、この世界でガイア・ギアがどのように扱われているかは詳しくない。が、おそらく人の話を伝え聞くに扱っているものは皆無と言ってもいいのではないかと思う。そのような状況下で私が知りうるただ一冊のガイア・ギアを取り扱った同人誌がある。それが月刊アニメージュで連載中の富野由悠季氏の「富野に訊け!」でイラストを担当している漫画家やまむらはじめ氏が所属するサークル加賀太鼓が発行した「G PROTOTYPE」である。この同人誌はブレンパワードがWOWOWで放送されていた1998年の夏コミで発売されたものであり、富野ガンダムに関する論評(というよりも感想に近いが)を載せている。対象となる作品は1st、Z、ZZ、逆シャア、ハイストリーマー、ベルチル、閃ハサ、F91、クロボン、V、ガイア・ギアと映像・小説・コミックと媒体の如何を問わない。肝心のガイア・ギアに関する部分だが、「いつもの如く思いついたネタ(今回はシャア・コンティニュー・オペレーション)をつきつめる事なく途中で放棄した快作!」「1~2巻はちょっとカッタるいんだけで3巻以降のMS戦や組織戦の描写は流石で果然盛り上がる・・・んだが、ラストは・・・。そんなに急がなくてもって感じで・・・」と微妙な線で本質を突いている。だが、サウンド版を聞いていなかったり、伊東守氏のお名前を「伊藤守」とまちがえていたりと中途半端な感も否めない。現在の入手手段だが、Googleで検索したとこと私が購入した古本屋以外の購入手段は発見できなかったので、ネットオークションなどで購入するしかないだろう。

登録商標としてのガイア・ギア

今現在特許庁に「ガイア・ギア」という名で登録されている商標は、蝶理株式会社が「織物,メリヤス生地」として登録している「GAIAGEAR\ガイアギア」一つである。しかし、以前には角川書店が8つの分野で「ガイア・ギア」を商標として登録していたことがあった。
 登録していたのは以下の8つ。

  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイアギアー)」→台所用品(電気機械器具、手動利器および手動工具に属するものを除く)日用品(他の類に属するものを除く)
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイアギア)」→装身具、ボタン類、かばん類、袋物、宝玉およびその模造品、造花、化粧用具
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイア、ガイアギア)」→はき物、かさ、その他本類に属する商品
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイアギア、ガイア)」→家具、畳類、建具、屋内装置品(書画及び彫刻を除く)屋外装置品(他の類に属するものを除く)記念カツプ類、葬祭用具
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイアギア)」→おもちや、人形、娯楽用具、運動具、釣り具、楽器、演湊補助品、蓄音機(電気蓄音機を除く)レコ-ド、これらの部品および附属品
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイアギア)」→印刷物(文房具類に属するものを除く)書画、彫刻、写真、これらの附属品
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイアギア、ガイア)」→時計、眼鏡、これらの部品および附属品
  • 「ガイアギア\GAIAGEAR(呼称:ガイア、ガイアギア)」→紙類、文房具類

全て出願日は88年の5月31日であった。商標権は10年ごとに更新が必要であり、最初の10年が経過した98年には更新されたものの次の10年が経過した08年には更新が行われなかったようで、現在では角川書店の持つ商標登録は失効している。実際にこのような商標を登録し、どのような商品の展開を考えていたのだろうか。当時の角川書店の目論見を知りたいものである。

※このページは以下の資料を参考にしております

サウンド版CD-3巻ライナー
月刊ニュータイプ1991年8月号
文化放送
IICHI HOME THEATER(閉鎖)
CQ出版社
ラジオの遠距離受信のテクニック
音楽の友社 作曲家別名曲解説ライブラリー2「ワーグナー」
TBSブリタニカ サントリー音楽文化展'92記念出版「ワーグナー」
岩波新書 「ワーグナー」 高辻知義著
講談社 「美と狂気の王ルートヴィヒ2世」 マルタ・シャート著
中公文庫 「狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏」 ジャン・デ・カール著
山川出版社 「世界史小辞典」 江上波夫他編
やまねこの物語-ドイツ・ミュンヘン-
バイエルン(閉鎖)
角川文庫 「わが闘争(上)」 アドルフ・ヒトラー著
東京堂出版 「最新天気予報の技術」 天気予報技術研究会編
關浩和社会科教育研究室(「風はなぜ起こるの?」)
草思社 「暮らしの気象学」 倉嶋厚著
角川書店 「空の名前」 高橋健司
サークル加賀太鼓 「G PROTOTYPE」

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